787に乗る [2014年夏 日本の旅]
今日からぼちぼちと日本旅行記を書き始めようと思う。と言っても、初っ端から帰りの飛行機の話になるのだが。
この夏日本へ行こうと決めたとき、よほど高くない限りJALかANAかルフトハンザを使うつもりで飛行機を探した。もっと安い便もあるだろうが、この3社ならエコノミーでもスーツケースを一人2つまで預けられるので、日本から物資を持ち帰るのに非常に有り難いのである。うちのドイツ人はスーツケース1つで事足りるから、めぎが3つ使えるようなもの。(実際はさらにうちのドイツ人のスーツケース3分の1をめぎの荷物が占めたのだが。)
今年の春からANAのデュッセルドルフから成田への直行便が就航していて、もちろんそれも検討した。3社ともフランクフルト=羽田という便があったが、めぎ家的には羽田に飛ぶ必要はなく、デュッセルドルフから直接飛べる方がはるかに便利。しかし、デュッセルドルフ=成田の直行便はめぎたちの予算を遙かに超えていた。フランクフルト=羽田なら予算的にもOKなのだが、デュッセルドルフからフランクフルトへ移動する時間を考えると、デュッセルドルフからヘルシンキまわりで飛ぶ方が時間的に早い・・・しかも、その方が体力的にも楽そう、ということで、ヘルシンキまわりのJALを予約した。一人当たり全部で900ユーロ弱であった。デュッセルドルフから成田への直行便より一人当たり4~500ユーロくらい安かった。そのお金をやはり日本で使いたいわよね。
予約した便はフィンランド航空とのコード・シェア便で、行きはフィンランド航空の飛行機だった。そのため行きはスーツケース一人1個まで。ありゃりゃ・・・そんなわけで日本へのお土産は限定せざるを得なかったが、帰りはJALの飛行機で、日本で安いスーツケースを2個購入し、4個満タンにしてきた。
前置きが長くなったが、これが帰りのJALの飛行機。
そう、あの787である。
残念ながら行きの飛行機(エアバス330だったと思う)は全く撮影しなかったので比較にならないが、787は新しい機体であるため清潔で綺麗だし、座席の足下に余裕があって、非常に快適だった。エアバスも別に悪くはなかったが、必要最小限という感じで787のサービス精神には及ばない。それはちょっとしたことなのだが、ヘッドレストの大きさや角度、足置き、ドリンクホルダーやシートポケットの外側についたそこその大きさの2つのポケット(ペットボトルがここに入る)、USBポートなど、めぎ的には至れり尽くせりだった。
成田を飛び立って、見下ろした日本。
田んぼの緑がなんて綺麗なのかしら。
ああ、美しいな・・・さようなら・・・涙が出た。
これからこんなに飛ぶのよねえ・・・ヘルシンキまで9時間の旅。ちなみにデュッセルドルフまたはフランクフルトまでの直行便なら約12時間。この差が結構大きい。それでもデュッセルドルフまで直行できるなら12時間乗ってもいいけど、フランクフルトまで12時間乗って、さらにバスに乗り換えて3時間ほどかけて帰宅することを思えば、ヘルシンキまわりは時間的にも体力的にも悪くない。(アルファベット表示なのはドイツ語を選択したから・・・日本語も英語もフランス語も中国語も、とにかく色々な言語を選べるようになっていた。それも、ちょっとしたことだけど、いい気分。)
うちのドイツ人は早くも数独を始めていた。
ふと見ると下に雲・・・
ああ、山を越えているのね。
そして新潟上空を通過。
日本、ほんとうにさようなら・・・
それから程なくして、機内食。フィンランド航空のも悪くなかったけど、JALの機内食は本当に日本人向けでとっても美味しい。ゴーヤの入ったサラダに掛けるドレッシングはさっぱりしていて美味しく、右端のゆで卵まるごとの上にスモークサーモン、真ん中の煮物、左のスイカやメロンのフルーツ、どれもデパ地下並みの美味しさ。紙コップの中は味噌汁。飲み物には梅酒をロックでいただいた。梅酒とお願いしたらどのようにお作りしましょうかと聞かれ、本当に至れり尽くせり。
メインは和食。豚丼のようなものだった。もう一つがカレーハンバーグとのことで、カレーの苦手なめぎ家は二人とも和食にした。
デザートにハーゲンダッツのマンゴーソルベが出てきた。
やっぱり航空会社は日系がいいわねえ。いや、めぎだって、かつてはドイツに向かうならルフトハンザを好んでいたのだが、旅の始めと終わりもドイツに浸ろうとか、ドイツ語を聞きたいとか話したいとか、そういう時期はとうに過ぎ去り、今や旅の始めも終わりも日本に浸りたい、という気持ちでいっぱいなのだ。小柄で親切なフライトアテンダントさんにうちのドイツ人もでれでれだったし。ヨーロッパのフライトアテンダントさんは普通サービス精神のかけらもないからねえ。
うちのドイツ人は飽きもせず数独を繰り返していた。難易度のハードなのをクリアして嬉しそうにめぎに報告して写真を撮らせたり。
それから3~4時間くらい寝たかも知れない。ふと外を見ると、ロシアの上空に面白い雲が。
この787のいいところは、機内が寒すぎないこと、乾燥しすぎないこと、そして窓ガラスの遮光が開閉式ではなく色を変えるシステムで(電子シェードというのかな)、つまり寝ている人を邪魔せずに外の景色を楽しめること。国際便では機内を暗くするために窓を閉めることを強要されることが多いが(これが日系じゃない航空会社の場合は強制されず、そのため明るすぎるということも多々あるのだが)、目が覚めている場合ちょっと外が見たくなるのが人情。遮光の窓を開けて光が差し込んで人の睡眠を邪魔することなく、こうして深い青色越しとは言え外の景色を見続けられるというのは非常に楽しかった。
到着2時間前くらいになってまた明かりがつき、くまもんの機内食が配られた。
この焼きおにぎりも・・・
熱々で配られたこのスープもとても美味しかった。
それから程なくして、長い長いロシア上空を通過し終えてとうとう海が見えた。
たくさんの島でできているスカンジナビア。
ヘルシンキも見えてきた。
ああ、ヨーロッパの畑だわねえ。田んぼと違って四角じゃないし、面積がずっとずっと大きい。
こうしてヘルシンキに到着し、1時間半ほどの乗り換えでまた搭乗。デュッセルドルフまでの飛行時間は2時間。
飛行機を撮るのを忘れたが、エアバスでもボーイングでもなく、知らない飛行機だった。
フィンランド航空の機内食。長距離線じゃないので比較にならないが、雰囲気がお分かりいただけると思う。意外にお洒落。パスタサラダで、味はさっぱりしていて悪くなかった。
そして、曇りのドイツ上空へ。
ドイツの畑。
ドイツの街並み。ただいま~
こうして日本の旅は終わったのであった。
撮影: Nikon 1 V1 + 10mm(F2.8)
日本旅行 ~序章その1~ [2014年夏 日本の旅]
今回の日本訪問は、めぎにとっては2年ぶり、うちのドイツ人にとっては4年ぶり。2年前はほんの4泊程度の滞在で、学会訪問で慌ただしく過ごした。4年前は4週間の滞在だったが、最初の2週間は交換留学の引率で、次の2週間はうちのドイツ人とドイツの友人夫婦の引率で富士登山をしたり青森や会津に旅行に行ったりし、添乗員のように仕事をしていた。日々の忙しさはその2回とあまり変わりないが、今回の旅は目的が全く違う。
今回の日本の旅でまず特筆したいことは、観光を全くしていないこと。めぎはともかくドイツから9000㎞も旅をして日本までやってきてどこも観光しないうちのドイツ人って、なんという日本通。まあ彼は初めて日本へ来た1984年から今までの間に南は鹿児島の桜島から北は北海道の網走まで旅をしていて、日本海側も福井・金沢・能登半島、さらに北上して男鹿半島なども回っており、見所は既にほとんど網羅しているのだ。3週間の滞在の中でめぎが観光らしきことをしたのは一人でナツパパさんに案内していただいた富士塚と、最終日にうちのドイツ人と二人でちらっと見た成田山くらい。
では何をしたか・・・日本に到着して最初の約10日間のうち3泊4日は、東京近郊の温泉旅館に引き籠もっていた。それぞれの温泉旅館の庭を散策しただけで、あとはその温泉を心ゆくまで楽しんだ。日本文化を体験するという意味でそれが観光といえば観光かも知れないが、何かを見るというよりそこにいる時間をゆっくり味わったという感じ。温泉旅館についてはまた日を改めて書こうと思う。
その他の6日間は、毎日ずっと友人知人に会っていた。それも日中と夜に毎日2つの会合を設定し、その合間を縫って買い物とチラシ集めと写真・ビデオ撮影も。それらは教材用で、チラシは例えば旅行パンフレットや路線図、買い物は筆ペンとか千代紙とか、撮影は電車のアナウンスとか乗り換え案内とか。さらにうちのドイツ人の欲しいものを手に入れるためにそれの売っている店を探すという任務まであって(これは友人の手助けを大いに借りた)、非常にハードな毎日であった。猛暑で多くのことを諦めてしまったが・・・そんな慌ただしい中でめぎのスケジュールに合わせて会ってくださった方々には感謝の言葉もない。
これはそんな友人の一人が案内してくれた小料理屋さん。日本の繊細な優しい味付けの料理が懐かしいだろうと、カウンター10席くらいしかない小さくて人気のお店を早くから予約してくれていた。ご病気を押して会ってくれて、小さめのスーツケースが満杯になるほどのお土産をくれたその友人には、御礼のしようもない。それにしてもなんと美しい盛りつけかしら。
めぎの主な友人知人は皆東京にいる。だから、東京には切り無く会いたい人がいるし、懐かしく訪ねたい場所も限りなくあるのだが、限られた時間でできることはほんの少し。多くの方に不義理をしてしまった。連絡もしなかった方が大勢いて、かつて非常に親しくしていた人やかつて非常にお世話になっていた方には失礼極まりない。しかし、今回はうちのドイツ人連れでめぎだけの旅ではなく、彼の会いたい人やおつきあいや行きたいところもある訳で、それを10日間にやりくりするのは至難の業。別行動で会った人もいれば、敢えて時間を合わせて一緒に行ったところも。
これは一緒に行ったところの一つ、うちのドイツ人の知り合いのお宅に招かれたとき。以前デュッセルドルフに駐在していたその日本人のご家族は、とっても温かく迎えてくれた。うちのドイツ人にはめぎと関係なく日本人の友人が何人もいるのだが、この家族がその一つ。子どもたちがすっかり大人になっていてびっくり。美しく成長したお嬢さんに今アルバイトしているというお料理屋さんにも是非是非来てくださいと言われたのだが、訪ねる時間がなかったのが本当に心残り。ご家族揃ってドイツが懐かしそうで、思い出話に花を咲かせながら奥様の手料理を美味しくいただいた。
うちのドイツ人は一人で息子にも会ってきた。これは彼らが一緒に回ったという九品仏というお寺と自由が丘のベニス(うちのドイツ人の撮影・・・D50 + 18-200mm)。年月を経て、息子と直接約束を交わして日本で会える日が来るとは、非常に感慨深い。人生は回っていっているのだ・・・誰の上にも。
