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アンゲリカの思い出 [ハンブルク]

今日はめぎ家の近況を。

と言っても今日の写真は一番新しいので2019年6月の撮影。ハンブルクにて。
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なぜこの写真で始めるかと言えば、このときの訪問がめぎにとって、そしてうちのドイツ人にとっても、アンゲリカ、つまりうちのドイツ人の父親の奥さんとの最後の時間となったから。その時の話はこちら。このあと2020年5月末にザルツブルクの聖霊降臨祭音楽祭に招待していたのだけどコロナでお流れとなり、コロナの間はもちろん会いにはいかず、その間に80歳になったのだけどコロナでお祝いもできず、今年そろそろ行ってみようかと思っていたらこの3月16日に亡くなってしまったのだ。これは2017年2月。ピントは蝋燭だけど。享年81歳。
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アンゲリカというのはうちのドイツ人の父親の3人目の奥さんで、父親と同様にハンブルクの国立オペラ座のオペラ歌手だった人。ドイツには町という町に必ずあると言えるほどオペラ座があるが、歌手はそのオペラ座付きの公務員で、定年制。一部の有名なスター歌手以外、普通はどこかのオペラ座に所属していて、若い頃はソロのパートを歌い、ある程度の年齢からは合唱に加わって定年まで勤めあげる。土日や年末年始はいつも公演で、公演がない日の日中は練習やリハーサルで、ときにはそのオペラ座が招かれた公演先の外国に伴う(それで70年代に日本へも来ている)。アンゲリカも義父もそういう仕事をした人で、しかもドイツ第2の大都市ハンブルク(人口がベルリンに次いで第2位)の国立オペラ座の歌手だったから、定年後は結構な年金が保証された生活を送っていた。
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うちのドイツ人も子役で出た頃から学生時代のアルバイトを経て30代ぐらいまで同じオペラ座で仕事をしていたため、彼にとってもアンゲリカはかつての同僚である。余談だが、うちのドイツ人は歌手にはならず、オペラやバレエの端役のバイトを続け(舞台で踊らず歌わず、しかしスマートにワインやら椅子やらテーブルやらを持ってくるとか片付けるとか、多少の演技やダンスをするとか、そういう群舞の仕事)、その後は公演先を決めるとか劇場の客演公演に招待する劇団・オペラ座を決めるとか、そういう裏方の仕事をしていた(だからオペラにものすごく詳しく、良し悪しを決める目も持っているのだ)。父親が彼女と再婚したのはうちのドイツ人が30代だったので、お母さんという意識はない。だからめぎもブログで常に「義父の奥さん」と書いてきた。
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めぎはブログのために写真を撮っているので、こうして家族で集っていてもほとんど人を撮っていない。だから、アンゲリカの写真を探しても、こんなのばっかり。
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アンゲリカの思い出と言っても、父親が生きていた頃はやっぱり父親がメインでアンゲリカはその奥さんという意識でしかなかったから、その頃の記憶があまりない。思い出すのは2011年5月にまだ存命だった父親と一緒にめぎ家を訪ねてきてくれたときのこと。このときは何と言ってもドイツではフクシマの方が大事件であったから、そうじゃないのよ津波が大変だったのよ(もちろんフクシマも大変だったけど)、とめぎは彼らに東北の町を吞み込む津波のビデオを見せたのだった。衝撃的すぎて言葉にならない、という反応をよく覚えている。このときの話はこちら
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その時、二人を連れてデュッセルドルフ近くのデューク城に行ったのだが、父親はあまり歩きたがらず、広い敷地の入り口付近で待っていて、アンゲリカ一人を連れて城と公園を散策したのだった。
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後で思えば、義父はもうその頃かなり弱っていたのだな、と分かる。義父はその年の11月に80歳で亡くなり、アンゲリカは一人になった。これは2012年の1月に訪ねたときの写真。外は雪で殺風景で、長く暗い冬が非常に応えているようだった。まだギリギリ60代で、これからの長い老後生活を一人で生きていかなければならないのだと思うと、辛かっただろうな…
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2012年の5月には彼女は一人でめぎ家を訪ねてきて…
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軽く食べてその後一緒にオペラに行ったり…その時の話はこちら
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次の日にはお昼にラインタワーの上で食事をしたりした。
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彼女、その頃はそんなことができるほど元気だったのだな…こんな真っ赤な服を着て。
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そして一緒に白アスパラを食べたのだった。
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さらに2012年は遺産分けとか形見分けとか物の整理とか、さらに血のつながらない奥さんが亡くなった場合に備えての遺言作成とか、いろんなことがあってめぎ家は5回もハンブルクに行っている。
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春には、父親が世話をしていたチューリップを今後も咲かせるために人を頼んだ、と言っていた。ブログにはバラの花のこともこちらに書いてある。その人、今もお世話してくれているのかしら…
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コロナもあったし、今は花壇、どうなっているのかな。
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奥さんは、最初の頃はいつも通り手料理で迎えてくれて…
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夜な夜なうちのドイツ人とオペラ座時代の思い出話で盛り上がっていた。
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次の日の朝も豪華な朝食を用意してくれた。このとき2012年(こちら)。
