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ヴィッテンベルク [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

今日からようやくこの夏の東欧・中欧旅行記を開始。
今回の旅の目的は、バカンスをゆっくり楽しむと言うよりも、EUの現実を見てドイツの置かれている現状を再認識しよう、というもの。東欧系の学生や同僚をもっと理解したいという気持ちもあったし。
想像以上にすごかった物価の上昇、整備されていないひどい状態の幹線道路、規則などどこにもないように見える恐ろしい運転マナー、どこまでも続く化学肥料いっぱいの農地、陸の孤島のように浮かび上がる素晴らしく美しい観光の町・・・
帰りにドイツ(フランケン地方)に入ったときには、なんて秩序のある豊かな国なんだろう、と感動。そんな旅行におつきあいしてみたいという方は、ぜひどうぞ。

さて、デュッセルドルフを朝6時に出発して一路東へ。最初の目的地は、この方の町。
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この方が1517年にカトリックの免罪符に抗議してラテン語で95箇条の論題を掲示したのが、以前にもお見せしたこちらの・・・
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このドア。
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と言っても、当時の木製のドアは18世紀の七年戦争で消失してしまい、これは19世紀にブロンズで再現されたもの。

ドアにはラテン語バージョンの論題が刻まれている。最後のmとかjとかのアルファベットはラテン語の1517という数字。
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1518年にはドイツ語訳され民衆に広まり、宗教改革の発端となったのだとか。

そんなヴィッテンベルクは、旧東ドイツ側、現在のドイツ、ザクセン・アンハルト州に位置する。ザクセン・アンハルトにいらしたことがある方はきっとよくお分かりのように、この州は悲しくなるくらい寂れている。うちのドイツ人は「鬱」状態と呼んでいる。生気ややる気や活力が何かに吸い込まれたかのように感じられないのだ。虚ろな感じがするというか、一応建物は建っているのだが空っぽのような感じというか。ヴィッテンベルクも町の中心のマルクト広場はこうしてとても綺麗だけど・・・
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目抜き通りにさえ空き家になって放置された家があちこちに。つまり、実際に空っぽなのだ。
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通りもパッと見は綺麗だけど・・・
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これ、土曜日のお昼近くの目抜き通りなんですよ・・・土曜日といえば、日曜日にはお店が閉まっちゃうから、みんな買い物に走る日のはずなんですよ・・・
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ヴィッテンベルクはそれでも崩れた家が少なかった。中世にこの辺りの中心的都市として栄えたマクデブルクは、ど真ん中の巨大な大聖堂の存在が悲しいくらい、何もない寂れた町だった。

マクデブルクと違ってヴィッテンベルクは、ルターがいたからこそ観光客も呼べるわけだが、95箇条の論題所縁のこの城教会はなかなかのもの。
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教会内は、1.5ユーロを払えば写真撮影OKという仕組み。内部は19世紀に作り替えられたもので、とても綺麗だけどどうも16世紀の歴史とちぐはぐ。撮影しなかった。


その代わり、暑い中頑張って歩いてルターアイヒェという樫の木を見に行ってきた。
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これもルターが植えたものじゃなく、19世紀のものらしかったけど。

ここはいわばプロテスタントの聖地でも言うべきところなんだろうけど、プロテスタントというのは教会の権威を否定し、カトリックのように司祭や法王を通して神に祈るのではなく、人間は誰でもどこででも直接神に祈ることができる、という教えなので、ルター詣でに来る人は特にいない。
とは言え、ここが宗教改革の発端となったのね、と思うと、やっぱり興味深い。それがなかったら、世界は今頃全く違っていただろうし。ザビエルさんも日本へは来なかっただろうし。

クロウタドリさんのおじいさんのおじいさんの・・・おじいさんは、宗教改革の頃を見たのかな。
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ゲルリッツ [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

今日はさらに東へ進み、ザクセンの端っこのGörlitz(ゲルリッツ)という町へ。

Görlitz




こちらは市庁舎。
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ここは、ドイツの少数民族ソルブ人(Sorbe)が多く住んでいるところ。ドイツ国内に6万人ほど住んでいて、ソルブ語を話す人は2万人くらい。ソルブ人が住んでいる地域をLausitz(ラウジッツ)という。ゲルリッツ出身のドイツサッカーのキャプテン、ミヒャエル・バラックは、ソルブ人らしい。

ソルブ人の地域では、表示がドイツ語とソルブ語の両方で書かれている。
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北海道でアイヌ語表記を導入したと考えてみると、この意味が想像できるかしら。

街並みはスラブ系の匂いはなく、ドイツだった。
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聖書の物語が壁画になっている建物。どこまで行ってもキリスト教だなあ・・・
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この町の真ん中に、ナイセ川が流れている。
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その両側をよく見ると・・・
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そう、こちらはドイツ。
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こちらはポーランド。
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一番上の地図のマイナスを2回くらい押すと、この川が国境になっているのが見えてくる。
この橋を渡るとポーランド。東ドイツが西に統合され、さらにポーランドがEU、さらにシェンゲンに入った今でこそ、こうして国境を歩いて簡単に渡ったりできるけど、冷戦の頃ってここはどんなんだったんでしょ。東ドイツもポーランドもともに東側。その頃の東側諸国間の国境検査はどうだったのだろう。この橋の上に人がいることってあったのかしら。いつもたくさん往来していたのかしら。うーん、知らないこと、いっぱい。

さて、教会の上にのぼってみましょ。
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残念ながらドイツ側しか見られなかった。屋根が綺麗!統一された色遣いって本当に綺麗。こんな景色をバラックも見たのかな・・・などと想像したけど、バラックは赤ん坊のときにザクセン州の別の町に引っ越してゲルリッツでは育ってないから、この景色は見たこと無いかも。どうなんでしょ。バラックに聞いてみたいものだわ・・・
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ここでも時々、壊れている建物が目につく。
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とは言え、ザクセン州は、ザクセン・アンハルト州と比べると、ずいぶん綺麗な町が多い印象。この差はいったいどこから来るんだろうか。あーほんと、よく分かんないこと、いっぱい。

ちょうどこの塔の上にいたとき、10時だったか11時だったか忘れたけど定時になったので、すぐ横にある鐘の音が聞けるかなと思ったら、塔の一番上で番をしていたおじさんによると、この教会の鐘は今は定時を刻まず、週末のミサのときや結婚式のときなどにしか鳴らさないのだそうだった。残念。鐘は複数あり、どのときにどの鐘を鳴らす、というのが決まっているそうだが、いくつもあった中世由来の鐘の多くは戦争のときに取り上げられ、溶かされてしまったという。残った由緒ある鐘を特別に軽く一発だけ鳴らしていただいたのだが、それは日本のお寺の鐘を思い出させるような、非常に渋く、深みのある感慨深い音だった。
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旅の楽しみ=ビール♪ ザクセン編 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

ああ、ようやく一週間終わった・・・新学期一週目は何かと色々あって、目が回る。

本日は、夏の東欧・中欧旅行記のドイツ・ザクセン編の飲食をまとめてご紹介。

ドイツ・ポーランド・チェコの旅を通じてつくづく感心するのは、どんな小さい町に行っても、そこの地ビールがあること。全国生産のビールを飲む者などいない。夏の暑さがピークで連日30℃以上だったし、特にワインが有名な地域でもないので、今回はビールを満喫。行った町の数だけ異なるビールを飲んだという感じ。

まずはヴィッテンベルクの城教会の裏のビール。長い移動後の夕方ビールは旨い!
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その夜(明るいけどこれは7時過ぎ)、ホテルのレストランで。ヴィッテンベルクには数種類の地ビールがあるそうだ。
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その日に食べたものは、何かのスープと、七面鳥を焼いたもの。うちのドイツ人はベーコンサラダと魚料理だったと思う。
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これは移動中のどこかの町で休憩したときに、うちのドイツ人が食べたマルチパンのケーキ。めぎはマルチパンが全然ダメ。ドイツの人たちはマルチパンをこよなく愛している。
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こちらはヴィッテンベルクの朝食。外で朝食できたのが嬉しい。
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こちらは、ザクセンで貴族の館に泊まっていたときに、その貴族さんと一緒に出かけたレストランで。オーバーラウジッツ地方の地ビール。
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そこでその貴族さんとうちのドイツ人が食べたのは、ピンぼけだけど、牛タンステーキ。
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こういうの見ると、貴族って感じがしないでしょ。これ食べたあとその貴族さんは、うちに帰って、卵12個使って作ったというもさもさケーキの厚切りを2つ、たっぷりの生クリームとともに召し上がっていた。こんな食生活でものすごいヘビースモーカーでも、70代の今もバリバリ元気。

めぎが食べたのは仔牛のカツレツ。
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フライドポテトはほとんど残してしまった・・・付け合わせの野菜はトマト以外全てピクルス。つまり、酸っぱい漬け物。それが一番美味しく感じられてきたこの頃。旅はまだまだこれからだったのに・・・
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マイセン磁器工場 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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本日の舞台はこちら。
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上の写真を見ただけでどの街かお分かりになった方はいらっしゃいます?ちなみにこの河はエルベ。

そう、こちらでございます♪
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先日もちらっと書いたが、今年2010年はマイセンが工房を開いて300周年。日本の伊万里焼や中国の陶磁器を手本にして職人が四苦八苦して初めてのマイセン磁器を作るのに成功したのが1709年のこと。1710年にマイセン磁器工場の前身が造られた。手本はあるけど製法は分からず、当時の君主から絶対に作るように言い渡され、出来上がったらその製法の秘密が漏れることを畏れた君主に軟禁され続けた職人(=宮廷錬金術師!マイセン磁器を作ったのは錬金術ですよ~)は、そのストレスで37歳の若さで亡くなったとか・・・いつの時代も使われる人は大変。

そんなマイセン磁器の歴史を知ったのも、ザクセン所縁の母を持つうちのドイツ人と出会い、マイセンを訪れたから。それは2005年7月のこと。(義母はマイセンには住んでいないので、マイセン自体をめぎが訪ねたのは後にも先にもこの一回きり。)奥に見えるのがかの有名なマイセン磁器工場兼博物館。
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ここにはいらしたことのある方もきっといっぱいいらっしゃるはず・・・見学用工房では、マイセン磁器の工程を一つ一つ説明つきで再現してくれる。
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それからこんなディスプレイも。
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まあ、素晴らしいですねえ・・・でも、これ、もともとは日本の磁器のコピーだと思うと、ちょっとにたにたっとしてしまうめぎ。ヨーロッパって、自分たちが最先端という顔をしているけど、日本や中国ではもっともっとずっとずっと前から磁器があったんですよね~♪
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とは言えマイセンにももう300年の歴史が。その間に変遷してきたロゴはこちら。磁器の裏のロゴを見れば、いつの時代のマイセンか、本物か偽物か、全て分かるという。
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じゃ、ちょっとめぎ家の義母からもらったマイセンを見てみましょ。あ、1924~34年のものね。
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マイセン博物館にはカフェもあって、マイセン磁器の食器でお食事できますのよ♪
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こうしてマイセンに浸っていると一つお土産も欲しくなってしまうというもの・・・でもね、ほんと、目の玉が飛び出るお値段。何であんなに高いんでしょ。めぎ家の予算では、清水舞台から飛び降りてもコーヒーカップ一客も買えず。失敗作が2級品として少しお安く売られているが、それすら色つきのは箸置きみたいなナイフやフォークを置くちっちゃなの(カトラリー置きっていうのかしら?)が一つ買えるか否かってところ。それに、そこで売られているのは全て新製品に過ぎない・・・そう、ドイツ人は、マイセンの新製品を買うことに全く価値を見出さない。でも、アンティークのを揃えようと思ったらドイツでは田舎に家が買えるかも。そういうのは代々相続してこそ意味があるんでしょうねえ。

2005年7月のめぎは、ドイツ生活3年が過ぎようとしていた頃・・・その頃はまだ今ほどはドイツ化してなくて、「ここに来たからには何か買わなきゃ!」と強く思わせるここの魔の誘惑にまんまと引っかかり、なけなしのお財布はたいて2級品の中からこんなのを購入したのだった。裏のロゴを見れば、新しいものだと、そして2級品だとすぐに分かる(写真では2級か1級かよく分からないけど)。こういうのは相続しても意味無いし、売ろうと思っても買い手もいないし、ホントただの自己満足。
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マイセンの話となると今でもうちのドイツ人が、あのときのめぎは観光客だったよね~母親のうちから車でほんの30分かそこらで来られるところのものなのに、もう二度と来られないかもって顔して選んでたよね、とからかう。はいはい、私はお上りさんでしたとも!そんな思い出のマイセン。買い物した後は、マイセンの旧市街の方へ散歩。その話はまた明日。
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マイセンの街並み [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、マイセン磁器300周年を記念して、2005年7月のマイセンの旅を連載中。(あまりにも色のない1月のドイツから逃避しているところ。)

マイセン磁器工場は旧市街からちょっと離れてて、お城と大聖堂は丘の上。
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ちょっと歩くと、マイセンの本当の姿が見え隠れ。エレガントなマイセン磁器の雰囲気と違う素朴な感じ。誰もいない廃墟も多かったりして、東西分裂の爪痕も。5年経った今はどうなのかしら。
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だいぶのぼってきました~♪
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目指すお城はあそこ。
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なかなか近くならないわねえ。
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この辺りの建物はとっても魅力的。
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2005年のめぎのカメラはFUJIFILMのFinepix。デジカメのコンパクトカメラが出始めて間もない2000年に買ったもので、光学ズームもできなかった・・・そういう時代が懐かしいですねえ。写真の撮り方も下手だったなあ・・・

あ、あそこがお城の入り口みたい。
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そう、ここ。
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この辺りからは河とは反対側のマイセンの景色が見渡せる。
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中では結婚式をしていた・・・ドイツの結婚式って、意外とこういう風にシンプルなことが多い。
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明日はお城の中に入りましょ。

♪ おまけ ♪

これは、2005年のマイセンに普通にあった旧東の信号機。今もあるのかしら。
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この信号機の人の模様がこの頃から大ブレイク。
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今ではこのキャラクターのスポンジとかキーホルダーとかがドイツ土産としていっぱい売られている。デュッセルドルフでも買える。
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アルブレヒト城 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、マイセン磁器300周年を記念して、2005年7月のマイセン旅行記を連載中。

ようやく城の大聖堂までやってきた。
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城の名前はアルブレヒト城。マイセン磁器が完成した1710年から1864年までこの城の中にマイセン磁器工場があった。それは、マイセン磁器の製法を外部に漏らさないようにするため。そんな歴史をこの城の中で見学いたしましょ。

中に入るとまずは大きな壁画。描かれているのは中世の騎士たちの騎馬戦。
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昔の騎士たちは、こういう騎馬戦で勝てればその身の潔白を証明できたり、貴婦人にふさわしいかどうかを証明できたりしたのだった・・・なぜなら、正しい騎士こそ神が助けてくれるから。
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中にはこんな人魚像があったり。
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お目々が青と緑色・・・!
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そして、昔のストーブ。使って見せて欲しいですねえ。
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この城を有名にした持ち主は、アウグスト強健王。ドイツ語でAugust der Starkeという。ドレスデンに生まれたザクセン選帝侯で、かつポーランド国王になった人。ザクセン人だから敬虔なプロテスタントだったが、ポーランドの国王になりたくてカトリックに改宗したとか。それだけじゃなくて、政治の世界には今も古も等しく資金が必要・・・アウグスト強健王はなんとしてもお金を儲けたくて、錬金術師に白金を作らせようとしたり、そこから転じて白磁を作らせようとした。その任務を仰せつかって幽閉されたのが錬金術師ベトガー。
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この苦悩の表情・・・
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こちらがアウグスト強健王とベトガー。
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ベトガーの作り出したマイセン磁器のおかげで潤ったアウグスト強健王は、その製法が外部に漏れるのを畏れてマイセン磁器工場をアルブレヒト城の中に作り、ベトガーを軟禁したのだという・・・ベトガーはそのストレスで37歳の若さでこの世を去った。このベトガーの顔、37歳前にしてはすっかり老け込んだ表情で、なんだか痛々しい。その後アウグスト強健王とその子孫は、マイセン磁器で得た財力でドレスデンにバロック芸術の花を咲かせた。ドレスデンがあれほど美しく立派なのは、マイセン磁器のおかげなのだ・・・