ところで、東京滞在は非常にコストがかかる。食費も交通費も高いし、10日間ずっとホテルに泊まるというのはなかなかに大変だ。快適なホテルだとすぐに予算オーバーだし、安ホテルに泊まると部屋が狭くて息ができない。しかしながら、誰かのうちに泊めてもらうとそのうちの人に気を遣うこととなり、多少はそのお宅のリズムに合わせなければならなくもなり、長旅の体調維持にはかなりしんどい。そういう意味で、今回東京で泊めてくださった友人には深く感謝する・・・彼女は一人暮らしの広いマンションをめぎたちに開放してくださり、ご自分はその間友人や親御さんのうちに泊まってくださったのだ。なんというご親切。既に書いたが、御礼にうちのドイツ人がドイツから持ち込んだ羊のチーズを使って夕食を作ったのだが、後ろにめぎたちとその友人の洗濯物がかかった中で食事。そんな気を遣わない関係でいられたのも、非常に有り難かった。
東京最後の夜は横浜でめぎのかつての教授と会った。何が食べたい?と聞かれ、焼き肉をリクエスト。なにしろそれまでたくさんお魚を御馳走になったので、そろそろ肉を食べたいという気分だったのだ。韓国系のお店でまっこりとホルモンなどをがっつりといただいた。
それから横浜のどこかのビルの屋上にある飲み屋さんへ。教授の知り合いが建築をデザインした、雨天の場合はお休みになるという面白いお店。ご主人は高校の先生との兼業だとか。かつての教え子さんたちが数多く飲みに来てて、アットホームでとても印象に残った。
この教授はめぎがお世話になった何人かの先生方の中で最も若い人で、今や失礼ながらすっかり友達のようになったのだが、もうすぐ定年を迎えるそうでこれまた感慨深い。お元気そうでなにより。時間ができたらドイツにゆっくり遊びに来て欲しいなあ。そうしたらいっぱい一緒に行きたいところがあるのになあ・・・そうそう、めぎがC.D.フリードリヒを好きになったのもこの教授の影響なのだが、5月にリューゲン島に行ったとき、この教授へのお土産にリューゲン島の石を拾ってきていた。そのお土産を渡したときの喜びようといったら!ただの石なんだけど、我々にとってはとってもとっても特別な石なのだ。なんだか、そういうことを分かち合える人がいて、めぎは本当に幸せだと思う。
さらにもう一軒梯子して、めぎの弟弟子でかつて彼のドイツ留学中にめぎ家で1~2年ほどお預かりした教授の愛弟子を呼び出し、まったりと。今や彼はめぎの母校の非常勤講師で、将来は教授になるのだろう。再会は嬉しかったけど、土曜日の夜に教授の電話一本ですぐに電車に飛び乗って馳せ参じる彼を見て、日本で仕事をしていくのって大変だなあ・・・と思ったり。
あとで個別に記事にしようと思っている話を除き(それがまた膨大なのだが・・・いったいいくつの記事になることやら)、これで東京滞在が終わった。
で、ここから今回の日本旅行の主目的の後半10日間に入る訳だが、長くなったので続きはまた明日。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
日本旅行 ~序章その2~ [2014年夏 日本の旅]
現在、この夏の日本旅行記連載中。
序章だけでも記事2つになってしまうほど長い日本の旅。旅の後半10日間のテーマは「家族」。そう、今回の日本訪問の目的は家族の訪問。それを主目的に日本へ行くのは、めぎがドイツに滞在して以来初めてのこと。思えば、前半10日間の東京滞在期間だって、うちのドイツ人にとっては家族訪問であったのだが。とにもかくにも後半10日間は、めぎにとっては長年の不義理を経て意を決して行う本当に密度の濃い家族旅行。うちのドイツ人が非常にうまくサポートしてくれて、大感謝。
まずは仙台の妹夫婦の家へ。
白いBMWに乗って義弟の地元仙台に生きる妹。めぎの知らない日常がそこにあった。
日本では特に珍しくもない風景なのだと思うが、妹が住んでいるところを自分の目で見て、自分の日常との違いを実感し、それによって、妹がもはやかつてめぎのあとをついてくるだけだった妹ではなく本当に大人になって自立したのだと悟るよい機会になった。
5歳も年上で、両親が本当は一人っ子になるはずだっためぎのどうしてもという嘆願に屈して妹を生んでくれたということもあって、めぎは幼い頃から理想の姉になるよう厳しく教育されたし、めぎにとって妹は半分自分の子どものようなもので、いくつになっても自分のあとをタオルを抱えてついてくる赤ちゃんのようなイメージが抜けない。だから、親が子どもにしてしまうのと同じような過ちもしでかす・・・ああそうしちゃいけないのよ~こうした方がいいのよ~と余計なお世話の助言ばかり繰り返して最近は空回りするようになり、ちゃんと子離れならぬ妹離れをして、妹を対等の大人として認めて新しい関係を構築しなければ。それが旅の目的の一つだった。
今回の日本滞在で最初の妹との接触は、実は仙台訪問に先だって東京の浅草で。彼女の属するオペラ研究会の発表会があって、それを見に行った。舞台上の妹はとっても楽しそうで、素敵なドレスを纏ってとっても美しかった。
普通だったら、花束でも持って楽屋へかけつけ、素敵だったよ~と記念撮影したりするのだろう。しかし、公演前後の妹とバタバタ話しても良いことがないのは以前経験済み。この日も妹はいっぱいいっぱいで忙しく、公演後めぎ家もすぐに別の会合に向かわなければならなくて時間的にも慌ただしく、直接の接触は敢えてとらず観客席から鑑賞しただけ。しかし、こうして外から妹が打ち込んでいるものを見るというのは、めぎの子離れならぬ妹離れ(=新しい関係の構築)に非常に役立った。
それから仙台へ行き、挨拶もそこそこにまず連れて行かれたのは義弟の姉の家。そこに義弟の両親と兄弟の家族が一同に集い、ピアノ教師のお姉さんの伴奏で妹がドイツ歌曲(モーツァルトの魔笛のパミーナのアリア)とイタリア歌曲(ドニゼッティのアンナ・ボレーナだったと思う)を歌ってくれたのだった。
まさかそんなミニコンサートがあるとは思っていなかったし、妹の専門のイタリア歌曲はともかくドイツ語でドイツ歌曲に挑戦してくれるとも思っていなかったし、その歌声はとても可愛く、そのアリアはとっても悲しく美しいので、めぎは聞きながら泣いてしまった。ああ、めぎの妹・・・ありがとう。
それから歩いて数分の義弟の実家へ。そこでは義弟のお母様が素晴らしい料理を用意してくださっていた。めぎたちのみならずお姉さんのご主人も襖を開けて、おおお~!と声を上げたほど。この写真は準備中に撮ったもので、最後にはこの倍の料理が並んだ。
いつもは使っていない日本間をうちのドイツ人のために片付けて準備してくださったそうで、感激。めぎにも、かつて幼い頃に父の実家で新年などに親戚中が集まったときの記憶が蘇った。家族の集いって、いいわねえ。嫁の妹には大変なこともあるのだろうけれどね。かつて母がその集まりを苦にしていたことも思い出したり。
仙台の料理の数々。美味しかった~!
義弟のお母様のご実家は仕出し屋さんだったそうで、料理はプロフェッショナル。
この他にも、ご実家が漁業に携わっていたお父様お手製の海鞘の酢の物やら、お寿司やら。海鞘をうちのドイツ人が難なく食べたので義弟の家族は大喜び。この他、全く写さなかったけど美味しいお酒や焼酎を次から次へと約5時間かけてたくさんたくさんいただいた。最後にはお母様がお抹茶を点ててくださり、仙台ならではのずんだ餅も。素晴らしいおもてなしを準備してくれた義弟とご家族に心から感謝。
夜には妹の甥っ子たちと花火。甥っ子は全部で5名。賑やかだったなあ。花火をしたのは下の3人で、上の2人はもう花火を卒業したらしくタブレットでゲームをしていた。9年前の妹の結婚式の時にはその上の2人がまだ2~3歳くらいだったのに、月日の経つのは早いものだ。
うちのドイツ人が、これ、全員が自分の親戚だと思うとすごいことだねえ・・・とポツリ。そうなのだ、この大家族がめぎの親戚になったのは、妹の果たした偉業なのだ。
こうして妹を取り巻く環境を間近に見ることができた。先日妹からメールが来て、このお盆はまた義弟の実家にみんなで集まって鰻を食べたり(これはまたお父様が鰻をさばくところからなさるはずで、きっとすっごく美味しいんだろうなあ)、お墓参りしたりすると書かれていたが、めぎには今やその様子が手にとるように分かる・・・甥っ子たちの元気な声まで聞こえてくるようだ。こんな立派なおうちに嫁いだんだね。逞しく嫁業を務めている妹はとても素敵だった。
その次の日には妹の家でゆっくりまったり過ごしたのだが、妹はこうして土鍋でご飯を炊いておひつに移したり、魚焼きやらお鍋やらたくさん使って朝食を用意してくれた。
朝食にお味噌汁を作る生活・・・日本ではたぶん至って普通の、でもめぎの日常とはかけ離れた別世界の朝食。めぎにとってお味噌汁とは、ごくごくたまにドイツで夕食に豚汁を作る他は、日本で温泉旅館に泊まったときに朝食に出るもの、という位置づけなのだ。うちのドイツ人は朝食を食べないし、ましてドイツでは朝から日本食は食べないし、めぎもいつも朝は慌ただしくて自分一人のために手間暇掛けてお味噌汁を作るなんてことは絶対にしない。でも、妹は、毎朝6時に起きて夫のためにお味噌汁を作っているのだ。それが彼女の日常なのだな・・・
お味噌汁は出汁が利いていてとても美味しかった。具も日々工夫していて、味噌の加減もよく安定していて、既に彼女の味が完成されているのが分かった。
そうそう、仙台に行ったとはいえ、仙台の観光は全くしていない。それは、9年前に妹の結婚式で仙台を訪ねた折にくまなく回っているからでもあるのだが。仙台の妹の家には2泊しただけだが、1日目は密度の濃いお祭りのような家族の集いを経験し、2日目はゆったりのんびり妹と時間を過ごし、非常に有意義な時間となった。お招きありがとう。
それから3日間の間を置いてめぎとうちのドイツ人だけで津波のあとを視察してまわり(その話はまた後でゆっくり書きたいと思う)、今回の旅の主目的、札幌へ。めぎのルーツを辿る旅。
旅の計画当初、札幌に最初に行って目的を果たしてからゆっくり遊んで回ろうかという案もあったのだが、時差や疲れを抱えたまま行くのは危険だといううちのドイツ人の助言で、旅の最後に設定。主目的を最後に残したまま時間を過ごすのはなんとなくスッキリしない気もしたが、結果的には非常によかった。事前に妹とゆっくり過ごせたし、日本的リズムに慣れることができたし。
故郷の実家を訪ねることを人は帰省と呼ぶが、めぎの実家は引っ越していてめぎが住んだ家ではなく、めぎが住んだ地域でもなく、全く知らない家である。住所も覚えられないし、住所を聞いても札幌のどの辺かぴんと来ない。ベランダから見える景色も、めぎの知らない風景。
美味しい食事をたくさん用意して歓迎してくれたが、食器もめぎが知らないものばかり。
8年間も札幌を訪ねなかったのにはもちろんそれなりの訳があるのだが(その前も、めぎは札幌へほとんど行ったことがない・・・家を出てから今まで訪ねた回数は片手の指で足りるかも知れないほどで、しかも今回の4泊5日間の滞在はめぎが家を出てから最長の滞在であった)、時間というのは色々なことを解決してくれるもので、めぎも素直に楽しめたし、両親も素直に喜んでくれていたように思う。これまで、会わなければ親不孝だと考えて無理して会ってもその度に嫌な思いをするだけだったが、しばらくの断絶を経て、ようやく自ら会いたいな、行きたいな、と思って計画した今回の訪問は、めぎの心持ちがずいぶん異なったのかも知れない。