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が、だんだんと料理が大変になって来たらしく、お茶もこういう簡単なものを用意するようになり…
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孫娘(本当の孫ではないが、義妹の娘を孫として可愛がっていたのでそう書いておく)が代わりに作ったり、近くのステーキハウスからテイクアウトしたり、という風になっていった。
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それでも一周忌の頃はまだ元気だったんだな…
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綺麗にお花も飾ってたし…冬でもいつもお花をいっぱい飾っている人だった。その様子は例えばこちらこちら
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こうしてケーキも運んでいる。
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料理が辛くなったのは、その頃から奥さんは脚の付け根を痛めて歩けなくなったからで、手術をしようにも心臓が弱いから危険でできないとかで、少しずつ閉じこもりがちになっていった。その経緯は旅行記のこちらこちらこちらこちらこちらこちらこちらこちらこちらを見ると、少しずつ変化していくのが分かる。2012年は本当に普通に料理をしていたのが、それ以降だんだんとあれができなくなり、これもこうなってしまい、と変わっていくのだ。なんとか奮起させようと、手術して歩けるようになったら彼女の好きなヨナス・カウフマンのオペラを見に行きましょ、とめぎが招待し、手術してリハビリして本当に頑張って一人でミュンヘンまでやってきたのは、2016年の夏。
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まさか本当に行くとは思わなかった、と後で孫娘が言っていたのだが、ヨナス・カウフマンをライブで見たくて頑張ったんだろうな。ハンブルク駅のホームの電車に乗るところまで送ってもらって、ミュンヘンの駅のホームでめぎたちがピックアップするという方法で実現。彼女はもうほとんど歩けなくて、杖を突いてもほとんど歩けなくて、ここまで行けるかと地図で説明しているところ。その時の話はこちらこちら
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このときはタクシーを駆使して移動をし、オペラを堪能し、楽しい時間を過ごした。これはミュンヘンのダルマイヤーという有名なコーヒーのお店にて。
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恐らくアンゲリカがオペラに行ったのはそれが最後だったのではと思う。遠くへの旅行もそれが最後。一人で出かけたのも最後。2016年秋に孫娘が結婚して同じアパートに引っ越してきて、それから亡くなるまでずっと面倒を見てもらったのだけど(孫娘はうちのドイツ人と義妹の代わりにアンゲリカの面倒を見ると申し出て、その手当として豊富な年金からいっぱいお小遣いを頂いたようだし、オフィシャルに介護人として登録して市からも手当をもらっていた)、それに甘えてしまったのか、全く外に行かなくなったのもその頃から。コロナは何とか持ちこたえたが、最近はもうお手洗いに行くのも難しくなり、さらにもう一人介護に来てもらっていたようだ。そうこうしているうちに孫娘に子どもができ、北ドイツの田舎町に家を見つけて引っ越すことに。その町の老人ホームに空きができたらアンゲリカも追ってその町へ移るという話だったのだが…3月初めの孫娘の引っ越しの日にアンゲリカは心臓発作で倒れ、そのまま入院。それでも数日中は電話ができたのだが、最後の電話の2日後に帰らぬ人となった。
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思えばハンブルクの家はアンゲリカが40年ぐらい住み続けたところ。そこを引き払って老人ホームに移るというのは、81歳の彼女にとってとんでもなく大ごとだっただろうし、今まで買い物やらなにやら色々してくれていた孫娘がいなくなって、歩けない自分はどうすればいいの?と思ったのだろうな。当日引っ越しのトラックを見て、一人置いてきぼりになるのが本当に現実なのだと突きつけられ、ショックで倒れてしまったのだろう。もう生きていく希望や勇気を失ったのかもしれないな。その辺り、胸の内がどうだったのかはもう聞く術も無い。
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アンゲリカがいなくなり、うちのドイツ人にとっては、オペラについて話す相手がめぎ以外にいなくなった。彼女の大好きだったヨナス・カウフマンがこの春ザルツブルクのイースター音楽祭でタンホイザーを歌ってて、どう思った?とめぎもお話したいが、もう彼女はいない。いつも、新しい演出のオペラを見る度に、新しい歌手が彗星の如く出てくる度に、テレビやラジオでオペラだけはずっと興味を持って見続けた(聞き続けた)アンゲリカの意見を聞いていたのだが、もう彼女のあの声がね~という言葉を聞くことはない…。そして、彼女のいた時代の有名な、今は亡きスター歌手たちのエピソードなども、彼女の死とともに消えて行ってしまった。彼女はいろんな社会生活的な面においては子供のように何もできなかったけど(確定申告とか、身分証明書の更新とか、数年ほったらかしにしていたようだ)、オペラや歌手の話に関しては誰よりも聡明だった。でも、思えば去年の夏ぐらいから、オペラの話にもあまり興味を示さなくなっていたのだ…いつもなら必ず見ていたオペラの番組もだんだんと見なくなっていったようだったし、思えばそれが終わりの始まりだったのね…
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アンゲリカが亡くなったことを、彼女のオペラ座時代の同僚たちに電話で知らせたのはうちのドイツ人。すると、うちのドイツ人はもう30年も前にハンブルク国立オペラ座の仕事をやめて転職したのだが、皆名前を聞くなり「ああ、あなたのこともちろん覚えてるわよ~○○のオペラで○○の役をやったとき、あなたとってもセクシーだったわよね~」などと言ったそうだ。子どもの頃から30代までずっと一緒に仕事をしていたのだから、端役といえども仲間だったのだろう。アンゲリカの死とともに、うちのドイツ人のオペラ座時代のエポックも完全に終わってしまったという感じ。もう、こんなのを買って迎えてくれて、あの時代のお話ができる相手はいなくなったのね…
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あんなにお花が大好きだったのに、水仙の咲く春を待たずに逝ってしまったアンゲリカ。夫を亡くしてから12年間、そして一人息子を亡くしてから約10年間、頑張ったね。たくさんの思い出をありがとう。
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