ベトカー(1719年没)とアウグスト強健王(1733年没)の時代が終わったあともマイセン磁器は試行錯誤と発展を続け、絵付けなどより完成され、また小さな磁器人形が作られるようになっていった。これは1760年の作品で、「日本の魚売り」という名前のもの。実際の魚売りさんたちはこんな美しい着物を着てはいなかったと思うし、着物のスタイルも違うけど・・・当時のマイセンの人たちは、遠い日本をこんな風に思い描いていたのね。
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このアルブレヒト城の中は、古いマイセンの磁器がちらちらと展示されているが、その数はそれほど多くはなく、何となくがらんとした印象。城自体は建てられたのは15世紀で、フランスの宮殿風の城が流行る前の城砦的な、質実剛健な雰囲気が残っている。でも、こんなに細かい装飾が施され、広々と大きく、中世とは違う繁栄の証としての城の機能も。
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下の写真は左が上へ向かって、右が下へ向かって写した階段。なんとなく、塔に閉じこめられたお姫様を救いに騎士が駆け上っていきそうなイメージですねえ。
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マイセンの位置 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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今日は2005年7月のマイセン旅行記の最終回。

アルブレヒト城が立っているのはマイセンの高台。その辺りにはカフェがたくさんあって、そのカフェから綺麗な景色が望める。
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お天気イマイチで残念だったけど。
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降りていくと、城の造りがよく分かる。
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継ぎ接ぎって感じの建て方ですね~
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このエルベ河がマイセンをドレスデンと結んでいる。また、遠くハンブルクとも。
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さあ、そろそろマイセンをお暇いたしましょ。
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この辺りにはこんな道標が。
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下にあるホルンのマークはドイツの郵便局のロゴ。ドレスデンはここから昔の郵便馬車で5時間ちょっとだったらしい。
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うちのドイツ人の母親が住んでいる町は郵便馬車でここから4時間と8分の3。
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マイセンの場所はこちら。

Meissen Albrechtsburg




以上でマイセン磁器300周年を記念したシリーズはお仕舞い。みなさま、マイセンに興味を持っていただけました?今年是非マイセンやドレスデンの旅をいかがでしょ。冬は雪が綺麗だし、夏はエルベ下りも楽しめますよ♪


♪ おまけ ♪
マイセンのあるザクセン地方の言葉はドイツ語のザクセン方言。これはカフェのメニューの一部。上がザクセン方言、その下がその標準ドイツ語訳。
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料理の名前だけ比べてみましょ。標準ドイツ語のSchweinehaxe(シュヴァイネハクセ=豚脚のグリル)がザクセン方言ではSchweinshaggsen(シュヴァインスハグゼン)に、Zwiebelbrot(ツヴィーベルブロート=タマネギパン)がZwiebelbrod(ツヴィーベルブロード)に、Sauerkraut(ザウアークラウト)がSauergohl(ザウアーゴール)になる。ズーズー弁になる感じ、わかります?

ドイツは標準ドイツ語を話す人がいない国。外国人が習う標準ドイツ語は書き言葉であって、人が話す言葉じゃないのだ。もちろんドイツ人も、その標準ドイツ語を学校で習って、標準ドイツ語で作文するわけだが、話すときには方言。ハンブルクやデュッセルドルフの人たちはそれほど訛ってないから分かりやすいが、ザクセン方言は相当難解だ。めぎはうちのドイツ人の母親を訪ねると、母親の連れ合いの言葉がよく分からない・・・うちのドイツ人にも分からないことがあるんですのよ。
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義母の家の中 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在8月初旬のザクセンでの話を連載中。ここはめぎたちが泊まった義母の家。
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ちょっと家の中をご案内。玄関を入るとこんな階段が。
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2階は人に貸しているそうで、今回は足を踏み入れず。この階段のある玄関ホールから、1階のリビング・ダイニング・キッチン・書斎・さらにバスルームにそれぞれ直接入れるようになっている。つまり、それだけたくさんドアがあるということ。もちろん中でも全部つながっている。

そんな1階が全て彼女の世界。ここはリビング。
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暖炉の上にはカールの父親が乗っていたタイプの車の模型。
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30年代?40年代?にこんなのに乗っていたとは、お金持ちだったのねえ。
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書斎は向こう。
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書斎へのドアのそばに置かれているこの人形は、150年前に作られたものなんですって。
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先日もお見せした書斎。義母はまずここを片付けるつもりだとか・・・既に家具のいくつかはもらい手を見つけたらしい。在りし日のそのままに、という意識はないようで、新しく自分がここを使えるようにどんどん整理していくという。前向きだなあ。でも、その話を聞いたときって、まだ亡くなって数日後の埋葬前だったんだけど、切り替え早いなあ・・・
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リビングに戻り、この窓の左の飾り棚にはマイセン磁器が。その写真は無し。右の壁には・・・
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義母の祖父母や両親や親戚たちが。つまり、うちのドイツ人の母方のご先祖様たち。灯りが蝋燭なのにもご注目。
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リビングの隣にはダイニング。テーブルの上のカゴの中にはお悔やみのカード。届いたカードは最終的にこの3倍くらいになった。
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ダイニングの天井近くには義母に伝わる貴族の紋章が。うちのドイツ人は義父の名を継いだので、貴族の名は義母で途絶えることとなる。
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ダイニングには義母の父親(右)とカールの父親(左)が並んで写っている写真があった。つまりカールと義母は親の世代が友人同士だった幼馴染み。東西分裂がなかったら、二人は平穏で幸せな一生を送ったのかも知れない。
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それからキッチン。6年前にはここにカールが立って、グーラシュを作ってくれたんだった・・・(グーラシュって本来はドイツの食事じゃないんじゃない?とめぎが思ったことはさておき、カールにとってはそれはこてこてのドイツの食事だった。いかにもナショナリストらしいでしょ。彼にとってはチェコもオーストリアもハンガリーも全部ドイツのはずなんだから。)
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キッチンからテラスが見える。
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3年前の夏にはここでカールと共にバーベキューをしたんだよなあ・・・
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テーブルの向こうの窓辺には余ったパンなどをいつも出してあり、常に鳥がやってきていた。いろんな野鳥が来るそうで、義母とカールは毎日バードウオッチングを楽しんでいたとか。
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それから地下の一部屋の一角をご紹介。ここにめぎたちは泊めてもらったのだけど・・・
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天井に蜘蛛の巣がいっぱいなの!天井をこんな蜘蛛さんが覆い尽くしているって感じかしら。
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この部屋は実は義母とカールの寝室。ええ、客用の寝室で締め切っていたというわけじゃなくて、毎日使っていた部屋ってこと・・・実はリビングもダイニングも天井は蜘蛛の巣だらけで、うちのドイツ人が到着してすぐにしたことは蜘蛛の巣払いだったの。義母がここ1~2年、うちの掃除もままならないほど介護に明け暮れたと言うことがこんな状況からよく分かる。

カールとの楽しい思い出がいっぱいのこの家に住み続けることが、義母が言うには、カールの望んだことであり、カールへの供養になるのだそうだ。だって、家の中にはカールがいつでもいるのだから。
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♪ おまけ ♪
昨日のクイズ、20年間の墓地使用料は500ユーロ(1ユーロ=約112円)。デュッセルドルフだともっと高くて、同じような墓の場合20年で900ユーロくらいするようである。さらに、葬儀のあとのお別れ会は、30人くらいの席を予約して飲み物とおつまみ(生ハムやスモークサーモンやチーズなどのカナッペ)で300ユーロくらいだった。日本のお葬式にかかる飲食代を思うと、信じられない安さでしょ。ネットで色々調べてみたが、ドイツで最も安く葬儀をした場合、1500ユーロくらいでできるようである。とは言え、普通は総額8000ユーロくらい(約90万円)と考えるらしい。ポイントは都市か田舎か、墓石をどの程度にするかのようである。
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夕方の光と朝の光 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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ザクセンのお話は今日でお仕舞い。

話はちょっと戻るが、お葬式と埋葬とその後の宴を終えてうちに戻ると、猫ちゃんが出迎えてくれた。
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わたし、ミンツィーよ。15歳なんだけど、まだまだ若いでしょ。
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ここはザクセンで泊まっていた義母の家。
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夕方の光が美しかった。
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広い庭ねえ・・・これを一人で管理するのは大変だろうな。
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家の中には暖炉もあって、薪もほら、向こうにいっぱい。義母は冬には一人でも薪を焚いて過ごすつもりだそうだ。薪の方がずっとあたたかい上に、暖房費がずっと安上がりなんですって。
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暮れゆく光って、温かくて美しいわねえ・・・
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このとき8時頃。8月に入り、ずいぶん日暮れが早くなったとは言え、8時でもまだこんなに明るい。
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教会の鐘が鳴り響くと、あの牧師さんが礼拝をやっているのね、と思う。
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猫ちゃんも鐘の音を聞いてるの?
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カールの死が分かっているのか、次の日に義母も旅に出ることが分かっているのか、この日のミンツィーはとても懐っこくて夜も義母にびったりだった。
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そうそう、ティンキー(犬)を亡くしたうちのドイツ人の妹は、あの北ドイツの家の裏に埋葬し、その次の日に子猫を2匹もらい受けてきて既に猫にめろめろ状態。猫好きのめぎは明日にでも一人で北ドイツへ行きたい気分。

さてさて、一夜明けて、次の日の朝。
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この日も素晴らしい天気。
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ミンツィーの世話と水遣りは近所の人が引き受けてくれたとか。
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よかった、カールの花も水枯れしないですみそうね。
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お花たちが義母の寂しさを紛らわしてくれますように。
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さて、そろそろ出発しましょうか・・・時刻は10時半近く。これからお墓によって、アウトバーンをかっ飛ばし、途中でお昼休憩をしてまたかっ飛ばし、700キロ近くの距離を走行してデュッセルドルフに到着したのが6時頃。
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めぎ家のあるデュッセルドルフはドイツの西の端っこ近く。この夏は北へ南へ東へとドイツ中を駆け回った気分。まだ南のシュヴァルツヴァルトの話が残ってるし、東で途中下車して一泊までして写した街の写真もあるし、これから追い追いにドイツの様々な姿がお届けできそう。その前に明日から数日はデュッセルドルフの話の予定。
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うちのドイツ人の母親の家 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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今日から7月下旬に訪ねたうちのドイツ人の母親の家でのお話を。

母親の住むドイツ東部の町を訪ねる道中、かねてより一度見てみたいねと話していたある家を訪ねた。
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この家はゴスラーという町の高台の高級住宅街にある。建てたのはうちのドイツ人の母方の曾祖父。うちのドイツ人の祖父は1904年生まれだが、この家はその父親が1911年に建てたから、祖父はここで育ったということ。W.v.H.というのは曾祖父の名前の頭文字。Wはヴォルフガンク、v.H.が名字でそのHはここでは伏せるが、ドイツ語をご存じの方ならこのv.が何を意味するかお分かりになるだろう。そう、vonの略であって、この名前が貴族であることを示している。つまり、以前にも書いたが、うちのドイツ人の母方は貴族だったのだ。
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と言っても二つの戦争と戦後の東西分裂、さらに母親の両親(=うちのドイツ人の祖父母)の離婚と再婚が重なって、そのごたごたの中でいつの間にかこの家は売却され、一人目の奥さんの子どもだった母親に祖父の膨大な遺産の一部が入ることもないまま時は過ぎ去り、その当時母親もそれに対して何も行動を起こさなかったのでもはやそれを不服として申し立てるには時効となり、この素晴らしい家の話が夢物語のように語られるだけで、そして母親が名字を引き継いでいるだけで、貴族としての遺産は何もないのが現状である。

屋根が壊れている・・・屋根裏部屋はどうやら使われていないようね。
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こんな所に住むのは、本当に夢のよう。中はどんな風になっているのかしらね。うちのドイツ人の祖父はここでどんな風に育ったのかしら。きっとこんな屋根裏部屋は女中部屋だったんだろうな。
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天井裏の下、この家の4階には誰かが使っているみたい。
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この家の入り口近くには、複数のクリニックやオフィスの表札が出ていた。ここに誰かが住んでいるという感じではなく、仕事に使われているらしい。この日は木曜日なのに全く人気(ひとけ)がなかったが、もしかしたら夏期休暇中だったのかも知れない。余談だが、ドイツでは個人のクリニックやオフィスはしっかり数週間の夏期休暇を取る。夏休み中に病院で健康診断したいと予約しようとしても、たいてい留守番電話で休暇中だ。恐るべしドイツの休暇システム。

うちのドイツ人はこの家を写真では見たことがあったけど、訪ねたのは初めて。自分のルーツの家を見ながら、本当はお金持ちのはずだったのにねえ、としみじみ。写真で見る限り、うちのドイツ人は祖父と非常に似ていて、なんとなくうちのドイツ人がここで育ったのだという錯覚を起こしてしまいそう。
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この家の裏には坂になっている芝生の空間が広々と。母親の話では、相当広大な敷地らしい。ちょっと歩いてみたかったな。
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こうしてゴスラーの縁の家を外からちょっと眺めてから、この近くの別の町で一泊し(そのお話はまたそのうちに)、次の日にもっと東の母親の家へ。この家を見ることはもう無いだろうな。さようなら。
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そして、こちらが母親が現在住んでいる家。貴族の館と以前形容したが、上のゴスラーの家と似てますわね。
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敷地が坂になっていること、綺麗な芝生であることもそっくり。右上に教会が見えるが、その辺りには城もある。つまりここは、城と教会のすぐ下、この町の一等地。母親は教会の参事会員でもある。
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門を入ると・・・
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建物を挟んで右にも・・・
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左にも広大な敷地。
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これは、門からまっすぐ行って建物の前を通り過ぎて奥のガレージから振り返って写したもの。
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裏側にも芝生が広がっていて、日光浴したりバーベキューをしたりすることができるようになっている。
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この広大な敷地とこの家は、残念ながら母親のものではない。彼女はここを幼なじみの友人(この辺りの大きな工場主)から借りているのだ。約1ヘクタールの敷地とこの家の一階全部と地下全部とガレージとテラスで、家賃はいくらだと思います?答えは明日。

彼女が住んでいるところはドイツ東部のドレスデンとマイセンから30キロほど離れた綺麗な歴史ある城下町で、彼女の生まれ故郷のすぐ近くである。以前にも書いたが、彼女はソ連軍に侵攻された敗戦を体験し、大好きだった祖父(母方の祖父なので貴族ではないが、こちらも相当なお金持ちだったらしい)がソ連軍に目の前で銃殺され、家も財産も全てソ連に没収・破壊された。壮絶な記憶だけが残って全てを失い戦後西側に逃れた彼女は、うちのドイツ人の父親と若くして結婚し、すぐに離婚し、幼いうちのドイツ人兄妹を残してイギリスに渡ってそこで再婚。それから20数年後、東西ドイツが統一し、東ドイツの故郷でクラス会が開かれ、そこで初恋の人と再会。その初恋の人も戦後西側に逃れ、結婚もしていたのだが、東西統一後に故郷の親の会社を相続し、単身故郷に戻っていたのだ。再会した初恋の恋人同士はまたもや恋に落ち、うちのドイツ人の母親はイギリス人の夫と離婚して故郷に戻り、恋人の方は西側の家族と別居したまま故郷で彼女と同棲生活を始めたというわけだ。そして、また20年以上が経ち、そのパートナーは去年の夏に亡くなってしまったが、彼が離婚することはついになく、ただの愛人で終わった母親はその後いかにパートナーが別居中の奥さんのために莫大な遺産や保険や年金を残し、自分にはほとんど何も考えてなかったという現実を目の当たりに。