妹がめぎが札幌入りする前日から実家に戻って準備を手伝い、めぎが札幌を発った日の翌日まで残って両親を手伝ってくれたことには感謝のしようもない。また、仕事多忙の中週末に札幌を訪ねてこれまた黙って色々サポートしてくれた義弟にも。
しかしそれは同時に、上げ膳据え膳の歓待を受けてはっきりいえば実家で右も左も分からないめぎに対し、妹たちにとってはほとんど勝手知ったる家であるということであり、同じ子どもとして寂しさも感じたのは事実である。まあ、妹は結婚するまでそこに住んでいた訳だし、義弟も札幌駐在の折に妹と知り合ってその当時から何度も来ている家であるのに対し、めぎはここに住んだこともなく、さらに今は9000㎞も離れた異国にいて8年間も訪ねなかったのだから当然なのだが。そして、妹夫婦の手助け無しではこうも和やかにはいかなかっただろうなとも正直思うし。
この8年に両親は歳をとり、8年前にできたことができなくなったりもしていた。しかし歳をとるというのは体力が衰える分だけ賢くなることでもあり、体が回らない分を補って親同士助け合う知恵もついていた。そういう親を見ることができたのも大きな収穫だった・・・なにしろめぎには多感な時期に親が仲違いしていた不愉快な記憶が心に重く残っているのだから。
ところで、めぎがブログをしていることをめぎの両親は知っているが、父は決して読まないのだとか。それは、父によると、日記のようなものはかつては一人で思いをしたためるものであって決して人に見せるために書いたものではない、だから、人の日記を読みたいとも思わないし、人に公開するというのも理解できない、とのこと。なんと大人なのかしら。なんとしっかり子離れできているのかしら。めぎの父は本当に賢いと思う。かねてよりうちのドイツ人が、めぎの賢さは父親譲りだとめぎに言い続けてきたが(めぎが本当に賢いのかはなんとも言えないが、うちのドイツ人によれば賢いということなのだが)、いやいやどうして、めぎは父にはかなわないな。
こうして主目的の札幌滞在を終え、千歳からまっすぐ成田へ。両親の住むマンションの前で母と別れ、札幌駅まで車で送ってくれた父とは駅前の車の中で別れた。二人ともとても淋しそうで、めぎは本当に親不孝だなあと感じた。申し訳ないことだ。まあお互い様の部分ももちろんあるのだけど。それから妹がさくっと切符を買ってホームに行けるように改札まで付き添ってくれたのだが(言い換えると、そうしてもらわないとスーツケースをいくつも抱えてストレスの多い慌ただしい出発時に心許ないほどめぎは新しい札幌駅が全く不慣れで、外国の駅にいるようなものだったのだが)、妹と別れる瞬間にどどーっと涙が・・・これは本当に、不思議なほどに。妹よ、本当にありがとう。生まれてくれて、ありがとう。妹を生んでくれた両親に感謝したい。
そして最後にちょこっとおまけのように、でも旅を無事に終えたご褒美のように、素敵な方々と素敵な時間を過ごして日本の旅が終わった。
以上が今回の旅の概要だが、さて、なんの話から書こうかしらねえ。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)、Nikon 1 V1 + 10mm(F2.8)
スズキさん♡ [2014年夏 日本の旅]
今日はこの夏の日本の思い出から。
これはKrauseさんの畑の野菜。
日本の旅の最後に、Krauseさんのお宅にお邪魔した。そこにはmichaelさんが連れてきたスズキさんが待機していた・・・その大きさが分かるように、michaelさんの手と一緒に撮影。
なんて大きな立派なスズキさん♪
お目々もクリッと澄んでいて可愛くて♪
michaelさんの素晴らしい包丁さばきであっという間にスズキさんは解体されていった。
脂いっぱ~い!
このスズキさんは行き締め&神経抜きしてあって、したがって身が硬直しておらず、こうやって薄切りして氷水にくぐらせ、きゅきゅっと〆て食べる。これを「洗い」という・・・いくら日本でも普通の食卓ではきっとなかなかお目にかかれない料理。michaelさんの奥様が手際よく洗いを盛りつけていく。その向こうで枝豆を茹でているのはKrauseさんの奥様。みなさま、ありがとうございまーす!
氷の上に巻き簀を敷き、その上にまた氷で山を作り、その上に敷いた紫蘇の上に洗いを盛りつけてある。緑色の小さな紅葉がなんとも素敵。
このスズキさんの解体から盛りつけまでをめぎはビデオ撮影し、先日ハンブルクから来た友人夫婦に見せた・・・というのも、その友人夫婦と共に4年前にKrauseさんのお宅にお邪魔したときも、michaelさんが同様にスズキの洗いを作ってくださったから。ここでお見せできないのが残念なほど、本当に素晴らしい包丁さばき。ビデオの中のみなさんの声を懐かしく聞きながらそのときの思い出が蘇り、めぎ家でも大いに盛り上がった。ハンブルクの友人夫婦より、Krauseさんもmichaelさんも、ハンブルクへおいでの際はぜひぜひどうぞ寄ってくださいね、とのこと。本当に、ぜひ。そして、もちろんぜひデュッセルドルフへも♪
テーブルは御馳走でいっぱい・・・これ、F値を上げてぼかさずにとるべきだったわねえ。
Krauseさんの野菜は揚げ浸しに♪
この他にも、鮪の大きなカマがあって・・・
美味しい塩焼きに♪ 大きさが伝わりにくいが、6人で食べても一人一人小皿に山盛りいっぱいいただけるほどの大きさ。
洗いは6人でこれを4皿あっという間に。
ああ~なんて幸せだったのかしら~~~
うちのドイツ人はmichaelさんの素晴らしい包丁に目が釘付け。うちにも和包丁が2つあるけど、ここまで素晴らしいのはねえ・・・
それからしばらくして、スズキさんの一部はこんな風にお召し替えして・・・
ポワレに!
皮がパリッとしてて美味しかった~~♪
そしてアラは・・・
きゃあきゃあ♡
あまりにも舞い上がっためぎはKrauseさんの田んぼで穫れたご飯を写し忘れ。満腹~♡
そして最後にスイカを凍らせて作ったデザートを(名前忘れちゃった・・・)。
暑い暑い日本の夏の日、氷で冷やした洗いや凍らせてしゃりしゃりするデザートがとっても心地よかった・・・今すっかり肌寒いドイツでこれを思い出すとブルブルっとしちゃうけど、あのときは本当に暑くて、ああこれがこの蒸し暑い日本ならではの食事なんだよなあと骨の髄まで噛みしめたのだった・・・旅の終わりの寂しさを感じながら。Krauseさんご夫妻とmichaelさんご夫妻の素晴らしいおもてなしに心から感謝。
つづく
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
夕方の光 [2014年夏 日本の旅]
現在、この夏の日本旅行記を連載中。
ここは旅の最後にお邪魔したKrauseさんのおうち。
Krauseさんと言えば、薪。
Krauseさんと言えば、畑。
日本の田園風景の優しい緑色。
この明るい緑色が日本独特のものだとは、日本にいるとなかなか気がつかない。ドイツの緑色はもっともっと濃く、黒い森という名前からも分かるように、木々の緑は黒っぽいのだ。
Krauseさんと言えば、カブトムシ。大きさが分かるようにうちのドイツ人の手と共に撮影。
夕方になって暑さが峠を越えた頃、近くを少し散歩した。日本らしい建物が遠くに見える素敵なところ。
Krauseさんと言えば、お酒♪ これは酒屋さんの屋根。
ここに住む人たちにとってはこれが日常のはずだ。畑や林や山も、特別なものではないだろう。東京などの都市部に住む人たちにとっては、無機質なマンションやアパート、勤務する会社のビルが日常だし、都市の郊外に家を建てた人にとっては、その住宅街と遠い通勤が日常である。どちらの方々も、たまには日常から離れてどこかへ行きたいと思うだろう・・・それが割と近場の温泉だったり、日本国内の別の県だったり、街歩きだったり山登りだったりダイビングだったり、はたまた海外旅行だったり、人それぞれではあろうが。それと全く同じく、ドイツの人たちにとっては、そしてドイツに生活の基盤があってたぶん一生死ぬまでドイツに住み続けるであろうめぎにとっては、ドイツの街並みや森や遠浅の海が日常であって、こういう日本の田園風景や東京の隙間ない圧倒的なビル群の景色の方が非日常。ドイツの人たちにとってヨーロッパの他の国々は日本的に言えば他の県に遊びに行くような気軽な感覚だが、日本は他のアジアと同様全く異質なものとして映る。本当に本当にものすごく遠くへやってきたなあと感じるのだ。めぎもそんな風に感じるようになるとは14年前には思ってもいなかったけど。
近くの神社にお参りした。
Krauseさんと言えば、注連縄作り。
地元の人が注連縄を作って奉納する神社・・・ああ、なんて素敵なのかしら。ここに一年くらいホームステイして、一緒に注連縄作りをしたいなあ・・・などと思うのは、めぎがここを非日常だと感じていることの表れなのよね。
割と最近地元の人たちの寄付で建て直されたという神社。細かいところまで非常に美しい。
木の大好きなうちのドイツ人が、食い入るように見ていた。
ここにはなかなか趣のある狛犬さんも。
もう片方の狛犬さん。
蛇が出ない聖域だという神社の境内・・・しかしなんというか、ただ聖なる空間というのではなく、おどろおどろしさも兼ね備えた、畏怖を感じるところ。ああ、この畏怖の雰囲気こそが本当の聖なるものなんじゃないのかな・・・そんなことをこの神社で感じ、うちのドイツ人はそのことについて先日義母の誕生日パーティーの席で会った牧師と議論していた。彼らによるとキリスト教のプロテスタントでは神はとてつもなく清らかなイメージなのだが、日本の神社では神というのは魔的なものと紙一重というか、一体に感じると。何か悪魔を象徴するものがそこに立っているのか、と牧師に聞かれ、めぎは一言、いや、雰囲気。牧師は絶句し、しばらく深く考え込んでいた・・・
でもね、思えば夕方の光だって、ほら、夜と隣り合わせ。夜は朝と隣り合わせ。一日は朝も昼も夜も全部つながっている。
案内してくださったKrauseさんに心から感謝。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
朝の光 [2014年夏 日本の旅]
現在、夏の日本旅行記を連載中。
ここはドイツに帰る直前、早朝に訪ねたところ。
きっと最初の写真を見ただけでどこだかお分かりになる方も多いのだろうな・・・なにしろ日本で2番目に初詣客の多いところだから。
最後の夜を成田で過ごしためぎたち。成田山の目の前に宿を取り、部屋からもお寺が見えるのだけど、早起きして最後のスーツケース整理をし、6時頃参拝に出かけた。
最初の階段でうちのドイツ人がひたすら感心・・・このお寺、すごいお金持ちだねえって。階段の石がほら、どこにも切れ目がなくて、一枚石(と言うのかな?)。こんなに大きな石を細長く切ったのね。
途中にこんな空間があり・・・
また上へ。その階段の左右に岩というか石の山というか、岩の上に石や像や灯籠などが積み上がっている。
岩かと思ってよく見ると、像だったり。
一つ一つゆっくり見たくなるのだが、あまり時間がないのでさくさくと。
その階段を上ろうとして、気がついた・・・あら、ここは一枚じゃないわねえ。大きな石が見つからなかったのかしら?それともこの辺りを作るとき財政難になったのかな??
以前だったらめぎには全く気がつかなかったことなのだが、うちのドイツ人と一緒だと彼の視点でものを見るようになる。うちのキッチンの床の張り替えをした頃から、めぎも石やタイルの張り方に目が行くようになった。
2つめの階段を上りきると、ここに初詣に来る方にはきっとお馴染みの景色。
朝の光が美しかった。
でも、閑散としてるでしょ・・・真夏の早朝はこんなに誰もいないのね。本堂の右の奥の方には公園があるようだったが、時間がないのでそちらはカット。それに、6時と言えども既にジリジリと暑くなってきていて、こんな広いところを散歩したら熱中症になってしまいそう。
左の方へ行ってみた。
ここも岩がごつごつとしていて、その上にいろんな像が。
成田山って、本当に山だったのね。それも、岩山だったのね。知らなかったなあ・・・
左奥の上の方へ行ってみた。
そこにはまた広い空間が。
木の建物が素晴らしい。こういうのを全部撮影したいけど、時間がなくてさくさくと。
百日紅が咲いていた。今回の旅では梅雨の末期に来て、ギリギリ紫陽花を見て、百日紅まで見ることができて嬉しかった。
これ以上上に行く時間がなく、したがって平和大塔とやらは見ていない。遠くからこうやって写しただけ。
駆け足だったけど、いつもお正月のニュースで見ていた成田山を歩くことができてよかった・・・今回の旅では小さな無名の神社やお寺から北海道神宮やこの成田山のような大きな有名なところまでいくつか見たけど、大きなところは非常に清潔で整然としていて、昨日の小さな神社で感じたようなおどろおどろしさは全く感じなかった。そういう意味ではキリスト教の教会や大聖堂と似ていて、もちろん神仏とは別の怖そうな像もいっぱいあるのだけど、特に薄気味悪さは感じない。安心して歩ける感じ。それなのに、ちょっと遠い存在のような気もするのが不思議だった。
階段を下って出口へ戻ってきた・・・
こんな狛犬さんもあるのね。
ところで、入り口の左上に、成田山とは別の階段がある。
そこからこんな風に成田山が一望できるのだが・・・
階段を上がりきると、こんなところに出る。
↑この左側に小さな神社の入り口が。
その奥には・・・
狐様たち!!
お社のまわりにもぐるりと狐様方が取り囲んでいた。
ここ、ちょっと不思議な雰囲気でお勧め、とKrauseさんの奥様に言われたのだが、いやあ、ここ、よかったです~成田山より印象深いほど。もっとここに時間をとればよかった・・・狐様たち、ものすごく薄気味悪くて、怖かった~~~そんなこと言うと罰当たりかも知れないけど、稲荷神社って怖いですよね。
ここに行ったのももう約一か月も前のこと。あっという間に日々経っていきますわねえ。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
東京でデュッセルドルフの知り合いに会う [2014年夏 日本の旅]
今日からしばらく東京の思い出話をどうぞ。
東京滞在中の7月下旬のある日、うちのドイツ人の知り合いと浅草橋で待ち合わせ。
その知り合いは、以前デュッセルドルフにいた日本人。二人とも、日本で会うのはなんだか変な気分だね~と言いながら再会を喜び合っていた。
準備中の屋形船を眺めながら橋を渡る。
中はスタンバイOKのようね。
ちょっと川沿いにも歩きながら撮影。
今度は向こうの橋、柳橋から。
そこからしばらく歩いていくと、この日その知り合いがめぎたちを招待してくれた店がある。無機質な住宅街というか、日本中にあるタイプのマンションが並ぶ顔のない雰囲気だが、花街だったその昔はどんな雰囲気だったのかしら・・・と想像しながら。花街だったところだと知らなかったら、こんなところにそんなに連れて行きたいお店があるの?と思うほど、ここにはもはや雰囲気はない。
案内されたのは、知り合いの大好きな鮨屋さん。まずはビールに焼き物から。
日本一美味しいという潮汁。薬味のネギ以外に何も具の入っていないこのすまし汁がたしかに絶品だった。
それから順次握りを。
握ってくださった親方の手。先代親方がご病気だそうで、二人でやっていたのが一人になっちゃったので大変、とのこと。
ビールからお酒へ。
話も弾み、鮨が握られるテンポも速く、この先写真を撮っていない。美味しいお寿司をおなかいっぱい食べて大満足。うちのドイツ人も日本に行けばこうして方々で本物を御馳走になってすっかり舌が肥えてしまい、もはやデュッセルドルフでは寿司屋へ行きたがらなくなった。デュッセルドルフにも日本の下手なところより美味しい寿司屋があるのだけど、こんなのを御馳走になってはねえ・・・
ごちそうさまでした~~~♪
外に出ると、暖簾には文化三年?五年?創業との文字。
こちらには慶応二年の文字。
調べてみたら、文化年間(1804~1817)に屋台で創業、慶応二年に二代目がここに店を構えたらしい。今の親方は六代目。どうやら江戸前寿司の元祖の一つのよう。Wikipediaで江戸前寿司を調べると文化年間の後の文政に江戸前寿司を考案したとされる人の名前が出てくるが、きっとその頃似たような握りの屋台がいっぱいあったのだろうな。
軒下にはたくさんの紫蘇(大葉)が。きっと自前なのね。
それから別の店へ移動するために地下鉄の駅へ。駅のすぐ近くには同じ鮨屋さんの立ち食い処がある。ネットで調べると、他にも支店がかなりあるようだ。
そして地下鉄で浅草へ。
外国人に人気の浅草だけど、うちのドイツ人はもう今までに何度も浅草を見たことがあるので観光はせず、しばらく歩いてこんなお店へやってきた。
外は梅雨明けのものすごい暑さで、ここまで歩くうちに汗びっしょり。でも、このお店の中はクーラーがんがんで別世界。ここでまずライムのカクテルをいただいた・・・名前忘れちゃった・・・
めぎはそれからカシスリキュールを♡
知り合いやうちのドイツ人が何を飲んだのか、もはや全く覚えていない。写真も撮ってないし。こういう飲み物は欧米から日本へ来た訳だけど、このバーの雰囲気は大陸ヨーロッパにはない感じ・・・きちんと掃除されてて綺麗だからかな。大陸ヨーロッパのバーは下に色々落ちてて汚いものね。いや、ジャズの所為かな。そういえばドイツやフランスやスペインやイタリアでバーに入ってジャズが流れていることってあまりないような。ジャズって元はアメリカの音楽だものね。ヨーロッパのお酒を飲みながら、ものすごく遠くへ来ていることを実感する不思議な感覚が湧き上がる。
このバーのご主人はジャズのお好きな方で、お店ではもちろんジャズが流れ、写真を撮らなかったけどジャズの昔のレコードや写真がたくさん飾られていた。と言うか、今回日本で何人かの方々にバーに案内されたけど、どこも必ずジャズがかかってて、日本では今ジャズが流行っているの?とうちのドイツ人に聞かれたほど・・・うーん、めぎにはよく分からないのだが、日本でバーと言えばジャズが流れるものなのかしら?しかしここのご主人は流行とかそういうものだという常識でジャズを流しているのではなく、筋金入り。なんとここのご主人は、デュッセルドルフの近くのMoers(モェアス)という小さな町で毎年聖霊降臨祭(6月頃)の時に4日間開かれているジャズフェスティバルに来たことがあるのだとか。こんな東京のいかにも日本のバーというところでMoersという町の名前を聞くとは、ものすごくびっくり~~~失礼ながらただ可愛い田舎町だと思っていたのだが、そんな有名なジャズフェスティバルのあるところだったのね。
うちのドイツ人と知り合いの話す英語と、バーで流れていたジャズと、Moersという町と、自分たちが食べたり飲んだりしているものと、そしてこの東京浅草の風景がどれもこれも一つ一つあまりにも別世界で、自分がどこにいるのかふと訳が分からなくなる感じ。
それにしても美味しいお寿司だったなあ・・・連れて行ってくれた知り合いに心から感謝。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
ナツパパさんと [2014年夏 日本の旅]
今日はまた東京の思い出を。
ここは東京の千駄ヶ谷、鳩森神社。
一つ目の鳥居をくぐってしばらく行くと、もう一つ鳥居が現れる。
そこをくぐると橋。
池は菖蒲がいっぱいで、シーズンによってはなかなか素晴らしい眺めなのだろうな。そこを渡ってしばらく行くと・・・
そこには里宮。
ちょっとお参りしてからちょっと登ると、そこにはお中道。まず烏帽子岩が見え・・・
その奥に洞窟らしきところにいる食行身禄(じきぎょうみろく)像。
その辺りから上を見上げる。
そう、ここは富士山のミニチュア、富士塚。今年関東地方で梅雨明け宣言があった日、めぎはここへナツパパさんに案内していただいたのだった。初めてお目にかかったナツパパさんはとってもお優しく、非常に気配りの行き届く方。重要な見所をきちんと押さえて説明してくださりつつ間にホッとするような世間話もしてくださり、かつ写真を撮ったりめぎが眺めを堪能する時間も上手に配分してくださり、さらにドイツのことやらヨーロッパのことやら結構突っ込んだ質問もされたり、ブログを読んで想像していた通りのお人柄ですぐにうち解けることができ、初めてお会いしたとは思えないくらいおしゃべりも弾んだ。この富士塚でナツパパさんは数々のキーワードを口になさっていたが、その多くは冨士講や富士塚信仰と関係のある言葉でめぎには新しく興味深いし、いくつかは4年前富士登山をしたときの記憶と一致し、またはその昔富士五湖まわりや富士山麓一周の旅をしたときの記憶とも一致し、楽しい楽しい♪ 恐らく最初の菖蒲の池は富士五湖の見立てではないかと。そうかあ♪
こちらにも下へ降りる道が。御殿場口か須走口か・・・などと想像するのも楽しい。
さらにお中道をぐるりと回って裏の方へ。そこには小御嶽石尊大権現。
ここが砂走りなのか大沢崩れなのかもう記憶が曖昧だが、このお中道はなかなか険しく、でもきちんと整備されていて、本当に富士山の中を歩いているかのような疑似体験ができる。
裏側から見上げると・・・富士山の溶岩が聳えている。なかなか高いわねえ。
そしてぐるりと回って里宮へ戻ってきた。その付近に亀岩。
それから頂上までがまたなかなか険しい。
登頂!