これだけ読めばなんともドラマチックな人生だが、それが実の母親のこととなると息子にとってどれほど大変かご想像いただけるかしら。父親の奥さんのことなどその比ではない。いや、父親は2度も離婚してちゃんと奥さんと結婚し、実の子どもがどう思おうと奥さんの生活や立場が保証されるようにきちんと整えて逝ったのだ。そういう部分に関してはうちのドイツ人はきちんと父親の血を引いていてくれていることに感謝するめぎである。
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それにしてもこの家・・・本当にゴスラーの家と似てるわね。
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母親の家での食事 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、東ドイツにうちのドイツ人の母親を訪ねたときの話を連載中。

母親の家には3泊したのだが、うちの中の模様替えを手伝ったり一日近くの町に遊びに行ったりした他は、ほとんどこのテラスで過ごした。
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昨日の、母親の住んでいる1ヘクタールの敷地とお屋敷のような家の一階と地下の全フロアとテラスとガレージを含めた家賃はいくらか、というクイズの答えだが(参加してくださった方はいなかったけど)、答えは月860ユーロ=約8万6千円。えええええ!と思いません?だって、敷地、1ヘクタールよ・・・一万平米、3030坪よ!!(ちなみにデュッセルドルフのほぼ中央部に住んでいるめぎ家は約100平米でほぼ同程度の家賃、ハンブルクの住宅街に住んでいる義父の奥さんの家は約80平米で750ユーロ程度。)ドイツの田舎って、東側って、物価が安いのねえ・・・とは言え、なけなしの年金で年老いた女一人がこの家賃を出し続けるのは大変。母親曰く、実際大変なのだけど、でも、この1ヘクタールの土地がないと狭くて閉じこめられたような気がしてやっていけないんだとか。こんなに広いところで独りぼっちで寂しいとか怖いとかいうことは、無いらしい。すぐ上に教会があって、礼拝の鐘が鳴ると友人の牧師が今仕事しているのね、などと温かい気持ちになるのだとか。ここには幼い頃からの友達が近くにいっぱいいて、教会の参事会員の彼女にはあれやこれやとお呼ばれが多く、非常に充実しているらしい。知り合いがいっぱいいて地域社会の中で役割も担って生活に張りがあるというのは、晩年には大事なことね。

それはさておき、今日はここでの食事のお話を。まず、到着したら、テラスでお茶が待っていた。
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昨日も書いたように、母親はイギリス人と結婚して20年以上イギリスで暮らしていたから、暮らしにアフタヌーンティーなどイギリスの習慣をたくさん持ち込んでいる。このイギリスのティータイムに使われる2段重ねのお皿に載っているのは、買ってきたケーキやパンなど数種類。

夕方になってアペリティフに飲んだのは、めぎ家からの差し入れ。
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ここを訪ねた7月末はとても暑かったので、外でグリルをすることにしていた。そこら辺に落ちている木ぎれを集めて火をおこし、グリル用の長持ちする燃料を重ねる。火をおこしたのはもちろんうちのドイツ人。
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そしてジャガイモをホイルに包んだのと、肉やソーセージをグリル。ちなみに肉とソーセージは母親の家の冷凍庫に保存されていたもの。肉は味つけのが3~4枚くらいパックに入って売られているタイプのもの。ここで、用意されていたのが味つけ肉の冷凍っていうことにちょっとびっくりしためぎ。だって、その息子であるうちのドイツ人の一から全て準備するあのまめまめしい料理をいつも見てるから。
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前菜はめぎ家からのお土産のアーティチョーク。母親がまだ食べたことがないというので。ドイツの東側では、西側では普通に売られているもののいくつかが全く手に入らない。アーティチョークもその一つ。マスカルポーネの容器に入っているのは、うちのドイツ人が手作りして持参したソース。
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ルッコラと小エビのサラダを作ったのはめぎ。ドレッシングはうちのドイツ人が自宅で作った自家製のを持ち込んだ。小エビも持参。パルメザンチーズも持参。ルッコラは母親に買っておいてもらったもの。
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次の日の朝食はうちの中で。
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そろそろ皆様お気づきになっただろうか・・・母親の用意する食事は、食器や設備は素晴らしく、いかにも貴族という感じだが、食事の内容には全く手をかけていないことに。母親は料理が嫌いで、冷蔵庫から出して並べるか、冷凍庫から出して解凍して火を通すだけなのだ。うちのドイツ人がドレッシングやらソースやらまで作って持ち込み、めぎに前菜を用意させた理由がよく分かった。去年訪れたときにはパートナーのお葬式で食事どころではなく、その前に訪れたときにはそのパートナーが料理を振る舞ってくれていたので、今回の訪問までめぎはこの現実に気がつかなかったのだ。ハンブルクの義父の奥さんの用意した手作りのケーキ、手作りの夕食、手作りのデザートを思い出す・・・あのときの朝食のハムとチーズの種類の豊富さ、美しさ、豪華さと、上の写真に並んでいるパックのままのハム類とチーズ類との対照。東側では大都会ハンブルクと比較して手に入る食材の質と量が異なるということもあるが、また、予め母親に食事はシンプルでいいからと告げていたとは言え、うーむ・・・見方を変えれば、美しく演出する必要のない本当の身内の関係だとも言えるわね。


朝食後はずっとテラスで飲食を。これは日中喉が渇いたときに出てきた濃縮ジンジャージュース。甘かった。左に写っているこれからタバコを吸おうとしているのが母親。ヘビースモーカーだが、満78歳の今もとても健康だ。
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暑いからとお昼に出されたのはアイスクリーム。冷凍庫からどーんと出されて、各自好きなのを好きなだけ取れと言われ、取ったらすぐに冷凍庫に戻っていった。
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そして、3時にアフタヌーンティー。出されたのは、上段が昨日のケーキの残り、下段はやはり冷凍庫から出して解凍したケーキ。めぎはこの甘いものばかりの攻勢に参ってしまって、朝食で出てきたレバーペーストをパンに塗ってお昼代わりにさせてもらった(左手前に写っているピンク色のがそれ)。
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その夜のアペリティフはイギリスのシードル、つまりサイダー。(シードルの味についての質問が数日前のコメントにあったが、それはメーカーや国によると思う。めぎの経験では、フランスのシードルはフルーティー。このイギリスのはかなりドライ。スペインのバスク地方のは甘みがほとんど無く酸っぱかった。)
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夕食はまたもやグリル。この綺麗な色の野菜の串焼きも冷凍食品。お肉ももちろん味つきの冷凍食品。ソーセージも冷凍庫から。
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トマトとキュウリを切って並べたのは義妹。こういうキュウリを見るとめぎは味噌でもつけたくなるけど、もちろんここには味噌はない。アーティチョーク用に持ち込んだソースの残りをつけて食べた。
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この次の日は、朝食は上と同じ、お昼は観光に出かけた近くの町のレストランで、夜はまた全く同じグリル。そして、帰宅する日の朝食も、上と全く同じだった・・・つまり、めぎたちは滞在した3泊4日間、一度も一食も一つも母親の手作りの料理を口にしなかったというわけだ。元々料理が嫌いな上に、歳をとって、パートナーも亡くして、料理する気力を完全になくしたのかも知れない。家賃を払うのが精一杯で、食事にお金をかけられない事情もあるのかも知れない。でも、息子と娘が都合を合わせて揃ってはるばる3泊も訪ねてくるのだから、それも息子は1年ぶり、娘は2年以上ぶりの再会なのだから、ねえ・・・冷凍庫からごろごろと既製の味付け肉を取り出して、今晩いくつ食べる?じゃ、○個解凍するね、とは、そしてそれが3夜連続とは。かたや義父はいつも奥さんと代わる代わる腕によりをかけて美味しいものを作ってくれたものだった。めぎたちが来ると思ったら、今度は何をご馳走しよう、何を飲ませよう、といつもウキウキしてあれやこれやと考えている、と父親が楽しそうに話してくれたこともあった。遺された奥さんだって、我々が来るのを楽しみに買い物に行ってあれこれ料理し、綺麗な花を買い揃えて美しく飾って待っていたのだ。少なくとも、食事好きの父親にとっては、ぴったりの奥さんと最後に過ごせて幸せだったのね。つまりは、食事という行為にどれほどの思いがあるか否かの違いなのかも知れないな。母親は、食事は時間が勿体ないけど、食べなきゃ生きていけないからねえ、などと口にしていたし。なんの気兼ねも要らず、引き継ぐべきお袋の味もなく、嫁としては非常に楽ちんだったけど。それに、気取らず飾らずありのままの姿をさらけ出し合うというのは、いい関係であるとも言えるのだけど。
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あとで、うちのドイツ人に聞いてみた・・・あなたにとってお袋の味って何?お母さんに作って欲しかった懐かしい料理は何?と。答えは、「何もない」・・・その言葉の裏にはとっても辛い過去が。彼は子どもの頃から母親に食事を作ってもらった記憶がないのだ。物心ついた頃には既にどこか親戚のうちに転々と預けられていて、母親と一緒に住んだ数ヶ月も、母親はいつも夜にパーティーに出かけていて、3歳くらいの妹のために夜中にパンをスライスした記憶とか、冷蔵庫を開けたら何も入っていなくて次の日までひもじいおなかを抱えながら妹と二人ひたすら母親の帰りを待っていたとか、そういう記憶しかない。そして、ある日母親はイギリスへ旅立ち、広い何もない家に兄妹二人だけで残され、事情を知った父親が助けに現れてそのまま引き取られたのだそう。
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そのようなわけで、うちのドイツ人の料理好きは父親譲り。たぶん、彼にとってお袋の味ならぬ親父の味があるのだろう。また、こういう母親を持つから、めぎがほとんど料理しなくても全然気にならないのだろう・・・義妹も料理が嫌いで、ここには女3人いたのに、思えばこのテラスのグリルでうちのドイツ人が男一人で3夜連続食事の準備。うちのドイツ人曰く、自分で作った方が美味しくできるから、ですって。うーん、この達観までにどれほどの葛藤と苦悩があったのだろう。生きるって、辛いことね。
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館の中 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、ドイツ東部の義母の家での話を連載中。

今日はこの家の中を探検しましょ。
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もーきちさんとご一緒に♪
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玄関を入るとまずはこんなフロアが。
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このフロアにはいくつかのドアがある。手前のドアを開くと・・・
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ドアの内側はかなり重厚な作りで、義母に届いた葉書が貼ってある。毎年その年のを貼っていくんだって。だから今年の一番最初はめぎ家が香港から送った葉書。
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中にはテーブルが。ここは基本的に応接間で、打ち合わせやお茶、英語の個人レッスンなどに使っているらしい(義母はイギリスからドイツに戻って以来高校で英語を教えていたのだが、今も個人で教え続けている)。めぎたちが滞在中はここが朝食の場であった。
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この部屋の片側には・・・
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キッチン。
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このキッチンを見て、料理をする方ならお気づきになるはず・・・このキッチンが料理にはほとんど使われていないことに。だって、コンロとオーブンのあるところのすぐ前にテーブルと椅子があって、オーブンの開け閉めには邪魔だし、コンロの上にはクロスと籠が。奥の壁にハーブの棚があるが、その前にはいっぱい物があって手が届かない。義母は毎朝ここでラジオのニュースを聞きながらコーヒーを飲み、パンとハムかチーズをつまんで朝食を済ますのだとか。
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この冷蔵庫の中も、写すのが切なくなるほどハッキリ言って空っぽだった。買ったばかりの冷蔵庫のように。中にあったのは、キュウリ一本と、トマト数個と、バターと、ハムとチーズとマヨネーズとカレー入りケチャップ。
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では、向こう側に戻りましょ。この応接間の反対側に行くと・・・
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そこには居間が。
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もーきちさんと一緒にいるのは、義妹が連れてきたお友達。
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あら、楽しそうな所にいるわねえ♪
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ここには物がいっぱい。この棚に入っているのはマイセンなどの高級な食器類。その横の植物たちにちょっと注目・・・これは、義母が地味に植物の世話をしている証だわね。少しずつ増やし、花が咲く保証はなくとも希望を抱いて、もしくは生きている緑を捨てられなくて、こうして並べて水遣りしているのだろう。
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なんとなく伸びちゃった、という感じのこの植物たちも捨てずに水遣りしているんだな。そういうところ、うちのドイツ人と似ているわ。物をごちゃごちゃに並べておくところはちっとも似ていないけれど。(義妹がそっと耳打ち・・・これ、母親が死んだら全部片付けなきゃならないのよ~さっさと部屋を空けないと家賃かかるし、うちは遠いし、こんなにいっぱい、どうする?放棄したいわ・・・と。こういうのは、ある意味、切実だわね。)ちなみに中央にあるのはCDプレーヤー。
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そしてたくさん貼られているご先祖様方の写真。真ん中上に大きく貼られているのは、義母の母方の祖父で、ソ連兵に銃殺された人。義母の父親、つまりうちのドイツ人の祖父で貴族だった人は、一番右の一番下に小さく写っている丸い写真。
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明日は寝室やめぎたちが泊まった部屋などをご案内する予定。
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寝室と屋根裏部屋 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、ドイツ東部の義母の家の話を連載中。

昨日の居間からさらに次の部屋へ行くと・・・
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ここはお嬢様のお部屋。ベッドの上にかかっている写真は、義母の母親の子どもの頃の写真。
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色といい、模様といい、調度といい、雰囲気といい、本当にお嬢様のお部屋、という感じ。
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78歳になっても、心はお嬢様なのね。
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使ってはいないようだが、昔の洗面セットも。かかっている髪の毛は義母の若い頃の髪なのだとか。
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そして、この古い人形。義母の子どもの頃の最も大切な思い出の品。ちょっと小公女というお話を思い出すめぎ。
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この部屋から教会がきれいに見えた。
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さて、昨日の応接間・キッチン・居間と今日の寝室までが一階部分。ここから上へ行ってみましょ。

玄関フロアから階段を上がると・・・
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そこは二階フロア。ここの家主である義母の幼なじみが時折やってきてここを使っているそうだ。以前このフロアに泊めてもらったこともあったが、今回使った部屋はこの二階ではない。右の写真の右端のドアを開けると・・・
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そこにはさらに階段があって・・・(おおお、さらに小公女の世界だわ~)
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結構急な階段を進むと・・・
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そこにはこんなフロアが。(あら、あの小公女の世界よりは意外に綺麗ね)
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めぎたちが使ったのは右側の屋根裏部屋。左側の部屋は義妹が使った。(小公女セーラのあの惨めな部屋とは比べものにならない綺麗さだけど、義母の寝室と比べるといかにも女中部屋って感じよね。我々、息子も娘も嫁も貴族の名は継いでいないし、下々なのね~♪)
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この梯子は天窓に通じていたが、今回そこへは上らなかった。なにしろ暑くて暑くて。ここを訪ねたのは7月末だが、ドイツも急に夏らしく暑くなった頃で、天井裏はものすごく暑かった。クーラーもなく、なかなか過酷。反対に冬は相当寒いだろう・・・ほんと、小公女の世界だわね。
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このフロア、バスルームがものすごく立派。バスタブの横にシャワー室もついてて、広々として手とても明るい。あの半月型の窓の向こうはバスルームだったのね。
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夜になるとこんな感じ。網戸もなく虫が入るので電気はほとんどつけずに過ごしたが、つけてもこの程度の明るさ。ここに昔はどんな人が寝起きしていたのかしらね。昔は電気もなく、もっと暗かったんだろうな。
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義母の家でしたこと [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、ドイツ東部の義母の家の話を連載中。

今日は地下室へ。玄関フロアから地下に降りると、そこには納戸やワインセラーがあり、その向こうに一つ部屋がある。
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そこは元々は義母とパートナーの寝室だったところで、小さなキッチンやバスルームも備わっているのだが、義母はここを書斎に模様替えしようとしていた。
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実は、昨日お見せした「お嬢様のお部屋」こと寝室が、もとはパートナーの書斎だったところ。義母は既に人に頼んでこの地下の部屋から一階へベッドを運び、一階から書斎机をこの地下室へ運び入れてもらっていた。彼女は英語の本を訳したりもしていて、今までは上の応接間でコンピューターと本と辞書を広げて作業したり、それを片付けて英語を教えたり、またはお客を招いたりしていたのだが、これからは英語の翻訳に関しては書斎で広げっぱなしにしておきたい、というのが彼女の希望。でも、あまりにも色々な物が山積みになっていて、それを片付けるのがなかなかしんどい様子・・・なにしろ亡きパートナーの思い出の品にも囲まれているしね。だから、この部屋の片付けをうちのドイツ人と義妹がすることに。

作業前。
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作業中。
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作業後。
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亡きパートナーになんの思い入れもない兄妹が作業すると、あっという間。正味一時間ほどだったかしら。本はちゃんと作家のアルファベット順に並んでいた。さすがうちのドイツ人。
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それからもう一つ、テラスのすぐそばのここで義母に頼まれて行った作業。
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ここには屋根の雨樋から配水管が引かれているのだが・・・
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そこに大きなバケツを設置し、花の水遣りに使いたいとのこと。そこで兄妹はまず裏にあった何かの石のあまりを持ってきて色々と組み合わせ。
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どうにか水平に、ぐらぐらしない土台ができあがり。
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それからバケツの下の方にそこにあった大工道具で色々工夫しながら穴を開け・・・(納戸やガレージの道具を全部見てみたけどまともな大工道具がなぜか見あたらず、義母の亡きパートナーにますます反感を持ったうちのドイツ人のことはまあさておき♪)
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蛇口を取り付けた。猫の置物を持ってきたのは義母。
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それからバケツの蓋にも穴を開け・・・
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雨水が中に入るように設置。漏斗を通すことにしたのは、ネズミなどがバケツに落ちるのを防ぐため。
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運良く雷雨があり、ちゃんと雨水が溜まるのも確認。これで水遣りの水が少し節約できるということね。
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それにしても如雨露がいっぱいあるわねえ・・・
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それから、これがうちのドイツ人と義妹の今回の母親訪問の最大の目的だったのだが、義父のアルバムから見つけたうちのドイツ人が子どもの頃の昔の写真(あちこちに預けられていた頃の写真)から、母親と一緒の写真や父方の親戚ではないところの写真を20枚くらいスキャンしたのを見せて、そこはどこなのか、誰のうちなのか、いつ頃なのか、そのとき父と母はどこにいたのか等々、色々と尋ねたのだった。でも、残念ながら義母の記憶は非常に曖昧でほとんど何も分からず、というか義母には自分の子どもたちの小さい頃のことに関してまるで何も覚えがなく、従って息子と娘の知りたかったことは何一つ分からず、代わりに義母自身の子ども時代の話をいっぱい聞かされただけで(それはそれでめぎには非常に興味深かったのだが兄妹にとっては既に知っていることの繰り返しだったので)、兄妹は大きな失望を胸に帰宅することになった。義父が亡くなった今、その当時を知る人はこの世にもう誰もなく、頼みの綱の実の母親に自分たちのことの覚えがなくて、どれほどの失望だったことか。
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あとでうちのドイツ人が言っていた・・・日本語で失望は「希望を失う」と書くが、ドイツ語のEnttäuschung(=失望)はTäuschung(=思い違い、錯覚、惑わされること)をentする(=除去する)という意味で、つまり、母親なら知っているのではないかと期待していた錯覚、思い違い、幻想を今回めでたく除去できたということなのだ、と。そのおかげで期待や幻想が消え去って真の母親を知ることができたのだ、と。だから、Enttäuschungは残念なことだけど、ポジティヴなことでもあるのだと。
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義母の家でのその他あれこれ [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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ドイツ東部の義母の家の話は今日が最終回。

ここを訪ねたのは7月末の夏の盛り。
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花と緑が美しかった。
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1ヘクタールの敷地にそれほど数は多くはないが花を植えている義母。植物の管理は人に頼まず、自分のできる範囲で世話をしているらしい。
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義母には自分で花を咲かせる喜びがあるのだな。
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こちらは門から家までの通り。
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めぎの大好きなキキョウ。
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ちょうどユリが咲き始めた時期だった。
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でも、残念ながら白いユリはあともう一日二日というところで、咲いたのを見ることはできなかった。
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昨年のこの時期、義母のパートナーの埋葬に立ち会っためぎたち(その様子はこちら)。そのとき義母は、パートナーの好きだったこの白いユリの花が敷地で美しく花開いたのを一輪摘んで、埋葬の時に捧げたのだった。ドイツには一周忌の法要などはないので、今回めぎたちは特に命日に来たわけではないのだが、滞在中に一度お墓を見に行った(お参りしたという感じではないので、敢えて「見に行った」と書く)。あの埋葬した場所は、今ではこのように。
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埋葬してから半年はそこに何かを植えたりしてはならず、冬を越し、春になってからようやくお墓を整えたのだとか。新しく植えた苗が定着するまで毎日の水遣りが欠かせないという。ここは義母の家から車で5分ほどで、彼女は毎日車を運転してここに通っているのだとか。めぎがちょっとびっくりしたのは、しゃがんでお参りするとか、ここに眠る人に話しかけるとかお祈りするとかいうことが全くなく、こうして水遣りしただけであること。うちのドイツ人兄妹はパートナーとはなんの関係もないから、父親のお墓での黙祷のような行動は出てこなかった(つまり、あのときは習慣としてお祈りしたのではなく、なんというか自ずから、蝋燭と線香を灯したら自然に二人とも黙ってそれぞれ思いに耽ってしまったという感じだった)。そして、義母も、一人の時はもしかしたら黙祷したりしているのかも知れないが、このときはずかずかと入り込んで水遣りしながら息子と娘に植物一つ一つの説明をしていただけだった。つまり、習慣というか儀式というか、日本のお墓参りのように、お清めしてお掃除して手を合わせる、故人にご挨拶する、ということが全く行われなかったのだった。キリスト教的には死んだら魂は神の元にあるはずで、ここで手を合わせても魂はここにないということなのだろう。
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そうそう、墓石を清める習慣ないので、墓石に水やお酒をかけることもない。食べ物を備える習慣もない。もちろんお線香を上げる習慣もない。命日でも一周忌でも牧師を呼んだり何か儀式を行うこともない。ただこのお墓を花壇のように綺麗に飾ってそのお世話をするだけである。お墓にはそのためにこのように如雨露がたくさん備わっている。
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めぎがさらにびっくりしたのは、隣のお墓がこんな風になっていたこと。ここにはパートナーの両親が眠っていたはずなのだが、25年だったかの契約が切れ、お墓は更地に。パートナーはその契約を更新しないまま逝ってしまったし、義母は結婚していないから更新する権利を持たないし、パートナーの息子は西側生まれ西側育ちでこの地になんの思い入れもなく、たぶんパートナーの両親(つまり彼の祖父母)に会ったこともなく、やはり契約更新には興味がなかったのだろう。するとこうして無惨にも更地になり、いつか誰か知らない人がこの敷地に契約して葬られると、またここにお墓が作られるということ・・・
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↑一年前の様子(こちらの下から3枚目と4枚目の写真)を見ると、白いブロックみたいな境界線の左隣の部分に緑がいっぱいなのが分かる。

パートナーが自分の墓と契約したのも20年程度であって、いずれはここもまた誰かのものとなるということだろう。このように、ドイツでは一般にお墓は個人の契約であって、家のものではない。もちろん家で子孫代々ずっと管理費を払い続けて家のお墓を持ち続けている家庭もあるが、地域や宗派によっても差があるが、総じて一般的に本人かその遺族(連れ合いや子ども)が10年とか20年とかの契約をし、その近親者が生きている間か興味がある間だけお墓の植物の世話をし、契約が切れたら更地になるということなのだ。この様子を見ると、この国ではお墓というのは遺された者を慰める意味が大きいのだな、という気がする。ご先祖様を弔うという意識は少なくともこの様子を見る限り全く感じられなかった。まあ、このパートナーのお墓はご先祖様でもないわけで、めぎ家としては弔う必要もないのだが、義父のお墓参りでも霊を慰めるとか弔うという意識は全く感じられなかったし、思えばうちのドイツ人の祖父母の墓参りもしたことが無く、その前のご先祖様がどこに葬られているのかも分からず、本当にこの国は個人主義なのだと、生が全てなのだと、思い知らされた。

さて、うちに戻ってきたら、またじりじりと暑くなってきていた。
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義妹がちょっと散歩に出かけ、花を買ってきて植え替えていた。
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教会の鐘が時折鳴り響く。
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その雰囲気をビデオでどうぞ。



それから少しずつ日が傾いていって・・・
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綺麗な光を見ることができた。そうそう、掃除婦は頼んでいないようだが、これだけの広さでもちろん掃除は行き届いておらず、特に天井や閉めっぱなしの窓の所に蜘蛛の巣があった。
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それから夕食後にこんなデザートワインを楽しみ・・・
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美しい夕焼けの色を見上げながら語らい続け・・・
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そして真っ暗になっても話は尽きなかった。たくさんの失望もあったけど、たくさん母子の関係も感じながら。
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一般的に「失望」と訳されているEnttäuschungだが、小学館の独和大辞典という大きな辞書なら最初に「期待はずれ」という訳が出ている。小さい辞書では「失望」とせいぜい「幻滅」が載っている程度だが、そしてたしかに日本語なら失望した、がっかりした、と言うであろう場面でこのEnttäuschungを使うのだが、本来の意味は「幻滅」の方が近いであろう。「期待はずれ」を最初に載せているという好例からも、本当にドイツ語を勉強したかったら、独和大辞典をお薦めする。高いし重いけど、それだけの価値がある。

さて、最後にちょっとここの暮らしの現実を。これだけの敷地があるというのは、こういう虫がいっぱいいるということでもある。かなり気持ち悪いので、見たくない方はどうぞスルーを。







暗くなると、ものすごく大きなナメクジがいっぱい出てくる。立つときにはちょっと気をつけないと、ぐにゅっと踏んでしまう・・・これ、大人の大きな手の中指くらいの長さ。こんなのがテラスの床中にいっぱい。ひぇぇぇ・・・でしょ。
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義母の家から一日ある町に観光に行ったのだが、その話はまたそのうちに。


♪ おまけ ♪

9月14日に届いた義母からの葉書。今この船に乗って旅行中。優雅ですわねえ。イギリスの暮らしがやはり心地よかったのかな。
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便りによると、風力6ですって・・・いつもの達筆に乱れがあるのは、船が相当揺れているからなのね。
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彼女は2年後80歳の誕生日にはインドに行きたいと計画中。インドもイギリス縁だわね。それにしても、それだけの元気があって、なによりなこと。
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貴族の館で [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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今日から8月中旬のドイツ東部の話を始めようと思う・・・日本の話もまだほとんど書いていないけど、このブログは「ドイツ再発見」なので、やっぱりドイツの話を優先しようと思って。日本のことは長い秋にゆっくりと追い追いに。

ここはドイツ東部、旧東ドイツのドレスデンとマイセンに近いある小さな町の教会。
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その教会のよく見えるところに、これまでも何度かご紹介した貴族の館がある。
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そう、貴族の館・・・貴族が住んでいる家。と言っても、門から家までこんな程度でたいした距離もなく、子どもの時に読んだ小公子とか秘密の花園のような馬車で何分もかかるなんていう物語の中の世界とは全然違うけど。
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それでも家の前から向こうに見える柵までこれだけの距離。家のまわりには360℃このくらいの敷地がある。以前あった百合は全く見あたらず、芝生がぼうぼうなのがちょっと気になるが。
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そんな貴族の館に住むのはうちのドイツ人の母親。めぎの義母は貴族の末裔なのだ。その生涯について、またその暮らしぶりについては以前にもたくさん書いたので今回は詳細を省略するが、初めて読む方のために簡単に説明すると・・・うちのドイツ人の母親はドイツ東部ザクセンの貴族の家に生まれたが、子どもの頃戦争でソ連軍に占領され、全てを没収された。その後西側に逃れ、うちのドイツ人の父親と出会い、結婚。しかし彼らはうちのドイツ人と妹が幼い頃に離婚し、母親はイギリスに渡って再婚、うちのドイツ人と妹は父親に引き取られ、父親が再婚した継母に育てられた。それから時が過ぎ、25年前にドイツが再統一。小学校の同窓会で久々にザクセンを訪ねた母親は、そこで幼なじみと再会し、恋に落ち、イギリス人の夫と離婚、ザクセンに戻ってその幼なじみとこの館に住んだ。と言ってもその幼なじみには奥さんがいて最後まで離婚しなかったので色々あったようだが、とにかく20数年の年月を彼らは一緒に過ごしたのであった。その幼なじみが亡くなったのは今から3年前のこと。今は母親は一人でこの館に住んでいる。幼なじみの好きだった百合が無くなり、芝生もぼうぼうなのは、一人では管理が行き届かないということかな。

到着しためぎたちを迎えたのはウエルカム・シェリー酒。
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右がそのお貴族様であるうちのドイツ人の母親。左は彼女の妹・・・と言っても母親が同じで父親の違う半分の妹。したがって、この妹、つまりうちのドイツ人の叔母は、貴族ではない。母親が違って父親が同じ半分の兄弟、つまり貴族の名を継いでいる兄弟もいるのだが、彼女はその兄弟とはほとんどコンタクトがない。
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今回めぎ家や叔母、さらに叔母の娘(=うちのドイツ人の従妹)がここに集まったのは、うちのドイツ人の母親の80歳の誕生日に招かれたから。実は2年も前からこの誕生日に招かれていた・・・ドイツでは誕生日パーティーを催すのは誕生日の本人で、それも40歳、50歳・・・80歳という10の倍数の誕生日には盛大な会を行うのが習慣なので、2年前から母親にそのときには必ず来るようにと申し渡されてあったのだ。70歳の時にももちろん招かれていたのだが、上記のような背景から、うちのドイツ人と妹はそれをボイコット。今回の80歳の誕生日も、妹は来なかった。

そんなわけで色々な気持ちが錯綜するところなのだが、まずは集まった家族みんなで昼食を。用意したのはもちろん我々を招待した母親。繰り返すが、ドイツでは、誕生日の本人が食事を用意し、招待客をもてなすのである。
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使われている食器のセットはたしかイタリア製。他にもマイセンやらウェッジウッドやらセットで揃っている。こういう食器セットがスープ皿や取り皿、大皿、コーヒーカップのみならず蝋燭立てや塩・胡椒の容器、バター入れなどまで揃っているのを見ると、文化というか、受け継がれてきた由緒正しさのピンとした筋のようなものを感じる。日本のように料理に合わせて色々な食器を組み合わせるのではなく、全てセットで揃っていることに意味があるのだろう。並んでいる食べ物は決して豪華ではないが(野菜が無造作に並んでいるのは、義母が料理が得意ではないことの現れでもあるのだが)、食事時に蝋燭を灯し、ゆっくりとおしゃべりしながら優雅に食べる。これがここの文化なのだ。
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この日の昼食はイタリア風冷製スープの一品のみ。料理の苦手な義母が今回お手製でもてなしてくれたのはこのスープのみだが、非常に美味しかった。
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いつもここに来ると、めぎ家もスープ皿やスープ入れの鉢から大皿小皿など好きな食器で全部揃えたいね、まずはスープの鉢と皿から買おうか、という話になるのだが、その度にちょっと食器屋さんを覗き、気に入ったのが見つからずそのままになり、何年も過ぎている。しばらくぶりにまたちょっと食器屋さんにいってみようかな。