奥宮に・・・
釈迦の割れ石と金明水。
そして、なかなかの眺め。下には富士五湖♪
手前右に里宮が見える。ね、結構高いでしょ。
帰りは裏側から降りた。たくさん石碑があって、どれがどなたなのかは確認しなかったが、寄進した人や富士塚を信仰した人の強い気持ちが感じられた。
江戸時代のアミューズメントパーク、エンターテイメントの一つだったのではというのがナツパパさんの説明。ワクワクする楽しさ。めぎがかつて東京に住んでいた時に富士塚に気がつかなかったことが悔やまれる・・・でも、遠く離れたドイツにいながらナツパパさんのブログに巡り会って富士塚のことを知り、いつか行ってみたいなあと思いながら何年もの間ブログで記事を拝読し、ようやくこうして案内していただける機会を得たというのもとっても素敵なことだわね。
ナツパパさんはお土産にこの本をくださったのだが、これが非常に分かりやすく魅力的に書かれていて、この本に載っている富士塚を全部巡りたくなる。
ご近所富士山の「謎」 富士塚御利益散策ガイド (講談社+α新書)
- 作者: 有坂 蓉子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/12/19
- メディア: 新書
ところで、この鳩森神社でもう一つナツパパさんにご紹介いただいたものは・・・
そう、ナツパパさんと言えば、富士塚ならびに狛犬さん。こちらは上の鳥居のところにいた狛犬さんたち。1735年生まれなのだとか。
可愛い足ね。
眩しいよって言ってるみたい。
境内には他にも狛犬さんたちが。
なかなか眼球の鋭いこの方々はずいぶん新しく、昭和29年のお生まれ。
阿吽が反対のよう。
この神社にはその他に1814年の狛犬さんの片方や、顔が割れちゃった狛犬さんもいるみたい。
最後にブロンズの狛犬さんたちも撮影。
彼らは昭和7年生まれ。あら、ということは、ずいぶん新しく見えたけど、あの眼球の鋭い方々よりお年なのね。
めぎは神社が好きで、東京に住んでいた頃はよく鎌倉などへ行って神社巡りをしたものだったが、狛犬には特に興味がなかった。それがナツパパさんのブログを読むようになってから、すぐに目が行くようになった。それにしてもこんなにも色々な表情があるとはね~
こうして鳩森神社の見学は終わったのだが、ナツパパさんがこのあとどこやら別のところに連れて行ってくださるということで、地下鉄に乗って移動することに。地下鉄の中は涼しくて、生き返る心地♪
つづく。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
芭蕉とケルンと富士山と財閥とルフトハンザ [2014年夏 日本の旅]
現在、この夏の日本の思い出を記録中。
ナツパパさんに連れられて千駄ヶ谷から地下鉄に20分くらい乗ったかな・・・降りてちょっと歩くと足下にカエルさん♪
そこにはこんな橋が架かっていた。
その橋を渡った先に、こんな看板が。
そのケルンの眺めはこちら。あの橋のことらしい。
この眺め、たしかにケルンの大聖堂をバックにしたあの大きな鉄橋に似ているなあと感じてそこで大ウケしたのだが、モデルは鉄橋ではなくて昔の吊り橋だったのね(しかも場所も違う)。ケルンのオリジナルは1913~15年に作られ、45年2月戦争による被害を修復中に突然崩れ落ちたそうだ。避難民や戦車などの往来で重量オーバーしたらしい。写真はWikipediaから。
ちなみに鉄橋の方は万年橋の方に似てるわね。こちらもWikipediaから。
さて、この清洲橋を下に降りて近づいて撮ってみた。橋の撮影って、難しいわねえ。この日空もちょっと薄曇りになってしまい、白い部分が多くなっちゃう。
このすぐそばに、芭蕉庵の跡やら記念館やらがある。ここは芭蕉庵跡の芭蕉稲荷神社。
記念館は見学しなかったけど、展望庭園とやらへ行ってみた。
おお!芭蕉さん、いつもケルンを眺めていらっしゃったのね~!ケルンについての俳句を遺していただきたかったですねえ。
大聖堂の代わりに向こうに聳えるのは読売新聞社。
この展望台には万年橋を描いた北斎の富嶽三十六景「深川萬年橋下」も。ふーん、その昔はここから富士山が見えたのね。
同じ向きで撮ってみる・・・うーん、この近代化は本当によかったのか、ちょっと考えちゃうわねえ・・・橋はそこそこに趣があるけど、まわりの景色がねえ。
それからめぎとナツパパさんは、カフェにでも行って一休みしようかと言いつつ通りすがりに見かけた緑の多いこの空間に吸い寄せられた。なんだかケルンかデュッセルドルフかと思うような広い広い空間・・・ふと東京にいるのを忘れるような。
その辺りに看板が立っていて、この公園のことが説明されていた。もともとは江戸時代に豪商紀伊国屋やら下総国関宿の藩主やらの屋敷があったそうだが、明治時代に三菱財閥の岩崎弥太郎が買い取って庭園を完成させたのだとか。鹿鳴館だって~なんだか懐かしい歴史の言葉。
関東大震災で焼失しちゃったその鹿鳴館時代の建物。残っていたら・・・と思うと本当に残念ね。
岩崎家の敷地だったここが東京都の公園になったのにはそういう訳があったのね。
めぎはこの岩崎家という言葉に吸い寄せられた・・・というのは、めぎのドイツ語の基礎を伝授いただいた恩師の一人が所縁の方だからである。その恩師は関東大震災の頃はまだ赤ちゃんで、ここにいらしたことがあるのかどうかはなんとも言えないが、せっかくここに偶然辿り着いたのだからこれもご縁と感じ、暑くて喉も渇いたけどカフェは後回しにして入園料150円払って庭園の方へ入ってみた。(ナツパパさんには暑い中申し訳なかったです!)
石が印象的。
広い池でのびのびとしていた鯉。
亀さんものびのび~~
そして、ここにも富士山があったのだった!
おお~図らずも今日2つめの富士山登頂!?と心躍らせたけど、登山禁止だった。
遠くにスカイツリーが見える・・・そして近くのマンションも。あのマンションに住めば、いつでもこの庭園が見える訳ね。しかし、マンション側はいいけど、庭園側から見ると、やっぱり興醒めだわねえ・・・仕方がないことだけど。
それにしても東京都もこれだけの敷地を管理するのは大変だろうなあ。150円で公開してくれているのはとっても有り難いことね。数年前不忍池近くの旧岩崎邸にも行ったけど、明治から昭和初期にかけての財閥って、本当にすごかったのねえ・・・思えばめぎの知る恩師はものすごく仕事熱心で、ドイツ語のどんな些細な単語でも一つ一つのニュアンスにまで拘って辞書を端から端まで読んで的確な訳語を探して正確に訳すことを教えてくださったのだが、あの細かく熱心な仕事ぶりを思うとその矛先が商売に向けばご先祖様が財を築くのも頷ける・・・そんなことを考えている暇があったら辞書を引きなさい!と怒られそうだけど。
そしてようやくナツパパさんのお薦めのカフェへ。
中にはルフトハンザの模型やらグッズやらがいっぱい。
小さいタイプから大きなのまで揃っている。一つ一つもっとクローズアップして撮っておけばよかったなあ。
ここでずいぶん長いこと色々おしゃべりしたなあ・・・いろんなテーマが後から後から浮かんで、話が尽きないのだった。そんなうち解けた雰囲気になったのは、ナツパパさんのあたたかいお人柄の故だろう。だって、この日のテーマの富士山が移動先にもあって、さらに東京にいながらにしてこんなにドイツを感じるようなところへ次から次へと連れて行っていただいたたんだもの!
以上でナツパパさんとのお話はお仕舞い。充実した楽しいひとときに心から感謝。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
rinoさんと [2014年夏 日本の旅]
現在、この夏の日本の思い出を記録中。
7月末の東京がとても暑かった頃、rinoさんのお宅にお邪魔した。到着すると、まず手作りの梅酒が♡
おいし~~~~い!
rinoさんとはブログを通してデュッセルドルフで知り合った。海外生活が長く、かつてドイツにも住んでいらしたrinoさんとは話も合い、お子さんたちがめぎの母校に通っていらしたこともあって親近感も沸き、日本に行くとなると必ずお知らせする間柄に。今回もお忙しいところお時間を作ってくださり、しかもご自宅にお招きくださり、感動。いつもはクロスなど洋風にしていらっしゃるインテリアをめぎのために和風にセッティングしてくださったという細やかなお心遣い。
そして、手作りのこんなに素敵なお食事もご用意くださって。ああ、なんてお洒落なの~
なんて豪華なの~~
なんて美味しいの~~~
心のこもった温かいおもてなし。美味しくていっぱいいっぱいいただいた。
rinoさんとは子どものことやら親のことやら自分たちの健康のことやら話は尽きず、お優しさに甘えて愚痴を聞いていただいたりも。本当にホッと出来る素敵な時間。
お食事のあとは、リビングでおやつ♪
BSの何かの番組でドイツのライン河畔の古城ホテルが紹介されていた番組を録画なさっていたのだが、それがめぎが以前訪ねた古城ホテルと同じ所なのか否かと確認したり。ええ、ここに泊まったのよ~ここ、本当に素敵でお洒落で食事もワインも美味しくてお勧め。rinoさんもまたドイツにいらしてぜひここに泊まって欲しいなあ。
でも、今は色々とお忙しくてなかなか海外へは行けないみたい。ご主人の駐在もしばらくなさそうだし・・・いつかいらしたら、一緒に旅行もしてみたいわねえ。
おやつもとても美味しかった。
本当は和室も準備してくださって、そちらでも座りましょと話していたのだけど、お話に花が咲いてあっという間に時は過ぎ、お暇しなければならない時間になってしまった。rinoさん、たくさんのお気遣い、ありがとう。お互い健康に気をつけて元気で過ごし、また会いましょうね。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
両親の家での食事 [2014年夏 日本の旅]
ここ数日のテーマの食事つながりで、今日はこの夏の実家での食事のお話を。
札幌を訪ねためぎたちを待っていたのは、母の手作りの料理。
手作りの料理が待っている幸せって、本当に貴重なことね。うちのドイツ人の母親を訪ねても、冷凍食品の解凍しか出てこないのだから。まあ歳をとれば仕方のないこともあるだろうけれど、だからこそ、親が元気で手作りの料理でもてなしてもらえる有り難さが胸にしみる。
蛸とエビを使ったサラダはさっぱりとしていて絶品。
そして、赤い鉢の中にはお赤飯。
そう、今回の訪問はお祝い事・・・めぎの父の会社は65歳定年なのだが、父はその後も仕事を任され、70歳で第2の定年を迎えた。それは既に2年くらい前のことなのだが、その間めぎはうちのドイツ人の家族のことで色々あって日本に行く精神的余裕はなく、父が特別な祝いを望まなかったこともあり、改まって何をすることもなく時が過ぎ、今回ようやく訪ねてみんなでお祝いすることになっていた。
ところが今回の日本旅の出発直前、父が突然の病で緊急入院、手術。それはそんな大病ではないが、放っておけるものでもなかった。その知らせを聞いたとき、全ての旅行の予定をキャンセルしてまっすぐ札幌に行かなきゃならないかな、とも思ったが、予定の変更の必要は無し、とのこと。妹も行かないというので、結局入院中の父を見舞うこともなくめぎは東京で友人たちと賑やかに楽しく飲み食いしたという訳だ。
訪ねてから詳細を聞いたところ、最初は4~5日様子を見てから手術するかどうか決めると言った主治医に対し、それじゃ退院がめぎの訪問に間に合わないからすぐに手術をしてくれ、と父の方から頼み込んだのだそうだ。めぎの来る一週間前には退院し、すっかり体調を整えて待っていた父。こういう料理も普通に食べられて、お酒も飲めて、なによりのこと。
そんなダブルお祝いを、母の優しい味付けの料理をつまみながら家族みんなでおしゃべりできて、めぎにとってもとても嬉しい時間だった。
8年前に訪ねたときは魚魚魚刺身刺身刺身魚魚・・・と魚介のオンパレードだったが、今回は生ハムやチーズも用意されていた。色々気遣ってくれたのだろうな。うーん、正直なところ、めぎは飽きるほど浴びるほどアザラシになるほど魚を食べたいな、あと5日もしたらこういうのがどっさり安く手に入るところに戻るんだけどな・・・と思いつつ、久々のチーズの味は格別。
うちのドイツ人が、ちょっとふざけてチーズを箸で♪
それからデザートの桃。日本の桃は絶品で、ほっぺたが落ちそうというのはこのこと。まさにケーキ代わりのデザートだわね。
母が用意していたのはワイン。家族6人で(しかも病み上がりでセーブしながら飲んだ人が約1名いたのに)、これだけのお酒を全部空けてしまった。こんな遠くの日本まで来て、ヨーロッパでも滅多に飲まない格のワインをこんなに大量にいただくとはねえ。これ、日本では相当なお値段になるのだろうな。ちなみにワインのセレクションは義弟。めぎの実家には冷蔵庫みたいなワインセラーがあって、母はいいワインを集めて楽しんでいるらしい。そこから義弟が吟味して飲む順番も考えて選んで出してくれたのだった。義弟と妹もワイン好きで自宅に同様のワインセラーを持ち、ワイン会などをやって勉強しているようだ。
↑一番右端のトカイワインは、長く寝かせたので瓶に色が染みついているが、空っぽ。
そのトカイワイン、飲む前にもっと若いトカイワインと並べて色の違いを写した。寝かせるとこんな色に熟成するのね。母の妹(めぎの叔母)がその昔お土産に買ってきてくれたものだというこの古いトカイワイン、みんなで美味しくいただいた。
本場ヨーロッパから来たワイン歴40年以上のうちのドイツ人は(ドイツでは16歳からワインが飲めるので、文字通り本当にワイン歴40年以上)、久々のヨーロッパの香りと味に一気にホームシックに。香りというのは本当に残酷だ。同時にそこには醤油味の香りもあり、箸が置かれ、日本の果物が並び、お茶も出される・・・それと共に味わう上質なヨーロッパのワイン。このときどれほどうちのドイツ人が故郷を遠く離れていることを実感したことか、ドイツでそのちょうど反対の経験をしているめぎにはよく分かる。
次の日の朝食には、うちのドイツ人のためにドイツパンが用意されていた。札幌のどこかでかなり本格的なドイツパンが売られているらしい。
バターが↑こうして切ってあるのは、料理に使いやすいようになのかな。ドイツではバターって冷蔵庫で出しやすい手前に置かれてどっかりと存在感を示しているけど、実家では奥深くに埋もれていたなあ・・・きっとあまりバターを使わないのね。めぎも日本にいた頃はバターなんてほとんど買わなかったものなあ。それはともかく、父や妹夫婦が食べる普通の朝ご飯の他にエキストラにうちのドイツ人用の朝食を用意してくれた母の手間と心遣いにうちのドイツ人は非常に感動し、大喜びでドイツパンを食べた。この朝食のことをドイツに帰国してから家族や友人たちに何度も何度も話していることからも、どれほどこれが印象に残ったかが伺える。食べながら、あと数日でドイツに戻れる・・・と心躍らせてもいたようだ。
めぎはもちろん朝から和食をいただいた。このお味噌汁のにおいが朝は殊の外敏感なうちのドイツ人には辛いだろうな、と知りつつも。(夜なら喜んで食べるのだけどね。)めぎは本物の和食が食べられるあと数日しかない貴重なチャンスを逃したくはないのだ。
うちのドイツ人がどれほどの日本通になろうとも、朝のお味噌汁のにおいや大根やネギを切るまな板の音から日本人なら誰もが心に描く温かくも切ない懐かしい風景は思い描けない。背景を説明しても、心では理解できない。うちのドイツ人は、今回の旅を通して自分は日本では暮らせないとハッキリ悟ったそうだ。それは、ドイツの味が懐かしいとか文化の違いを感じたとかそういうことではなく、これほどの日本通になり、これほど日本と日本人が大好きだけど、如何に自分が日本のことを決して理解し得ないかをようやく悟ったからなのだとか。それだけ日本通になったということでもあろうか。
次の日の夜は温泉で、その次の日は外の居酒屋で夕食を食べ、早くも最終日の晩。めぎも買い物についていって、目についた出来合いのものも追加して食べたいものを用意してもらった。出来合いのは、鰹のたたきとなまこ酢。イカは釣りたてという感じの透き通った黒々とした生きのいいのを買ってきて母が刺身にしてくれた。(あのドイツに持ち帰ったイカのゴロはこのイカのもの♪)
この日のメインは和牛。義弟の実家からお中元に贈られた物だとか。ああ、そうだ、日本にはお中元とかお歳暮とかもあったのよね・・・こちらからはアスパラやらメロンやら贈ったという話で、どうやら両親は義弟の実家とよく贈り物をしあっているようだ。霜降りの和牛、柔らかいわねえ!お肉がこんなに薄切りで、ああ日本だわねえ。今年の最後のものだという北海道のアスパラも、う~ん懐かしい味。ドイツの牛肉は霜降りじゃないし、ドイツでアスパラと言えば白で、グリーンのはほとんど食べない。
鰻の蒲焼きで作ったこのチラシ寿司、とっても美味しかった。蒲焼きは出来合いのを買ってきたのだが、こんな美味しい調理品が手軽に売ってるのが日本の良さね。
この日のお酒は妹がワインセラーからセレクトしたこちら。義弟が仕事のため先に仙台に帰り、残った5人だけで飲んだとは言え、ちょっとおとなしかったわねえ。
デザートは葡萄。この種なしで皮の厚い葡萄はうちのドイツ人の印象に残ったものの一つ。ドイツでは皮ごと葡萄を食べるし(だから皮が薄く、皮から実がぽろっと剥がれるような品種改良がされていない)、甘さはドイツのもとても甘いが、甘みの方向が日本とどうも違うように思う。
そして、お茶。食後にお茶を入れるのって、そういえばドイツでは全くしないこと。
この器はめぎも覚えのあるもの・・・めぎが高校生くらいの頃、この器に恋した母が買ったもの。懐かしいなあ・・・日本のお茶、美味しかった。
それにしてもなんて美味しい食事だったことかしら・・・めぎにもうちのドイツ人にも気を遣って色々と用意してくれて、父と母に感謝。
出発の朝は、コーヒーと桃を。桃の甘さはもちろん、このコーヒーが美味しかったとうちのドイツ人は今でも思い出しては言っている。
芸術作品のような桃・・・夏に行くことがなければもう食べられないわねえ。日本にいつ行くかによって、食べられるものも全く異なる。この桃の味は一生忘れないだろう。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
20年数年ぶりのお墓参り [2014年夏 日本の旅]
今日もまた夏の日本旅のお話を。
今回札幌を訪ねることにした際、したいことのリストのNo.1にお墓参りを揚げた。義父が亡くなってからハンブルクへ何度もお墓参りに訪れ、そういえばめぎの先祖のお墓にうちのドイツ人を連れて行ったことがなかったなあ、と気づいたからだ。それどころかめぎ自身、20年以上お墓参りをしたことがなかったし。だから、今回のお墓参りは3週間の旅の中でもめぎにとってはハイライトの一つとも言えるほど思い出に残ることだった。
まずは母方のお墓へ。母方というのは母の実家のお墓という意味だが、めぎの両親は母の両親をうちに引き取って最後の面倒を見たので、めぎが一緒に住んだことのある祖父母がここに眠っている。それも、祖母が亡くなったときに最期を看取ったのは偶然ながらめぎ一人であったので、めぎにとってはまだ社会に出ないうちに人の死と直接向き合った思い出の墓でもある。
お墓は千歳にある。母の兄が住んでいた地である。
こういう桶と柄杓(という名前なのかな?)が地方によっては家ごとに用意されていることと思うが、ここには誰でも使えるように入り口にいくつか置かれているだけ。北海道はいろんなものを非常に簡略化しているのだ。
線香をつける母。北海道では線香をこんな風に束であげる。線香の付け方一つとっても、日本の他の地方とずいぶん異なる。