食事の後はケーキとコーヒー。これ、とっても綺麗なケーキで実際そこそこ美味しいのだけど、以前にも書いたが冷凍食品を解凍したもの。義母はとにかく料理が苦手(そしてたぶん嫌い)で、ドイツの普通の母親たちのように自分でケーキを焼いたりは決してしない。誕生日なら当然ケーキを焼いたりするはずなのだが(もう一度しつこく書くが、ドイツでは誕生日の本人が自分でケーキを焼いて招待客をもてなすのが常識なのだ)、まあ80歳だし、無理なことを無理と自分で悟って決してしないというのも潔く賢いと言えるかも知れない。世が世ならコックや給仕が傅いていたはずだしね。
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そんなわけで、素晴らしく美しく整ってはいるが中身はかなり既製品という食事を終えて、引き続きプレゼント贈呈へ。まずは義母の妹がスピーチを。
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妹(うちのドイツ人の叔母)が用意したプレゼントは写真集。80年前から今までの写真を集め、ちょっとずつコメントが書かれていた。こんな感じの花の添え方もヨーロッパ的だわね。
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80歳の母親の親の代の写真や彼女たちの幼い頃の写真がたくさんあるのは、やはりお家柄か。このページはうちのドイツ人が赤ちゃんの時のもので、写真もずいぶん新しい。それでもこの時期はまだ白黒だったのよね。
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ちなみにめぎ家からは、まず、日本のお祝い袋に入れたお金(これはこの秋に義母が地中海巡りのクルージングをする際のお餞別代わり・・・熨斗と水引と掛け紙が反対になっているのは、義母がこの熨斗袋を開いて中身を見た後で自分で元に戻したから。日本語が分からず、日本の文化が全く分からない人にとっては、これが反対だとは気がつかないのだ)。次に、浅草の和紙のお店で見つけた小さな猫の置物(義母は猫が好きなので)。その他に、ここには写っていないけど、義母の大好きな英国王室に関する雑誌の年間購読も。義母はイギリス人と結婚してイギリスに20年以上住んでいたこともあって、英国王室好きかつ英語はネイティブ並みなのだ。
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以上のプレゼントから分かるように、盛大に祝う割りにはプレゼントは質素である。しかしこれでもめぎ家からはいつもの誕生日の5倍くらいの予算を投じている。ここまで行った交通費なども加えると10倍かも知れない。ドイツ人たちはこういうときにも高額な贈り物はしない。文字通り気持ちを贈るというか、無理をしないというか、プレゼントは非常にささやかである。ドイツの誕生日は本人の持ち出しが圧倒的に多く、自分が生を受けてここまで生きたことの感謝の気持ちを周りの人たちにお返しするという意味合いが強い。

部屋には近しい友人たちから贈られた花などのプレゼントがいっぱい置かれていた。上に額にかかっているのが彼女の家の紋章。その下にタキシード姿のうちのドイツ人と着物を着ためぎの写真もある。これはめぎの妹の結婚式の折に撮ったスナップ写真なのだが、息子のバリッとしたタキシード姿とめぎのエキゾチックな恰好の写真が義母の気に入り、紋章の下という特等席のような位置に飾られている。これがここを訪ねた人の目に常に止まるので、めぎはこの町でかなり有名人である。義母はこの部屋で町の子どもたちや大人に英語を教えており、また教会の参事会員なのでよく人がここに集まったりするようなのだ。
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それからそれぞれ部屋でしばらく休憩を取り、夕食に備えた。べったり一緒に行動せず、適度に休憩を取るところが面白い。適度に距離感のある家族関係というか、年齢と共に疲労を抑える術を身につけたというか、個人主義のヨーロッパらしさというか。

そして夜7時にレストランへ。
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市長なども招いてパーティーを開いたのはこの次の日のことなのだが、誕生日当日の夜は、家族だけで義母の住む町一番のレストランへ。小さな町なので、一番のレストランといってもまあこんな感じだけど、味はとても美味しかった。またもやしつこく書くが、食事代を払ったのは義母。めぎたちも叔母と従妹も一銭も払っていない。ドイツの誕生日って、お金かかるわねえ。
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それからまた貴族の館に戻り・・・
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そこに教会の牧師さん夫婦もお祝いに訪れ、こんなのをつまみながら、それぞれ好きな飲み物を。義母と牧師の奥さんはTullamore Dewというウィスキーを、牧師さんは赤ワインを、うちのドイツ人は自分で持参したプロセコを、叔母と従妹はBaileysというクリーム色のリキュールを、めぎはカシスリキュールを。
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みんなで壁に掛かっている先祖の写真を見たりしながら。
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こうして誕生日の当日は暮れていった。
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つづく。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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80歳の誕生会 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、8月中旬のドイツ東部でのお話を連載中。

義母の80歳の誕生日パーティーに招かれためぎ家。誕生日当日は昨日書いたように家族で祝い、次の日に大きなパーティーが催された。会場は自宅近くのホテルのレストランの一室を貸しきりで。11時から2時までの予定。ビュッフェスタイルのパーティーということで、それほど畏まった席でもないのだが、市長やら牧師やら有力者が集まるという。まあそれは、彼女がこの辺りの貴族の出で、教会の参事会員という有力者であるからなのだが。11時前には既にお客さんたちが集まり始め、うちのドイツ人とめぎはイチイチ紹介された。
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会場が満席になったところで義母がグラスをスプーンでチリンチリンとたたいて開会の挨拶。グラスをスプーンでたたくというのはドイツのこういうパーティーではよくあること。こういう席に司会者などがいないのもドイツでは極めて普通。義母の挨拶もあっさりとしたもので、今日は私の80歳の祝いにお集まりいただきありがとう、どうぞおなかいっぱい食べて楽しく歓談を、という程度。
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義母はこういうパーティーが大好きだ。それは、みんなが彼女のために集まってくれて、プリンセスになれるから。とは言え70名もの人が集まるのだから、彼女は友人知人が多く、恐らく人望もあって故郷で幸せに暮らしているのだというのが伺える。それはとっても有り難いことだが、問題は、うちのドイツ人がこういうパーティーが大嫌いなこと。彼は何十人もの人が集まって挨拶に追われてろくに話しもできず、表面的ににっこり笑って回って終わるようなタイプのパーティーを蔑んでいる。しかも義母はそこそこ見栄えのする息子と外国人のめぎを彼女の国際性の証として見せびらかしたいので、挨拶に次ぐ挨拶に追われる羽目となる。それに苦虫を潰したうちのドイツ人は、何度もテラスに煙草休憩へ。
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綺麗な景色だけど、煙草休憩、多すぎ~~
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しかし、そこでも挨拶は免れない・・・なにしろドイツ人の喫煙率は非常に高く、こんな奥様だってお吸いになるのだから。この女性も、あなたがあの日本人ね、と例の昨日書いたあの写真のことをめぎに話しかけてきたのだった。はい、そうです、私があれですよ~
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中に入ると写真撮影で忙しい。叔母もパシャパシャ撮っていたが、叔母のカメラはフィルムカメラ。途中でブィーンとフィルムを巻く音がして、まあ懐かしいわねえ。
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ビュッフェ形式のパーティーの場合いつ来てもいいので、新しく来る客が途切れない。その度に挨拶があるので本当に忙しい。モブログアップ用にスマホでビュッフェを撮り、その後デジイチでもと思っていたらまた挨拶に追われて撮り損ね、それきり忘れてしまった。ドイツのこんな田舎町のビュッフェにそれほど期待していなかったのだが、とってもお洒落でとても美味しかった・・・写真が無くてとても残念。

客はこんな風にたいてい花をプレゼントに持ってくるので・・・
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別室の机はこんな状況に。
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70歳の誕生日にも同様のパーティーを開いたようだが、そのときには存命だった彼女の連れ添いが70本のバラをプレゼントし、その幸せそうな写真が残っている。それから10年経って、一人になってもこれだけの花をもらえる人生。辛酸を舐めたかも知れないが、幸せでもあるわよね。
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ところでこのパーティーに、義母が英語を教えているこんな小さな女の子が家族でやってきたのだが、ドキドキしながら順番を待ち、嬉しそうに渡す様子がなんとも微笑ましく、この手作りっぽい瓶のプレゼントに何が入っているのかめぎは興味があって・・・
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別室へ撮影に。中には20ユーロ札で折った船が2艘。子どもたちみんなからの贈り物なのかな。それともこの家族からなのかな。なかなか良いアイディアね。恐らくこの秋の義母の地中海クルージングのためのお餞別の意味を込めているのだろう。
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義母はクルージングが好きで、連れあいを亡くして以来、北欧からサンクト・ペテルブルクまでのクルージング、地中海から大西洋を渡ってアマゾン川を上るクルージングなどを行った。2週間から1か月に及ぶ船の旅は彼女にとっては相当に居心地がいいらしい。どうやら、船の乗組員たちに至れり尽くせりお世話されるのが、幼い頃貴族として傅かれていたときの記憶と結びつき、非常に気分がいいようなのだ。しかも、クルージングはドイツ語でKreuzfahrtというのだが、それは同時に十字軍遠征という意味でもあって、ただの豪勢な旅ではなくキリスト教の巡礼のようなイメージを持ち、未亡人の彼女には非常に好都合。それがまた、キリスト教のうさんくささに嫌気がさし、かつ亡くなった連れあいとの関係を快く思っていないうちのドイツ人には苛つくことであるのだが。

そんな訳でまた煙草休憩へ。しかも今度は下の庭へ降り、ちょっと散歩へ。
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まだ12時半・・・あと1時間半もあるわねえ。
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こんなに席を外していいの?と思いつつ15分くらいうちのドイツ人の気晴らしにつきあい、雲行きも怪しくなってきたので急ぎ戻ったのだが・・・
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その間になんと、サプライズで教会の音楽監督が現れてコーラスが披露されたのだとか。

あららら~その写真が撮れなかったじゃないの!
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ま、めぎの所為じゃないから、いいけど。(また煙草休憩)
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次のサプライズ。前に立っている男性が、やはりグラスをスプーンでチリンチリンと鳴らしてみんなを静かにさせ、演説。それはなにやら詩の朗読のようだったのだが、後でうちのドイツ人に聞いたところ、ファウストの一節を義母のストーリーに替えてスピーチしたのだとか。そうかあ、そういうのがさくっと分からないのは、外国人として最も残念なことね・・・(でもまあ、うちのドイツ人の従妹も分からなかったそうだから、ドイツ人がみんな分かるという訳でもないだろうが、ここに集まっていたお年寄りたちはみんな大ウケしていたからたぶん分かっていたのだろう。)
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それからまたもや、今度は従妹も一緒に近くのお城まで散歩へ。3人で、今回来なかったうちのドイツ人の妹の英断を讃えながら・・・こう言ってはなんだけど、この町に住んでいない部外者にとっては本当に本当に本当に退屈なパーティーだった。義母のためだから我慢できるけど、義妹はその我慢ができるほど母親といい関係ではないのよね・・・それはともかく、ドイツ人というのは本当に我慢がきかないというか、3時間くらいなんとか耐えられないの?と思うのはめぎだけ。思えば日本人は入学式に始まって毎学期始業式やら終業式、定期的な全校集会、さらに卒業式の練習・・・といった儀式に耐える練習を子どもの頃から積んできてるけど、ドイツにはそういうのが一切無いので、つまらなくてもしばらく黙って耐える、ということがまるでできないのだ。うちのドイツ人にしてみたら、自分を捨ててイギリスへ行った母親のために自分が今尚耐えてやる必要はない、ということなのだろうが。
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そうしてなんとか2時を過ぎ、まだお客さんは15名ほどいたが、うちのドイツ人は部屋に引き上げた。
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次の義母との待ち合わせは午後4時。つづく。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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誕生会の後で [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、8月中旬のドイツ東部の話を連載中。

80歳の誕生日パーティーを終え、4時に花などプレゼントをレストランから義母の家へ運ぶ作業をし、ようやく落ち着いたのが5時ちょっと過ぎ。
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花いっぱいになったうちの中。
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鉢植えはともかくこんなに花束いっぱいもらって、ちょっと勿体ないわねえ。
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落ち着いたところでまたコーヒータイム。
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ケーキはまた冷凍を解凍したもの。
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こうして一息ついてから、今度は庭のテラスへ。
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まだ9時頃まで明るいドイツ。この日の夜は庭でバーベキューをすることになっていた。
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バーベキューを請け負ったのはうちのドイツ人。といっても火を起こして焼くのを請け負っただけだけど、それはドイツでは男の仕事。義母は3年前に連れ添いを亡くし、2年前にめぎ家がここに後片付けの手伝いに来て以来、外でバーベキューをしていないという。そりゃそうだろうな・・・めぎだって一人でバルコニーでバーベキューしようとは思わないだろうし。だから義母はこのバーベキューをものすごく楽しみにしていたらしい。パーティー会場でずいぶん多くの人から、今晩お母様のためにバーベキューをしてあげるんですってね、彼女とっても楽しみにしてましたよ、などと言われたのだった。

デュッセルドルフから用意していったバーベキュー用の炭を使って火をおこし・・・
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2年間使ってなくて埃だらけになって所々変色していたクッションを出してきて並べた。
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義母がバーベキュー用にと冷蔵庫から出した冷凍の味付け肉。
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解凍も兼ねて、少し上の方に設置。
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以前にも書いたが、義母は料理が苦手でたぶん嫌いでもあって、そしてもともと食べることにそれほど興味もないようで料理にも拘りはなく(まあイギリスかぶれのドイツ人に美食を期待する方が間違いかも知れないが)、息子が来るから手料理でもてなそうとか、好きなものを作っておこう、いいものを用意しておこうなどといった考えは全くない。もともと息子にも母親の手料理の記憶はなく(なにしろ父方の継母の元で育てられたし)、いわゆる母の味というものは無いのだ。とは言っても、こうして冷凍庫から出てくる口の開いた無機質な袋を見ると、2年ぶりに訪れる息子へのなんらかの気遣いって無いのかな、とちょっと思う。この町にだってマルクト市場はあるし、せめてちょっといいお肉を買っておいてくれればうちのドイツ人が美味しく味付けできるのに。うちのドイツ人も、その直前の日本でのめぎの両親の素晴らしいもてなしを思い出し、これってほんとひどいよね~とめぎにこそっとポツリ。しかし義母の方は、久々のバーベキューが嬉しくて嬉しくて、ウキウキ状態。

そうこうしているうちに、急に雲行きが怪しくなって・・・
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土砂降りに。テーブルの上やクッションを急いで片付けたが、バーベキューの火は大丈夫かな・・・
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20分くらいして、小雨になって虹まで現れたが・・・
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すっかり濡れちゃって、雨上がりで寒いし、外で食べるのは無理そうね。
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というわけで、庭に続く地下室の簡易キッチンのそばに急遽テーブルセッティングしてここで食べることにした。
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サラダを作ったのは叔母。布にくるまれているのはオーブンで解凍してパリッと仕上げたパン。
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この日もそれぞれ好きな飲み物を。めぎは地下室から適当な白ワインをいただいた。
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冷凍肉も十分火が通ったようで・・・
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いただきまーす!
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ということで、滞在最終日の夜は冷凍食品のバーベキューを食べたのだった。まあ味は悪くはなかったけど。こういうのを見ると、ヨーロッパの貴族のイメージ、がた落ちでしょ♪ まあ、これはかなり極端な例だとは思うけど。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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泊まったところ [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、8月中旬のドイツ東部の話を連載中。

ここが義母の住む貴族の館だが・・・
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今回めぎ家は義母の家に泊まらせてもらえなかった。以前はこの家の3階の女中部屋のようなところに泊まったり、2階の広い部屋に泊まったり、地下の小さな部屋に泊まったりしたのだが、地下は現在書斎となり、2階と3階は人に貸しているのだとか。

そんなわけで、めぎ家は歩いて3分くらいのホテルに宿泊。叔母も従妹もそれぞれシングルをとってここに宿泊。1日目の夕食のレストランも2日目のパーティーもこのホテルのレストランだったのでまあ便利といえば便利だし、距離を置くことができて意外と気楽でよかった面もあるが、なんでわざわざ義母を訪ねたのに、しかも招待されたのに、一泊一人40ユーロも出してホテルに泊まらなければならないのかと思うと、ちょっとね・・・今回義妹が来なかったのは、そういう背景もある。
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後ろから見たホテル。小さな町のホテルにしてはとても綺麗だった。まあ結構なお値段だしね。
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ホテルの部屋も清潔でそこそこ広くて快適。
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喫煙率の高いドイツだが、こんな田舎でもホテルの部屋が禁煙になってて、時代の流れを感じる。
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バスルームはシャワーのみ。ドイツのこのくらいの室料のホテルでは極めて一般的だが、ただこのシャワー、規格品をここに取り付けたというのは分かるけど、左横のスペースが勿体ないわねえ。なんにも使えないスペースよね。
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ホテルに泊まったので朝食もホテルで。これは1日目の朝食。ビュッフェを写すのを忘れたが、結構な種類が並んでて美味しかった。
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2日目の朝食は、義母もやってきて一緒に食べた。というのはこの日の朝食後めぎ家はデュッセルドルフに帰るので。
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美味しかったな~♪
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食べ終わると義母はDie Losungenという本を取り出し、聖書の一節を読み上げた。この本は生活を律するような聖書の一節が書かれてて、日々唱えるものらしい。はいはい、と誰も聞いてはいなかったけど。まあ教会の参事会員様だから、こういうのが大事なのだろう。
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いや、義母自身もこれを読み上げることにのみ意義を感じているようで、その中身というか内容に関しては全く無頓着。昨日のパーティーやバーベキューのことといい、たぶん義母にとって重要なのは見栄えや儀礼や習慣とか形式とか、つまり貴族としての対面なのであって、中身はちょっと二の次なのかも。

それからテラス席へ移動して・・・
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義母とうちのドイツ人と従妹は食後の一服。
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めぎは最後の写真撮影。
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煙草の煙のにおいの嫌いな叔母は、室内で絵はがきを書いていた。
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日本ではもう絵はがきなんてどこにも見あたらなくなっていたけど、ドイツではまだ絵はがきが生きている。買って書いて送る人がいるのだ。叔母の世代がいなくなったら、ドイツからも絵はがきが消えるかも知れないが、まだしばらく需要がありそうだ。(ここで言う絵はがきとは、その町の観光名所の絵はがきのこと・・・日本で以前観光名所にたくさん置かれていた絵はがきは今や全く見当たらない。東京の絵はがきを義母に送ろうと思っても、それを売っている場所がなかなか見つからない。あってもお洒落なアートのばかり。今はみんなケータイやスマホで写真を撮ってメールしちゃうから、絵はがきの需要が無いのだろう。)

ここからの景色、綺麗だったな~
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また義母を訪ねることがあったら、そのときもここに泊まらなければならないんだろうな。
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こうして2泊の滞在を終え、めぎ家はこの町を後にした。
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この町の話はしつこくもう一回。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)、 Nikon 1 V1 + 10mm(F2.8)
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ドイツ東部の田舎町 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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ドイツ東部の話は本日ひとまず最終回。

義母の住んでいる町は、ライプチヒからドレスデンへ向かうアウトバーン沿いにある。アウトバーンを降りると綺麗な緑の世界。
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10分ほど走って、町の中心へ。ちょうどマイセン行きのバスが通っていった・・・マイセンはここから20㎞ほど。
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石畳の町。
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歩道はこういう石畳。石がいっぱいある地方なのだな・・・
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めぎ家がよく行く北ドイツは石がない地方なので煉瓦ばかり。当たり前のことだけど、同じドイツでも地方によって景色がずいぶん違う。石があるところでは煉瓦を滅多に見かけない。

城の方へ行ってみると・・・
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城の土台の部分は石というより岩。
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ここ、その昔はお堀だったのかしらね。
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城のまわりは誰でも自由に散歩できる。
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裏側の街並み。
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ね、煉瓦造りの家はないでしょう?
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日本も明治維新の時にオランダやイギリスではなく別の国から建築技師を呼んでいたら、洋館は煉瓦じゃなくて石造りや木組みの家だったかも知れないわねえ。

ああ、もう秋だな・・・
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石畳を歩く・・・これ、ヒールの靴を履いている女性にはなかなか辛いわよね。めぎは草履だったからこういうところではとっても楽だけど。
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そんなに高い建物がないので空が大きい。
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町の反対側へも行ってみた。この石畳の駐車場は、曜日によってはマルクト市場になるのだとか。
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町の肉屋さん・・・8月11日から23日まで夏の休暇中。ドイツではこういう小売店がしっかり休暇をとる。
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向こうに見える建物は市庁舎。
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ここを収めた人たちの代々の紋章が。
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この町は長いことマイセン辺境泊のものだった。義母も自分はマイセンの人間だという意識が強い。めぎ家に毎年冬に送ってくれるクリスマスのシュトレンというケーキも、いつもドレスデンのではなくマイセンのである。
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この町で感じたこと・・・ああ、東だなあということ。ほんの25年前までここは東ドイツで、その当時は英語など全く通じず、学校では外国語としてロシア語を教えていたそうだ。だからそこへイギリスから帰ってきた義母が英語の教師として活躍の場を見出したのである。ここでは外国人の姿を見かけない。マイセンやドレスデンと違って名もない田舎だから、観光客も来ない。その割りには寂れてなくて綺麗に整っているのは、この町の人たちがこの町を愛しているからかも知れない。牧師も人望が厚く、教会を中心にまとまっているからかも知れない。
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道標が美しい・・・歴史あるところっていいわね。
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こうしてめぎ家はこの地を後にした。
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ドイツ東部の話はこの他に行きに寄ったライプチヒや帰りに寄った小さな村の話があるのだけど、それはまたそのうちに改めて。2年前に行ったときに寄ったいくつかの町の話もまだあるし、いつかまとめてゆっくりと。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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ライプチヒ観光 大学編 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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今日はずいぶん前のことだけど8月にライプチヒを訪ねたときのお話を。

ここはライプチヒ中央駅。
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電車で来た訳ではないのだが、うちのドイツ人にこの近くで降ろしてもらったので駅もちらっと見学。
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デッサウ行きだって・・・東って感じね♪ そういえばデッサウのバウハウスを訪ねたことがあったなあ。めぎの母校の研究プロジェクトの出張で。もう13年も前のこと。
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8月中旬、めぎたちはうちのドイツ人の母親の80歳の誕生日祝いのためにドイツ東部を訪れた。そのとき、一日早く東部入りをし、うちのドイツ人はライプチヒ近くに住む叔父夫婦を訪ね、めぎはライプチヒ大学に勤務する元同僚・・・ライプチヒ大学の大学院を卒業してからデュッセルドルフ大学に数年勤め、その後ライプチヒ大学の専任になった元同僚を訪ねたという訳である。

駅前の公園。元同僚によると、ライプチヒはゴスロリが多いとのことだが・・・
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早くも発見!
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さて、まずはアウグストゥス広場に面して建つ新しいビル。
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その横に、ライプチヒ大学の新しい校舎。
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ライプチヒ大学は1409年の創立で、ドイツでは1386年のハイデルベルク大学に次いで2番目に古い。しかしまあなんと超現代的な建物であること・・・どれほどのお金が東に流れているかを象徴するなあ、とちょっと思ってしまう。

中にはライプチヒ大学の名だたる卒業生たちの胸像が。これはレッシング。「ラオコオン」や「賢者ナータン」を書いた人・・・と言って分かる方は相当なドイツ文学通。
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その他ゲーテやニーチェ、首相のメルケルさんもライプチヒ大学のご出身。

校舎はもちろんそれだけではない。裏の方に行くと、さらにいくつか建物が。元同僚はここで授業をしているそうだが、デュッセルドルフ大学とはまるで違って最新設備。いいわねえ。
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元同僚によると、数年前まではライプチヒ大学の学生は素朴でアットホームでいい雰囲気だったのだが最近はずいぶん西側風になってきたとのこと。服装も垢抜けてきて、ちょっとクールというか都会風に冷たいというか、以前とは人間関係のあり方が変わってきたのだそう。それが元同僚は残念そうだったのだが、それは若者の世代では西側との差がなくなってきたということで、東西統一がようやく目に見える形になってきたとも言えるのかも知れないわね。

近くに学食が。この日は休みのため、外のガラス越しにパチリ。学食もずいぶん綺麗ね。
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元同僚がデュッセルドルフ大学の同僚だった頃、めぎたちはいつも学期末に「メンザ・デート」をしていた。メンザというのは学生食堂のことで、つまり二人で食堂でお昼を食べながらその学期のことをあれこれ近況報告・情報交換していたのだった。同僚と毎週顔を合わせてはいてもおしゃべりする暇は全くなく、いつだったかめぎが代講をお願いした御礼に食堂でお昼を御馳走したのをきっかけに、毎学期末に学食へ行くようになったのだった。それをいつからか「デート」と称して、まるで学期末の儀式のように予め日にちを決め、その日は教授たちも他の同僚も学生たちも一緒にお昼を食べるのを遠慮してもらっていた。今回ライプチヒでメンザ・デートできるかな、とちょっと思っていたのだけど、お休みで残念。

元同僚は、授業のある日に学食まで行って食べる時間などまるで無いとか・・・そんな暇があったら仕事しちゃって、早くうちに帰りたいのだとか。なにしろ授業時間数も多くて・・・そうそう、西側で大学の語学講師になるとフルタイムで17時間勤務なのだが、東側はフルタイム24時間だったか、正確な時間はうろ覚えだが、とにかく多めらしい。それはまたずいぶん大きな格差だわねえ・・・これは週に17時間または24時間授業をするという意味で、授業準備や試験作成や採点やその他諸々の時間はそこに含まれてなく、それを合わせて週に38.5時間仕事をすると考えて給料が支払われているのだが、フルタイムの授業時間数は州によって違うようだ。しかし、17時間授業より24時間授業の方が準備も採点もその分多い訳で、会議や面談やプロジェクトやなにやらあるととても38.5時間では終わりそうにないと思うんだけどな。どうして差があるのか不思議よね・・・と思ってちょっと調べてみたら、東側は週40時間で計算してるって!

それから少し歩き、元同僚の研究室のある建物へ。
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ここはちょっと趣きあるわねえ。
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おお、中も素敵♪
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いいなあ、こんな素敵な階段・・・
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廊下はみしみしと音を立てる板張り。
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研究室は二人で一部屋。どこの大学も部屋が足りなくて苦労しているのかもね。

それからまた歩いて別の建物へ。この辺りはその昔元同僚が学生だった頃に良く来たところだとか。
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大学図書館。立派ねえ。
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中も美しい♡
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歴史のある大学、いいなあ。デュッセルドルフ大学はまだ50年も経ってなくて、建物が無機質で、こういうクラシックな良さは全然ないのよね。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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ライプチヒ観光 黒魔術編 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、8月のライプチヒ訪問の話を連載中。

昨日のゴスロリのことだけど、ゴスロリを含む日本のコスプレはドイツ並びにヨーロッパ各国で一部の若者たちの間で大人気。特にロリータファッションとゴスロリファッションに関しては、学校にも大学にもその恰好で現れ、もはや珍しくもない。しかし、彼らは他の学生たちと一線を画す傾向があり(そうでない例もあるが)、だから以前お見せしたあのCMが作られたのだろう。(ちなみにあの映像の男性は、あの少女のお父さん役である。朝、車で学校まで送っていき、その後彼女の趣味に合わせて家の壁の塗り替えをしたという訳である。)

ただ、ライプチヒのゴスロリに関しては日本のコスプレの延長ではないようだ。ドイツ芸術のロマン派の流れ「も」汲み、服装のみならず映画、絵画、音楽と多岐にわたる。ライプチヒでは92年から毎年聖霊降臨祭の頃(キリスト教の行事で毎年6月頃)にWave-Gotik-Treffenというゴシックアートの大きな集いがあり、ゴシックアートを好む人たちが黒い衣装で集い、ゴシック・ロックやゴシック・パンク、ゴシック・メタルなどのライブが開かれ、かつロマン派文学の朗読会やゴシック系の映画上映などがあり、クラブパーティーが開かれ、その中の一ジャンルとして日本から文化輸入されたヴィジュアル系コスプレも参加しているそうだ。そこに集まった人たちの写真の一枚をWikipediaからどうぞ。これを見ると、参加者は若者には限らないことも分かる。
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すごい迫力だけど、絵になるわねえ。
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ドイツ人ってこのように、老いも若きも、やるときには徹底的にやる。これは趣味に限らず勉強も仕事もそうで、ちょっと話は逸れるが、ドイツ人が「やらない」という行動に出るときは、それも徹底的で、何かその体制や状況に不満や反発があるという印でもある。そういうときにはそれこそ徹底的に話し合わなければならない。

さて、久々に町の観光♪ 元同僚は学生時代にライプチヒの観光ガイドのバイトをしていたそうで、見所を案内するのがとっても上手。めぎはすっかり観光客になって、時々写真撮りながらついていくだけ♪
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先日ご紹介したニコライ教会やアウグストゥス広場(ドイツ再統一へのデモが行われたところ)、昨日ご紹介したライプチヒ大学を見た後、やってきたのはメードラーパッサージュというショッピングアーケードにある小劇場。
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元同僚がかつてドイツにやってきたばかりの頃にドイツ語を教わった先生が、ここで俳優として活躍しているのだとか。日本で言えば寄席みたいな、お笑いショーみたいな感じかしら。

それからそのアーケード内にあるこちらのカフェへ。
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元同僚は、デュッセルドルフからライプチヒに移るとき、ライプチヒを訪ねてくれたらカフェでコーヒーを御馳走します、とみんなに約束してたので、めぎにも御馳走してくれた♪

ここはメフィストというカフェ。メフィストさんがほら、あそこにも・・・
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そこにも・・・
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ここにも。
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このカフェ、仕掛けもあって、コーヒーを飲んでいる間に店内が暗くなって鏡からメフィストさんが現れたりも♪

メフィストとはゲーテの最高傑作の一つ「ファウスト」に出てくる悪魔の名前。ゲーテはライプチヒ大学で勉学中、このアーケードにある酒場によく来ていたらしい。だからそれにちなんだ名前のカフェがここにあるのだろう。ファウストではなくメフィストを選ぶところがなんとも面白いわね。ゲーテは「ファウスト」に、その酒場にファウストとメフィストがやってきてメフィストがそこで飲んでいる学生たちに魔法をかけて悪戯するシーンを描いてて、だからその酒場の前にはファウストとメフィストと・・・
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魔法にかかった学生たちの銅像がある。
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この両側から地下に降りていって入るようになっているこの酒場、アウアーバックス・ケラーといって、15世紀くらいから既にここにその前身があったとか。ゲーテがここに出入りしていたのは1765~68年のこと。めぎは10年近く前にうちのドイツ人と義母と彼女のパートナーと4人でここで食事をしたことがある。そのときはコンデジしか無くて、暗い店内で撮った写真はブレブレもいいところだったが。(ドイツのレストランはたいてい間接照明と蝋燭だけで非常に暗いのだ。)
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レストランのお昼のメニューやら何やらの看板の中に、こんなのがあった。
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11月24日17時半からここでクリスマスディナーショーがあるみたい。あの小劇場の人たちが、ここでクリスマスをネタにした楽しい笑劇をするようね。ショーの観劇と3品のコース料理つきで54.5ユーロ。
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ちなみにこのディナーショー、12月にもあるみたい。場所はこの酒場じゃなくて劇場の方だと思うけど。詳細はこちら。8月にこれを見たときにはクリスマスディナーショーなんてずいぶん気が早いなと感じたけど、もうあと一か月でクリスマスなのね。