話は飛ぶが、かつて鹿児島で、嫁の仕事として朝と夕方一日2回墓の掃除と花の取り替えが日課であるという話を聞かされたことがあるのだが(20年前のことなので今もそうなのかは知らないが)、同じ日本といえども地方によって習慣がずいぶん異なるものだ。毎日2回も墓の手入れをする地方もあれば、冬は雪に埋もれたままほったらかし、夏も草ぼうぼうのままの北海道。今回めぎがお墓参りしたいと言ったため、めぎの両親はわざわざ事前に一度出向いて草むしりをしたそうで、たしかにちょうどうちのお墓とその前だけ草が生えていなかった。
祖父は85歳、祖母は79歳だったのか・・・これは数えだけど。その横には若くして亡くなった伯父の享年が。伯父は遺言により無宗教で葬式を行ったので、戒名が無く実名で、そして享年でここに記されている。さらに裏には千歳に住んでいたもう一人の伯父とその奥さんの名も。その伯父夫婦が亡くなったときにはどちらの場合もめぎはドイツにおり、葬式にも法事にも出たことはない。この伯父には幼いときには親しく遊んでもらっていたのに、今はこの墓の下にいるのだと思うと、人生は儚いものだ。
折しもちょうどこの頃日本で男性の平均寿命も80歳を超えたと報道されたのだが、祖父は20年以上も前に結構長生きだったと言えるし、祖母はずいぶん早くに逝ってしまったんだな・・・
うちのドイツ人も日本風に手を合わせた。
西洋の墓は個人のもの。日本のような、遺された者が供養しないとあの世で先祖が浮かばれない云々といった考えはなく、うちのドイツ人には先祖を「弔う」という意識がない。ドイツでめぎが、うちのドイツ人の先祖が洗礼を受けた教会に案内されたことはあるが、お墓に連れて行かれたことはないことからも分かるように、ドイツ人にとってお墓は死体を埋めるところという意識以外に何もない(もちろんカトリックかプロテスタントか、信仰心の深さにもよると思うが)。魂は神に召されていてお墓にはないし、お盆などに地上に戻ってくるという考え方もない。魂が救われるか否かは亡くなった本人の一生にかかっているのであり、遺族には全く関係がない・・・先祖を敬ったり誇りに思ったりはするが、それは弔いとは全く無関係なのである。うちのドイツ人は実の父のお墓でも手を合わせたことはなく、めぎはこういう姿を初めて見た。ありがとう。
次の日、今度は札幌の父方のお墓へ。父方のお墓というのは父の実家のお墓のことで、父と母もここに入ることになる。
山の中にあるような墓地に見えるが、場所は札幌の円山で、つまりかなり町の中心部である。札幌市の公営だそうで、敷地の管理はかなり適当である。草もぼうぼうだが、これがお盆を前に掃除されたのか否か謎である。
父方の祖父母は昭和のうちに亡くなった。祖父はめぎがまだ小学生の頃のこと。そんな昔に84歳まで生きたのね。それに対し、祖母は78歳まで。若かったのね。
どうして墓のまわりに花を植えたりしないのかとドイツの墓地を思い出してうちのドイツ人が質問したが、めぎの父の答えは、日本のお墓は盛り土をしてその上に石をのせているので、花を植えるとその根が邪魔をして盛り土もろとも崩れる恐れがあるから、とのこと。お墓に根を張らせることには宗教的にも何かよくない意味があるのかも知れないが、父の合理的な理由付けはうちのドイツ人には非常に納得のいくものだった。たしかにドイツのお墓は盛り土をしない。死体にしろ灰にしろ、穴を掘って埋めて、その上に石を置き、植物を植えるのだ。つまり、地面は平らなままなのである。
近くに、千と千尋を思い出すような置物があった。
お墓参りを終えて、うちのドイツ人が、めぎが死んだらここのお墓に入りたいか、と聞いてきた。めぎが入りたければ、自分が生きている限りはここまで遺灰を持ってくるという。父によれば名前が違っても入りたければここに入ることができるそうだったが・・・遺った相手が気の済むようにすればいい、だってその人はまだ生きて行かなきゃいけなくて、めぎの死を乗り越えなきゃならないんだから、というのが今のところのめぎの願い。でも、もしかしたら、遺った相手はそうでなくても大変なのだから、どこどこへ、ときちんと指定してあげておいた方が親切かも知れないわね。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
XXXX 負けた~~! XXXX
ポーランド、歴史的勝利。写真はARDから。
ドイツ、悪くもなかったんだけど。でも結果は完封。写真はRP-Onlineから。
ヨギ、次も頑張れ~写真はRP-Onlineから。
故郷への想い [2014年夏 日本の旅]
今日もこの夏の札幌の話から。
8年ぶりの札幌で、限りある滞在時間にずいぶんたくさんのところを回った。例えば北海道神宮へ。
親元で過ごした時間以上の時が疾うに過ぎ、ドイツに来てからも一回り以上の年月が経過した。日本に12年以上も住んでいないとあちこちどんどん変わってすっかり浦島花子になるが、札幌となるともはや全く知らない町のよう。母校の高校も訪ねてみたが、校舎は完全に建て替えられていて思い出のかけらも感じられず、まわりの景色にも見覚えがなかった。
音楽に全力をかけて打ち込んでいた子どもの頃に何度か使ったことのあるコンサートホール。懐かしいな。あの当時、ここはできたばっかりだったのよね。他のホールは既に建て替えられたりしているらしい。
幼い頃よく来ていた藻岩山。山頂駅はすっかり新しくなっていて、初めて来たところのようだった。ヨーロッパの街並みにすっかり目が慣れた今、上から自らの故郷を見下ろして、この殺伐としたというか無機質というか顔の無いような街並みに愕然とした。
めぎの心の奥深くに仕舞い込んでいた美しい町、札幌の記憶・・・赤煉瓦の素敵な校舎だった高校の一角、ライラックの木の下のベンチ、雪に煙るイルミネーション等々。しかし札幌も、その他の日本の大都市と同様、無機質なビルの並ぶところだったのよね。思い出は時間を経て美化される、というのは本当だな。ずっと昔、たしか国語の教科書の読み物で、何十年ぶりかで故郷の町を訪ねるというものを読んだ記憶があるのだが、すっかり変わり果てた町を歩くその男の気持ちが今ようやく分かる気がした。子どもの頃は、そりゃあ昔と今は違うでしょ、とただ漠然と思っていたのだが、「現代」だったはずのめぎの子ども時代もすっかり「昔」となり、札幌と言えども街並みは全く変わったのだ。しかし、どんなに知らない町になろうとも、懐古者にとってその変わり様がどんなに醜くとも、故郷への愛情は深く深く。
それからめぎは、今回ぜひ会いたかった父方の伯父の家へ。ここは父方の長男、父の兄の住むマンションである。めぎが小さい頃は家族4人で小さな公団アパートに住んでいた伯父も、今は立派なマンション暮らし。数年前に妻を亡くし、伯父は今一人暮らしのようだ。めぎの希望通り、昔の写真を用意して待っていてくれた。
というのも、小学生の時に亡くなってしまってあまり記憶のない父方の祖父のことを知りたかったのだ。数年前に偶然、祖父がこれに同行していたと聞き、そのこともちょっと詳しく知りたかった。
行き先は英国。エリザベス女王より前のことだったのね。めぎの祖父はそれに同行していたのだ。
と言ってもぺーぺーで、この中のどこかにいるというだけのことなのだが。
しかし、大正10年に御召艦と呼ばれる船でこんな旅をしているわけで、それはまあ本人にとっても家族にとってもずいぶんと大きな出来事だったことだろう。
あ、ジブラルタルにも来ている!
めぎがジブラルタルに行ったのは2007年のこと(その話はこちらをどうぞ)。うちのドイツ人が行ったのは1976年のこと。1976年の話だってずいぶん大昔のことのように聞こえたが、祖父は1921年に行ったことがあったのね・・・いやはや、なんと。
それから祖父は札幌の裏参道へ移り住んだ。その当時の写真。こんなだったのね!
時代が過ぎて、昭和30年代の写真ではないかと思う・・・祖父とその娘、つまり父の一番上の姉。祖父はなかなかカッコイイし、伯母はとっても美しく、バックの残雪の残る通り、木造の低い建物、向こうに見える荷馬車のような乗り物、当時の服装・・・なんとまあ。
この裏参道にあった祖父母の家は木造2階建てで、縁側があってそのつるつる滑る廊下で従兄妹たちと遊んだり、裏庭に梅の木があって毎年梅をとって梅酒を造ったり、未婚の若い叔父とかくれんぼして遊んだりした楽しい思い出が残っている。居間には祖父を囲んで男たちが座り、広い台所で祖母を囲んで女たちが料理をしながらおしゃべりし、その向こうにちょっと暗く涼しい広い土間があって裏口へ続いていた。それとは別の玄関口は引き戸で、お客が来るとがらがらっという音がして、そこはこの家に来たときと帰るときしか使わないのでなんとなく正式なよそ行きの場所という気が子供心にしたものだった。時代を経て裏参道が再開発の波に呑まれ、その木造の家が姿を消したのはめぎが中学か高校くらいの頃だったと思う。
美しいこの伯母はかつて舞台に立っていた。このステージ、後ろの広告、この服装。これがめぎの子ども時代には眩しく映る芸能人の世界だったのよねえ。いや、子どもの頃のめぎにとって、東京に出て生活しているということ自体がすごく格好良く思え、自分もいつかはと心に秘め、それを目標にして頑張ったからこそ今がある。まさか外国まで出るとは思っても見なかったけど。
実は数年前一時帰国した折に、引退して今や80歳を超えて千葉で一人暮らしをしているこの伯母を訪ねてみたが、その華々しくも努力を重ねた人生の幕引きは潔く、非常に慎ましくスッキリと整理して生きていて、しかし誰にも迷惑をかけないだけの財力もキッチリあって、とっても格好良かった。その暮らしぶりやものの考え方などの何気ないところから血のつながりも強く感じたりして、今回伯父に会ってもっと詳しく父方の家族のことを知りたいと思うきっかけにもなった。めぎは母方の祖父母をうちに引き取ったり東京で母方の伯母のアパートに下宿したりした関係で母方の親戚とはかなり密接なやりとりがあったけれど、父方とはホンの小さな子ども時代を除き長いこと疎遠だったのだ。その足りない部分をみんなが生きているうちに取り戻しておきなさい、とうちのドイツ人がめぎを促したということもある。
祖父母の代の昔話やら伯父の現役時代のことやら従兄妹たちのことなどやら聞きながら、めぎに欠けていたものをいっぱいいっぱい充足。膨大な写真を一枚一枚見て写真をとっているうちに、すっかり夜に。それから伯父とめぎ家全員とでこちらのお店へ。
このビルにたった一軒だけで大丈夫なのかなあと思ったが、今月移転したみたい。今の場所はこちらをどうぞ。
中はお客さんいっぱい。それもそのはず、新鮮で美味しいのだもの。
残念ながら事前予約しておいてくれたウニは撮り忘れ。素晴らしい鮮度と質と量。この店に行くのならぜひ事前予約をお勧めする。鉢から溢れんばかりの量の高級品質のウニが食べられる。実は札幌に来る前にもウニをいっぱい食べる機会があったのだが、うちのドイツ人が違いに気がつくほどの品質の差があったのだった。
こちらは牡蠣のがんがん蒸しという料理だったと思う。
半生のこの大きな牡蠣がすごい。すごい、と言うしかない。
それから刺身盛り合わせ。北海道らしく、どどーんとした盛りつけで、中身充実。
アワビの肝も。新鮮で最高。
貝が好きなめぎのために、もう一度ホタテとツブとホッキを頼んでもらった。
家族と一緒に美味しい魚介と美味しいお酒。ああなんて幸せ。ここでは特に、伯父と父との仲良さそうなやりとりを見て、心が和んだ。退職後、一緒に囲碁をしたりして楽しんでいるようだ。仲のよい兄弟が近くに住んでいて羨ましいな。どちらも末永く健康でいられたらいいね。
その次の日、父に裏参道へ連れて行ってもらった。かつて木造の祖父母の家があった場所は何度か建て替えられて今はマンションとなっていた。このように昭和30年代の写真の面影は全くなく、それどころか再開発でお洒落なファッションビルが並んで若者で賑わっためぎの高校時代の面影も消え、今やちょっと見捨てられた住宅街って感じ。再々開発の計画があるようで道路拡張工事をしていたから、いつかまた賑わうときが来るのかも知れないが。
思い出のかけらも見当たらないな・・・と思っていたら、妹が、三角公園は残っているよ~と。おお!