ところで、ライプチヒにはその他にもゲーテ所縁の場所が。もちろんゲーテ像もあるし・・・
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ゲーテが良く出入りしていたというカフェCoffe Baumも。
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このカフェの方は、19世紀にシューマンなど音楽家たちが集った場所としての方が有名かな。
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つづく。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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ライプチヒ観光 聖空間編 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、8月のライプチヒの話を連載中。
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ここはライプチヒ観光の目玉、トーマス教会。
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ニコライ教会とは違った素朴な感じだけど、素敵な天井ね。
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中も素朴感のあるあたたかな雰囲気。
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座席もそれほど凝った装飾はない。
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礼拝に訪れた人たちが帽子を掛けるフック。
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10年くらい前にここの礼拝を見たことがある。うちのドイツ人の義母に連れてこられたのだった。トーマス教会の合唱とオルガンの音を聴くことができて感動したのを覚えている。ただ、教会ってお尻痛くなるのよねえ・・・冬はしんしんと冷えるしね。教会というのは神社やお寺と同じく、何か落ち着く雰囲気を備えているが、やはり神社やお寺と同じく、ある種の忍耐を強いる独特の雰囲気がある。聖なる空間って、ただ清らかなだけじゃなくてなにか苦痛を伴うわねえ。

あちらには綺麗なステンドグラス。
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望遠がないのが残念だが、大口径レンズとフルサイズカメラのおかげでトリミングしてもここまで綺麗。
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もっとトリミングすると、バッハが♪
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そう、ここはバッハが活躍した教会なのだ。バッハは1723年から亡くなる1750年まで四半世紀以上ここの専属オルガニスト&指揮者を勤め、あの膨大なカンタータや受難曲やオラトリオなどはこの教会での礼拝のために作曲したもの。ここにはバッハのお墓も。
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と言っても最初からここに葬られた訳ではなく、没後200年もたった1950年にここに移されたのだとか。当時はバッハの地位を妬む人もいたし、今ほどの名声もなかったしね。
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後ろにはオルガン。
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これは1889年ので、残念ながらバッハが弾いていた時代のではない。(これもトリミング。)
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ピアノを習っていた人ならきっとバッハの作品を練習したことがあるだろう。めぎは長いことバッハが苦手だった。弾くのはショパンなどよりずっと難しく、しかも単調に感じたのだった。バッハの良さが分かったのは大人になってからだったな・・・如何に美しく、深く、しっかりとした構成で、それでいて洒落ていて、大胆で清らかか。そして、ドイツに来てもっとよく分かったのは、バッハは教会音楽ばかり作った人だということ。宗教音楽なのだ。彼の信仰していた宗教を理解せずにバッハを理解することはできないとさえ思えるほど。つまり、めぎには一生理解不可能と言うことかな。クリスマス・オラトリオを聴いていると、めぎもその音楽が美しいと思うけど、うちのドイツ人ほどは感じられないと毎年毎年思い知るからだ。それよりは、ほとんど耳にしたことの無かった雅楽の方が、その独特のテンポが不思議なほど腹に馴染むというか。

ところで、さっきのステンドグラスだが、バッハの窓の左に描かれているこのお方、グスタフ・アドルフというスウェーデン王。
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彼はバッハよりも100年も昔、17世紀の人で、当時スウェーデンは北ドイツを支配下にし、ポーランドやロシアと戦争をしていた。そのうちにポーランドは諦め。北ドイツの支配を盤石にするためにプロテスタントとカトリックの戦いであるドイツ三十年戦争に参加し、戦いで30代で命を落としたのだとか。スウェーデンがドイツを支配していた時期もあるのねえ。この100年間の歴史でドイツのイメージは非常に悪いけど、ヨーロッパの長い歴史を見れば印象は180度変わったりもする。

ものを違う角度から見るようにしよう・・・と思ったけど、これはどうも失敗かな。最近ちょっと斜め撮りを練習中。聖なる空間も色々ほじくれば大いに傾いて見える、と言いたかったんだけど、でも、これ、説明しないと分からないわよね。
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ライプチヒで活躍した音楽家はバッハのあとにもシューマンやらリストやらワーグナーやら。その所縁の場所もあるだろうけれど、今回行ったのはこのトーマス教会のみ。そろそろクリスマス・オラトリオの季節。ここの緑も今はすっかり葉が落ちていることだろうな。
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それにしても昨日のゲーテと言い、今日のバッハと言い、なんとたくさんの業績を残していることかしら。なんて勤勉で、なんて量産し、なんて質の高い仕事をしたことかしら。ああ、そんな風にありたいものだなあ・・・と思いつつ、凡人のめぎは全くもって一つのことさえ手が回りきらないわ。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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ライプチヒ観光 公共機関編 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、8月のライプチヒの話を連載中。

これは先日も載せたゲーテ像。
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その後ろに見える建物の右側には旧証券取引所。
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左側には旧市庁舎。
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旧市庁舎をこうして全体が入るようにも撮ったけど、面白くない写真だわねえ。
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かえって、この広~~~い広場の方が面白いな。この広場はマルクトと言い、1ヘクタールもあるとか。今も市場が開かれ、クリスマス市もここで開かれるらしい。
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それからしばらく歩き、ここは新市庁舎。新と言っても1905年の建築だけど。
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ものすごく大きな建物。一万㎡もの土地に建っている。とても全体を入れては写せない。
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一階にRatskellerがある。市庁舎の下にあるレストラン。Kellerだから地下レストランというべきかしら。歴史のある町にはつきもののレストランで、その土地の料理が食べられる。今回は行かなかったけど。
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あら、獅子が。
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説明を読んでみると、この新市庁舎は元プライセンブルクという城があったところらしい。1549年から350年間も建っていた城を取り壊してこの新市庁舎が建てられたのだとか。そう言われると、勿体ないわねえ。
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遠く離れると、ようやく全体像が見える。これはちょっと離れすぎて、なんだか小さく見えるわね。
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趣きあるトラム、素敵ね。
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このライプチヒの旧市街を出たところに、ドイツ連邦行政最高裁判所がある。
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その前を通り過ぎ、住宅街へ。そのどこかのレストランで、元同僚とワインを飲みながら夕食を楽しんだ。なかなかお洒落なモダンなところ。
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料理も手頃なお値段。これ、なんのスープだったかな・・・
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メインには焼いたチーズの載ったサラダ。元同僚はオムレツ。
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ここにめぎたちはすっかり根を下ろしたかのように居心地良く座り続け、おしゃべりに花が咲き、18時過ぎから夜中の12時過ぎまでいた。ワインは2本空けたと思う。これ、0時11分の撮影。後ろの壁に大江健三郎の絵があったのね。
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それからこんな真っ暗な川(たぶんElsterflutbettという川だと思う)の上を横切り、元同僚の家へ向かった。
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ライプチヒの話はあともう一回。


♪ おまけ ♪

これは旧市街のどこかのストリート。カフェやレストランのテラス席ならぬストリート席がぎっしりと並ぶ。ドイツ人は外の席に座るのが好きで、雨や日差しよけの大きな傘の下には寒さ対策にストーブまで立っている。
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これは同じく旧市街のどこかにあった日本食レストラン。でも、ここ、こんな表示じゃ入ろうとは思えないわねえ・・・
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撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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ライプチヒ観光 その他編 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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8月のライプチヒの話は本日最終回。

元同僚の家に泊めてもらって一夜明け、朝8時半過ぎに散歩に出かけためぎたち。まず、Weiße Elsterという川を渡る。この辺りは昔、毛糸工場があったところ。
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それからまたすぐ、カール・ハイネ運河を渡る。
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ライプチヒはWeiße ElsterとPleißeとPartheとの3つの川が流れる水の都でもある。 Weiße Elsterから出たカール・ハイネ運河はザーレ川(エルベ川の支流)と結ばれていて、その昔は重要な運搬手段、船で荷物が運ばれていたようだ。

しばらく運河沿いの散歩道を歩いた。昔の工場跡が続いているような感じのところ。
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そしてこんなところに出た。
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ちょっとアートっぽいところ。
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これからここはどんな風になっていくのかな。
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9時半過ぎ、適当なカフェで朝食。
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バターを撮ったつもりなんだけど、写真としては中途半端ねえ。
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ずいぶん綺麗に盛りつけられた果物。黄色い薄切りのはメロン。
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元同僚は器用に横からナイフを入れてパンを綺麗に2つに切っていた。これ、結構難しい。普通のナイフで、皮がフランスパンみたいに固いパンを手に持ったまま2つに切るのって、めぎは未だ下手で、パンくずがボロボロとこぼれ落ちる。つまり不器用ってことかしらね。
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10時半頃うちのドイツ人が迎えに来て、元同僚訪問はお仕舞い。楽しかった。ありがとう。

それからうちのドイツ人の叔父訪問のあれこれを聞きつつ義母の家に向かったのだが、その前にライプチヒ郊外でもう一ヵ所ちらりと見学。それはここ。
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これはナポレオン戦争のライプチヒの戦いの記念碑。
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ナポレオン戦争の末期、ナポレオン率いるフランス軍をプロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデンの連合軍がこのライプチヒ郊外で壮絶な戦いをして破り、ドイツをフランスの支配から解放したのである。両軍合わせて9万人もの死者を出したとか。

なんだか物々しいわね。
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ところで、その駐車場に、旧東ドイツの商用車が駐まっていた。
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おお、それも、旧東ドイツの国営航空会社の名前が!
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しかしずいぶん綺麗に使っているわねえ。
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右に写っているボタンやレバーがいい味出しているなあ。
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以上でライプチヒのお話はお仕舞い。
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撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
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ドイツ東部のサマーハウス [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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今日から本格的に2016年の夏旅の詳細を。

最初に訪れたのは、うちのドイツ人の叔父のサマーハウス。叔父はドイツ東部ヴィッテンベルクという町に住んでいるのだが、郊外にあるサマーハウスで厳冬以外の一年の大半を過ごしている。それはこんな森の中に立っている。
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サマーハウスというか、別荘コテージというか、そういう感じのところ。大きな森の中に舗装していない道があって、その中にぽつんぽつんとコテージが建っていて、所有者やその家族・知人が休暇を過ごしにやってくるようだ。

叔父のコテージはこちら。
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敷地に入っていくと・・・
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結構な敷地面積。
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うちのドイツ人が、Schrebergarten(シュレーバーガルテン=賃貸小菜園)みたいなところ、と事前にめぎに説明していたのだが、めぎの知るドイツ西側のSchrebergartenは敷地面積がもっと狭くて、植物がいっぱい植えられていて、隣の小屋がもっと近い感じ。ここは、小屋というより立派なコテージだし、森の中にある所為か、あまり花が植えられていない所為か、ずいぶん広々として隣と十分距離があって、孤立感が高いなあと感じたのだった。Schrebergartenとは、ドイツの郊外に分譲賃貸している小菜園で、ドイツの都市部に住む人がそこに好きな花を植え、併設されている小屋で休日を過ごすところ。その小屋には電気も水道もあり、週末に泊まりがけでそこで花の世話をしながらBBQでもしたりして過ごす人が結構いるのだ。デュッセルドルフの郊外にもあって、めぎはかつて結構本気でSchrebergartenを借りようかと検討したことがあるのだが、結構高いし、どうも隣近所の庭の人との交流が面倒そうなので、やめたのだった。

隣との境にはこんな網が張ってあった。大きな蓋付きバケツは雨水を溜めるためのもの。
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どうしてこのサマーハウスで一年の大半を過ごすのかと言えば、ここならあれこれ修理したり作ったりすることがたくさんあって、日々忙しくクリエイティブに過ごせるからなのだとか。大工仕事が好きなところはうちのドイツ人と似てて、ああやっぱり血がつながってるのね~とめぎはふと心の中で思ったり。

では、建物の中へご案内。外から見るとかなり小さく見える平屋建てのコテージ。物置などが別棟になっている。
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↑左の空いているところから入ると、そこはテラスになっている。下の写真の左に写っているレースのカーテンの外がテラス。中に入ると、そこはリビング。リビングにはソファーベッドがあり、安楽椅子もテーブルも棚もあり、写ってないけど手前に大きな薄型テレビもあった。
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その奥がキッチン。大きな食洗機もあるし、電子レンジやオーブンもある。大型冷蔵庫もあったし、狭い狭いと言われたけど、日本の東京圏の社宅住まいを思えば、十分な広さよね。
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バスルームはシャワーだけだが、ドイツ人は普通お風呂に入らずささっとシャワーで済ませるのが主流なので、十分な設備。日本のユニットバスなどと比べると十分広い。
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このように電気も水道もあるしお湯も出るしテレビも受信できるし生活に必要な設備は全て整っている訳で、なんの不自由もない。インターネットはないが、それは叔父夫婦がPCを持たず、インターネットに興味もないから。だからWi-Fiを使わせてもらうということは出来なかったが、めぎのスマホにはちゃんと電波が入っていてさくさくつながって、つまり森の中だから電波が届きにくいなんていうこともなく、特に不自由は感じなかった。

本当に狭かったのは寝室。大きなダブルベッドが入っていて、それ以外はタンスも置けないほどの狭さ。写らないようにしたが、服はベッドの横にハンガーに掛けてむき出しでフックに掛かっていた。ベッドの横には小さな机があって、そこに目覚まし時計やランプが置かれていた。
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いや、でも、夫婦二人で東京だったら、このくらいが普通よね・・・しかも、彼らはこれ以外にちゃんと本宅がある訳で、ここは別荘なのだからねぇ。

さて、めぎたちはテラス席でビールを手始めに夕食を御馳走になりながら、旧東ドイツ人の話に耳を傾けた。
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つづく。

撮影: D600 + 20mm(F1.8)
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東西の分断と家族の分断 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、今年の夏旅の話を連載中。ドイツ東部に住むうちのドイツ人の叔父を訪ねているところ。

昨日載せた写真だが、まずはビールでウエルカム。
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このあと白ワインを4人で2本開けたのだが、写真は撮っていない。

最初に出てきたのは、ポテトサラダ。
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茹でたウィンナーと共にいただく。この手のウィンナーはWiener(ヴィーナー)といい、ウィーンのソーセージで、まさに元祖ウィンナー。焼かずに茹でて食べる。
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さて、↑このポテトサラダだが、ザクセン・アンハルト風。ザクセン・アンハルトというのはドイツ東部の州の一つで、簡単に言えばドイツ東部風というべきか。作り方は、まずメークイン系の茹でても崩れないタイプのジャガイモを皮付きのまま茹で(茹でるときに塩とクミンを入れるのがポイント)、茹で上がったら熱いうちに皮を剥いて一口大に切り、熱いうちに他の具と混ぜ、味付けすることである。味付けはハムか肉のマヨネーズサラダとピクルスの付け汁と塩・胡椒とケイパーというグリーンピースより少し小さめの緑色の蕾のピクルス。叔父のうちの場合、他の具はハムとケイパーとコーンとゆで卵だった。ケイパーの味が利いているのが特徴である。

メインは鶏の胸肉のグリル。この黄色っぽい味付けが何かは不明。ものすごく塩が利いていた・・・ちなみにこの鶏の時は付け合わせは無し。ビールとワインで舌の麻痺を中和しつついただいた。
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このようなシンプルなおもてなしを受けつつ、デザートに写してないけど平べったいタイプの桃をいただきながら(これは美味しかった)、白ワインを片手にたくさんのお喋り。と言ってもほとんどうちのドイツ人が何か尋ねて叔父が答えようとして、そこに奥さんが話を遮ってたくさんたくさん別の話を付け加えるという感じだったが・・・東ドイツ時代のこと、東西統一してからのことなど、あれこれと。
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先日もちらりと書いたが、うちのドイツ人の父親はもともとはデッサウの生まれで、つまりドイツ東部の出身だったのだが、戦後まもなくドイツが東西に分断した頃、両親が離婚し、父親はその父親と共に・・・つまりうちのドイツ人の祖父が一番上の息子であるうちのドイツ人の父親のみを連れて家を出て・・・西側に逃れた(分断当初はまだ国境全てが閉鎖されていた訳ではなく、逃れる道があったようだ)。そのときうちのドイツ人の父親は15~6歳で、一番下の叔父は5~6歳。間にもう二人兄弟がいて、女の子が13歳くらい、男の子が10歳くらいだったとか。なぜそのとき長男のうちのドイツ人の父親だけが母親の元を離れて父親と共に家を出たのかは不明。とにかくそのため、父親は西ドイツ人となり、叔父は東ドイツ人となり、兄弟生き別れだったのである。

東西分裂時代に二度、父親がうちのドイツ人を連れて東ドイツの兄弟を訪ねたことがあるそうだ。一度目は今回会った叔父の家を訪ね、当時、叔父の家には西側から来た人を見に近所の人が訪れたとか。二度目はロストックという町へリューベックから船で出かけ、そこでもう二人の妹弟と落ち合ったとか。と言っても80年代になってからようやく実現したらしいが。うちのドイツ人たちは入国やらビザやらにお金を払い、叔父たちの方は西側の人間の受け入れのために警察に行ったりして手続きにあれこれ大変な準備をしたらしい。当時は、西ドイツ人は東ドイツを訪ねてまた西へ帰宅することが出来たのだが、東ドイツ人は一緒に西へ行くことが適わない時代だった。

このような国の分断に、離婚して長男のみを連れて家を出て行ったという家庭の事情も絡み、うちのドイツ人の父親と叔父の関係は二重に遠い存在となっていたようである。そんな過去があるので、話は多少慎重に、しかし家族の歴史など聞きたいことがたくさんあって、時はあっという間に過ぎていった。一番下の叔父には分からないことも多く、また旧東時代にうやむやになったことも多く、分からないままのことも多々あったが、いくつかの情報はうちのドイツ人に有用だったようである。
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めぎの受けた印象を簡単にまとめると・・・彼らは、基本的に、東ドイツ時代を懐かしんでいるようだった。統一した所為であれもこれもこんなに高くなって・・・とずいぶんこぼしていた(西側でも同じくあれもこれも高くなっていて、これは単なる物価の上昇なのだが、東側はそれを統一の所為にするのだろう)。一方で、バスツアーなどに参加して、フランスなどに旅に出ることが出来る楽しみも享受しているようだった。しかしヨーロッパ以外の国、例えば日本などには全く関心が無く、めぎのような外国人は難民と同じような位置づけであった。奥さんの言葉を借りれば、日本人は今のところテロを起こしたりしてないようだからまあいいけどね、他の難民はちょっとねぇ・・・という言い方である。一般のドイツ人の日本認識度というのは、結局のところこんなものなんだろうな、ということをつくづく感じさせられた。それはザルツブルクでも同様で、今回ザルツブルクの新聞で、日本人と中国人と韓国人とアラブ人とインド人などの観光客を一緒くたに扱った記事を見つけた。その記事では、上記の非西洋からきた観光客たちは西洋とは全く異文化の全く異質な人間で、我々西洋人は彼らをどう扱ったらいいのか、ということが書かれていたのだった。

まあそんな感じなので、めぎは多少居心地悪かったし、コスモポリタンのうちのドイツ人は腹立ちを抑えつつ話をしてて、最後はなんとなく、もうこれ以上話しているとケンカしちゃいそうだからお開きにして寝ましょう、という締めくくりとなった。
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次の日の朝は8時頃起き、昨日の議論は忘れて仕切り直し。
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トマトは庭で穫れたものだとか。
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東ドイツ時代からずっと愛用しているという道具。
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この砂糖つかみをはじめ、東ドイツのものはよかった、という話をたくさん聞いた。
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統一後25年以上経っても今も続く東西分裂の後遺症というか、今も分厚く聳える壁の存在を強く感じた一日であった。

撮影: D600 + 20mm(F1.8)
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サマーハウスのガーデン [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、今年の夏旅を連載中。うちのドイツ人の叔父のサマーハウスを訪ねているところ。
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昨日の記事に書いたようにここには重い現実があって、まさに「家族の義務」でここにいますという感じだったのだが、別の見方をすれば、旧東ドイツ人に家族として個人的に会って、しかも泊まらせてもらって話を聞ける機会なんて普通は無い訳だし、しかも旧東ドイツの別荘コテージを好きなだけ撮影させてもらえる機会も普通は無い訳で、その立場を有り難く享受して、義務を果たしつつ時間を見つけては撮影に没頭して、あれこれ試行錯誤したのだった。
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たくさんたくさん撮っても作品になりそうなのはホンの1~2枚。難しいわねえ。
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作品撮りへの道は遠し・・・
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ちょっとポップな色合いの物置小屋。あれこれ試したけど、あまり納得できるものは撮れなかった。
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隣は薪ストーブを使っているのね。
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森の中にこのくらいの間隔で建っているコテージは、賃貸もあるのかも知れないが、叔父のは購入したもの。彼の場合、ヴィッテンベルクの街中にある本宅の方が借家アパートで、こちらの別荘の方が私有財産という訳で、一年のほとんどをこの別荘で過ごしているというのはそこにも理由があるのかも知れない。本宅アパートの方は真冬のホンの一時期しか滞在しないので、埃だらけだそうだ。
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そのアパートというのは、旧東ドイツに60年代にたくさん建てられた無機質の団地で、当時トイレ・バス付きの部屋というのは画期的で、東ドイツの普通の労働者がみんなそこに住んだ訳だが、日本では当時の団地が既に取り壊されたかゴーストタウン化しているのに対し、旧東ドイツでは今もそこに住んでいる人がいるということ。その現実を聞けば、80近い叔父夫婦がこのコテージに入り浸る気持ちも分かる。自然に囲まれて、草取りしたり水やりしたり家のどこかを修理したりしながら過ごすのは、無機質な団地でただ座ってテレビを見るしかない生活よりずっと充実しているのだろう。
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今回このこびとさんにはずいぶんモデルになってもらった。
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7月下旬、紫陽花がまだこんなに瑞々しく咲いていた。たぶん今もこんな感じのままではないかと思う。ドイツはそんなに暑くないので、紫陽花はも10月くらいまで保つこともある。
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暗くなってきた森。夏は暗くなるのが遅いけど(この写真は夜9時半くらいの撮影)、春や秋は暗い時間が長くて、森の中のコテージはずいぶん暗くじめじめするのではないかと思うが、春は春の、秋は秋の美しさがあるのかも知れない。
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そして翌朝8時頃。光条を撮ろうとあれこれと。
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今こうして写真を整理して記事を書きながら振り返っても、ここの鬱々とした雰囲気が心に重く甦る。森や庭やコテージは美しく、また美しく写るよう努力したのだが、ここは本当にずっしり重く辛かった。
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撮影: D600 + 20mm(F1.8)
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「貴族」の館で [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、今年の夏旅の話を連載中。

ヴィッテンベルク郊外の叔父のサマーハウスをあとにし、次に訪れたのはマイセン近くの義母の家。長い読者の方にはもう何度もお見せしたところ。
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ここに来るのは2年ぶり。2年前は義母の80歳の誕生日で、この辺りのお偉いさんを招いた盛大なパーティーに出席するためだった。その話はこちら。そういえば、誕生日は本日、日本降伏の日。82歳になったのね。健康で一人で暮らすことが出来ていて、なによりのこと。

さてさて・・・昼12時頃到着したところにウエルカムドリンク。オレンジ色の服の人が義母。
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以前にも何度も書いたので繰り返しになるが・・・義母はもともとマイセン近くの生まれの「貴族」の出身。小さい頃に両親が離婚し、再婚した母親と継父の元で育ったが、彼女だけ本当の父親の貴族の名字を名乗り続けた。戦争末期だったか戦後すぐの頃だったか、進駐してきたソ連軍に祖父が目の前で射殺されたり、家を追われたり。ドイツが東西に分断された頃、一家で西側へ逃れ、うちのドイツ人の父親と知り合って結婚。しかしうちのドイツ人兄妹が幼い頃に離婚し、知り合ったイギリス人のボーイフレンドとイギリスへ渡ってそこで結婚、イギリス国籍に。(イギリスがEUを離脱することになって、彼女の在留許可はどうなるのか未だ不明。ドイツ国籍の取り直しをうちのドイツ人は勧めていたが・・・というのは、彼女が亡くなったらイギリス人の死去ということで、相続などの法律も全てイギリスのという訳で、ややこしいことこの上ないから・・・しかし彼女はあまり乗り気ではなかったが。)20年くらいイギリスに住んだ後、東西統一したドイツの故郷で開かれた小学校の同窓会に出席し、そこで幼なじみと再会してまたもや恋に落ち、離婚してイギリスから故郷へ帰国。その幼なじみと共に20年くらいこの家で暮らしていたが、彼は既婚者で、最後まで愛人のまま。5年前にその幼なじみが死去、今は一人でこの家に。
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義母の生き方は、戦争やその後の東西の政治に翻弄されたとも言えるし、自由奔放とも言えるし、貴族としてのプライドが全てとも言えるし、その人生は様々に解釈できる。見たところ、幼い頃のたくさんの衝撃がトラウマとなり、精神的成長が祖父の射殺と共に止まってしまっていて、失礼ながら精神的には今もまだ10歳くらいのお嬢様のまま。本来ならば自分を守り、自分の手を引いてくれるはずなのに、自分を捨てていった父親の代わりを探す旅をし続けているというか。「偉大な」祖父がその役割を果たしてくれていたのが、その祖父もあっけなく撃たれてしまったのだから。
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お昼到着なので、昼食を用意してくれていた。
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義母のテーブルセッティング。ザ・ヨーロッパという感じ。
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マイセン近くのお「貴族」さまなので、マイセンの食器を愛用。と言っても、かつて西ドイツへ逃亡したときに全てを失い、統一後中古を少しずつ揃えたもので、よく見るとB級品が多い。だから惜しげ無く普段使いしているのだろう。良いものは戸棚に飾られていて、全く使っていない。

上に置かれたデザート用のスプーンの向き、反対じゃないのかしら・・・右のフォークも・・・と思って調べてみたら、デザートのスプーンに関しては、イギリスではこう置くパターンもあるらしい!そっか~そうなのね。それに、よく見ると、スープ皿、欠けてるわね・・・
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メニューはトマトの冷製スープ。ガスパッチョというスペイン風のスープで、トマトやキュウリなどの野菜を切ってミキサーにかけて作る。実はこのスープ、義母は2年前にも全く同じものを作って待っていた・・・その話はこちら。今回も2年前も滞在中に食べたもので彼女が用意したのはこのスープだけなのだが、そのスープすら火を通した料理ではない。彼女は料理が苦手だし、嫌いなのだ。息子が2年ぶりに来るというのに特に手をかけて料理しようとは思わないところも、突き詰めれば彼女の少女性かと思う今日この頃。彼女はいつまでもどこまでもお嬢様で、この素敵なテーブルセッティングも、食べる相手のことを考えている訳ではなく、うちのドイツ人の言葉を借りれば「ままごと遊び」。
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まあ息子の方も、母親に育てられていないので、懐かしい母の味というのがある訳でもなく、母親には何も期待していない。うちのドイツ人にとって母親とは、自分が幼い頃に育児放棄して男とイギリスへ行ってしまった人という訳で、かける言葉はキツイし、親孝行をしようなどという気持ちはかけらもない。母親の側も全く悪びれず、エゴイストで、息子に何かしてあげようという気は全くなく、あくまでお「貴族」さまである。

デザートは、近所からもらったというサクランボのコンポート。甘い練乳のようなものをかけていただいた。
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今回めぎ家がここにきたのは、先日も書いたように、もともとはうちのドイツ人の家系調査の一環だった。本当は母親がそのために近くの町の古い教会の洗礼の記録などを閲覧する手続きを取って置いてくれるはずだったのだが、白内障の手術をすることとなり、それはうやむやに。それで、病院の行き帰りや食事の支度などをした他は、うちのドイツ人はほとんどの時間、大量の昔の写真を一枚一枚見て自分に関係のあるものとないものとを整理し、これは誰、ここはどこ、と確認し、重要なものはうちでスキャンするために借りる、という作業に没頭してして過ごした。その間めぎは、義母が要らなくなった雑貨をくれると言うのでいくつかの箱から選んだりもしたが、かなり暇でうちの中をあれこれ写したり、外へ撮影散歩へ出かけたり。そう、「家族の義務」と言いつつ、意外と自由に好きなことをして過ごしていたのだ。

が、家族の義務でなければこんなところに滞在はしないよな・・・と思うような非常に不快なことが一つあった。その点に関しては、また明日。
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撮影: D600 + 20mm(F1.8)
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カビ臭に耐える3泊4日間 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、今年の夏旅の話を連載中。

ここは義母の家を裏から見たアングル。
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下には裏口があって、入ると地下室。
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地下室と言ってもまずはキッチンがあって、写していないが隣にバスルームもあり、独立した作りになっている。今は料理をするような状態にはないが、片付ければここに人が住むことも可能であろう。
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そしてそのキッチンの奥に部屋があり、そこに小さな簡易ベッドが2つ置かれて、めぎたちの滞在場所として用意されていた。
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こうして見るとずいぶん可愛らしく用意されているのだが、この部屋の滞在がものすごく辛かった・・・なにしろ地下室で普段は締め切られて放置されていたところなので、あちこち蜘蛛の巣だらけだし、ものすごくかび臭いのだ。その臭いたるや、開けっ放しにして換気しても消えるものではない。しかもさらに奥は本当に地下室で、ワインセラーやら物置やらボイラー室やらがあり、そちらの埃の臭いも・・・夜には開けている窓から蚊が入ってくるし。
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そんな訳で、この部屋で3泊するのは非常に辛かった。そういえば2年前は、とても人が泊まれる状況じゃないから、ということで近くのホテルに宿を取らされたのだが、それはこういうことだったのか・・・次回からはまたホテルに泊まろう、という思いを強くした。まあ、母親を訪ねていって、そこはとっても広いお屋敷なのにホテルに宿を取るというのも本当におかしな話なのだが。しかし、健康を損ねそうな、とてもとても耐えられない臭いだったのだ。

ちなみに、枕の上にそれぞれに置かれていた物は・・・
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縦の長さが7~8センチくらいの古本のミニ本。お値段はそれぞれ3ドイツマルク♪ うちのドイツ人にはドイツ語ザクセン方言で書かれたお話、めぎには標準ドイツ語の猫のお話。こういう可愛いことをするのが義母の特徴で、部屋の臭いはともかくベッドメーキングは完璧。こういうところも、相手のことを考えるというよりはままごと遊びの延長だというのがうちのドイツ人の分析。
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↑そうそう、この猫の本には色々な猫の挿絵や写真が入っていたのだが、その中に安藤広重の絵が。しかし、名前をよく見ると、Hirsohigeって・・・これをドイツ語読みするとヒアゾーイゲとなり、それってだれ?って感じよね。

ところで、この家に滞在するということでめぎがとても楽しみにしていたことがあったのだが・・・それは、このかまどでのバーベキュー。
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しかし、テラスはすっかり片付けられていて・・・というのは、義母は一人でテラスで過ごす元気はないようで、片付けてもらったらしい・・・今回これを並べ直してまた片付けてという作業をする気力も時間も(うちのドイツ人には)なく、バーベキューはお流れに。
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まあ、この点に関してはそれほどの問題ではないのだが、残念だったのは事実。

で、めぎはこの裏口の前で、義母がくれるといった雑貨を一つ一つ確認して欲しいものと要らないものを分類したのだが・・・それもまた地下室から埃まみれで出されたかび臭いものばかりで、壊れているものも多く、一つ一つの包みから虫でも出てきそうで結構辛い作業だった。

う~~~めぎも苔生してしまいそう・・・
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つづく。

撮影: D600 + 20mm(F1.8)
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