この公園で、かつて従兄弟たちと遊んだのだった。この古さ、もしかして、めぎが遊んでいたときのもの・・・?ほぼ半世紀も経とうとしているけど、もしかして・・・と思ってしまうような、愛おしさ。
もう伯父に会うことはないかも知れないし、いつかまた裏参道を訪ねたらもうこの公園はないかも知れない。だからこそ本当に貴重な時間だったし、色々見たり聞いたりし、そこの空気を吸い、色々感じることができて、一緒に美味しいものを食べてわいわい楽しめて、最高に幸せだった。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
東京で泊まったところ [2014年夏 日本の旅]
忘れた頃にやってくる今年夏の日本旅のオハナシ♪ とは言え「ドイツ再発見」という名のブログで日本のことを書いてどうするという気もしないでもないのだが、できるだけドイツ人が日本を見る目で書いてみようと思う。
ここは東京上野駅。
ここにやってきたのは日本旅の3日目のこと。最初の2泊は成田空港から東京近郊の温泉へ直行し、引き籠もって旅の疲れを癒した。日本滞在中ずっと温泉を泊まり歩きたいくらいめぎ家は温泉好きだけど、そんなことをしたら破産してしまう。まずはちょっと贅沢して2泊3日静かな温泉宿でゆっくり過ごし、それからいざ往かん!とばかりに東京に戻ってきたはいいが、梅雨の末期の湿った空気と大都会の喧噪にノックアウトされ、めぎとうちのドイツ人はここに3時間くらい座ってぼんやり人々を眺めていた。
一週間の東京滞在の後半は友人の家に泊めてもらったのだが、その前に3泊だけ上野でホテル住まいをした。ホテルと言っても普通のビジネスホテルではなく、畳の部屋に。日本ではぜひ畳の部屋に泊まりたいというのはうちのドイツ人の希望でもあるが、今やめぎ自身の願いでもある。狭いビジネスホテルではスーツケースを広げる場所もないし(ベッドの上に広げるしかないし)、せっかく日本に来たのだからベッドに寝たくない。また、ユニットバスは狭いし、日本なのだからゆっくりお風呂に入りたい。新宿や渋谷などにもホテルはごまんとあるが、外国暮らしが長くなると東京の下町に宿をとりたくなる。それで上野周辺で大浴場付きの畳の部屋を探したのだが、大浴場付きはたくさんあるもののたいていがベッドルームかカプセルホテル。有名ホテルのデラックス和室やら森鴎外所縁のところやらもあるが、高すぎて予算外(予算は一人1泊4千円前後)。東京は折しも7月の3連休で、外国人に人気の安い和民宿などは既に満室状態。本郷になかなか風情のある日本家屋の安い宿も見つけたが、地下鉄から歩いて15分でスーツケースをごろごろ引いての移動には不便。知り合いに会う予定が目白押しだから交通の便利なところがいいし、このあと泊めてもらう友人の家も上野だから、やっぱり上野にしましょ・・・というわけで、まず1泊分を予約したのは下の写真の上野駅のすぐ右に写っているビルの辺り。
下の写真の右に写っているホテル、入っていくとフロントに誰もいなくて、すみません、とドアの開いていた隣の部屋を覗くと、おばさんがソファーに横になっていた。大きな声ですみませんと何度も呼びかけると、ようやく起き上がってきてくれた・・・とは言え、チェックインなどはスムーズ。慣れてくると実は世話好きで、色々気にかけてくれたりも。
ネットの口コミでも色々書かれていたのでさてさてどんなところやらと思っていたが、まあこんなもんでしょ、という感じ。なにしろとってもお安いし。一人3800円くらいだったと思う。ロビーはレトロで、古き良き昭和のニオイ。お手洗い男女共同(昔懐かしタイル張り、洗面台が小さくて低すぎるのがちょっと難点)、お風呂も共同(これは男女別でやはりタイル張り、残念ながら入れる時間が限られていてめぎはシャワーのみ使用、雰囲気はなかなか渋い)。部屋はこんなところで、最初から布団が敷いてある。窓を開けると隣のビルの壁と配管。設備も非常に古く、テレビは「アナログから地デジにしなさい」という趣旨のテロップが流れ続け、エアコンもものすごい音であまり機能しなかった感じだけど、この部屋の柱と小さな机の木の質が素晴らしいと、うちのドイツ人がいたく感心していた。
その近くの小路を散歩。なかなか趣のあるところ。
ザ・昭和という感じ。ここ、会員制なんだ・・・
この辺り、東京オリンピックまでに消えてしまうかも知れないわねえ。
さて、めぎ家はその前に2泊3日温泉の素晴らしい懐石料理をいただいてきていたので既に飽食気味。それで東京での最初の夕食は、ホテルの隣のラーメン屋さんへ。札幌ラーメンじゃないけど、もう探すのも面倒だし、ここにしましょ、と。まずは日本のビールで乾杯♪
うちのドイツ人は炒飯とスープ。このスープがものすごく美味しかったらしい。
たしか餃子も食べたんだけど、撮り忘れ。
めぎは適当にラーメンを。博多ラーメンには全く詳しくないが、めぎ的にはアタリの美味しさ。
あまり期待もしていなかったのに意外にも非常に美味しくて、大満足。小さい店ながらお客さんも常に入ってたし、悪くない。食べている間にちょうど仕入れの人が大量の豚骨を抱えて入ってきて、本当に豚骨で出汁を取っているのだということが分かったし。この数日後、めぎが夜に一人で友人に会いに行った日、うちのドイツ人は再びここを訪れて同じものを食べたのだとか。
その次の日、今度はこちら側のホテルに引越。
泊まったのはこの青い看板のところ。
こちらはずっとビジネスホテルタイプ。フロントはこんなに大きく、係の人もホテルマンという感じの極めて普通のそつのない対応。
このホテルの中に数は少ないが畳の部屋があるのだ。こちらも予め布団が敷いてあった。窓を開けると通りで、そんなにいい眺めではないけど外が見えるという意味で悪くない。ここに2泊した。一人一泊4800円くらいだったと思う。ちょっとお高めなのが残念だけど、その分しっかり快適。部屋はユニットバス付きでつまり部屋にトイレがあるし、布団がふかふかだし、空調もきちんと効くし、テレビはちゃんと地デジだし、そして若干広め。
そして24時間いつでも入れる大浴場。それはとっても嬉しい。
この同じような場所の同じような部屋でありながら全く異なる雰囲気の2つのホテルに泊まり、たしかにお金を出せば出すほど快適になるのだが、何かが失われていくような気もした。快適性というのは安心感いっぱいだが、下手すると顔の無い無機質なものであって、人間味溢れるお昼寝おばさんも、美しい立派な木でできた柱や机も、快適性の後ろに消えていくのだ。
本当はカプセルホテルにも一度泊まってみたかったんだけど、うちのドイツ人がいくら安くともそんなに狭いところはちょっと・・・とのことで見送った。まあそれこそスーツケースをどうやって広げるってことになるわね。
東京は宿代が非常に高く、このあと友人の家に何日も泊めてもらえて本当に助かった。みなさんだったら、東京に旅に出かけたとしたらどんなところに泊まるのかしら。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)、Nikon 1 V1 + 10mm(F2.8)、S31、Xperia Z1
うちのドイツ人と見た東京の風景 [2014年夏 日本の旅]
久々にまたこの夏の日本旅のオハナシを。
今回の夏の日本旅では浅草に2回ほど用事で赴いた。しかし、浅草はうちのドイツ人ももう何度も見たことがあるので観光するつもりはなく、浅草寺は前を素通り、仲見世通りさえ人混みが嫌だと言うので避け、通ったのはここ。
さらにこんなところを通り抜けた。
こんな郵便受けとか、ガスのメーターとか、生活感溢れててとっても素敵。
こういう裏通りは観光客に見せるためのところではないからか、ちょっと物置のよう。しかし、こういうところにこそ、日本の素顔があるのよね。表通りの雑踏に飽き飽きした外国人もとっても喜ぶ。ここで思い出したのが、日本で今流行っている外国の街歩きの番組。裏通りを歩くのって、あんな風にちょっとワクワクするものだわね。
スカイツリーの見える通り。ここに住んでいる人たちの特権ね。
場所は変わって、ここは浅草の刃物屋さん。
お高い包丁は予算無く買えないので一瞥しただけだが、きーんと言う音が響くなか、うちのドイツ人は10分くらいこの作業に見入っていた。
ところで、この日は隅田川花火大会で、浅草には浴衣を着た若者たちがたくさん。可愛いね~♪
可愛い足もと♪
浴衣姿の若い女性たちにはとっても惹かれるうちのドイツ人。いや、地下足袋の人力車を引くお兄ちゃんたちにも。服よりスーツよりずっと日本人の体型と姿勢と動きに似合っている、と語気を強める。
この着物姿が美しいと絶賛。着物というのは日本人の体型と歩き方にぴったりなのね。
でも、そうは言われても、日々の生活で着物を着るのはもはやちょっと無理よねえ・・・
また、着物姿よりも繰り返しうちのドイツ人の目を惹いたのは、都内の電柱や電線、そして・・・
工事現場や駐車場などで交通整理をしている結構年配の男性たち。
ドイツにはこういう交通整理の人がいない。看板があるだけだ。交通量が多くて対向が危険なところはたまに信号が取り付けられている。そういうふうに万事につけ人件費を抑えているから、ものが安い。それに対し、日本はあちこちに非常に人件費を使っているのが見て取れる。何もかも高い訳だ。それで経済が回っているとも言えるし、それで失業率が低いとも言えるのだろう。
ドイツ人的には不必要と見なされるこの仕事、さらに気になるのは、従事しているのが結構年配の男性たちであることだ。どうしてこの人たちはこんな学生バイトのような仕事をしているの?というのが繰り返しうちのドイツ人から投げかけられた問い。この年齢と風貌から見て、恐らくはどこかを退職させられた、もしくは転職せざるを得なかったのでは、もしかしたら福島から?もしかしたら津波の被害のあった漁村から?もしかしたらもとはサラリーマンだったけどそれこそ人件費を削るために長年勤めた人たち(=高所得者)が辞めさせられたから?等々、その指摘は鋭い。うちのドイツ人と同じくらいの年齢の男性たちなので、彼には非常に気になったらしい。他人事という気がしないのだろう。
それからところ変わってここは横浜。こんな雑居とした町の中に埋もれる鮮やかな赤い鳥居。
その小路は駐輪・駐車禁止のようなのに、こんなに駐まってる・・・
そういえば大昔、赤信号みんなで渡れば怖くないっていうのがあったわね。これ、それと似てるわね。
電車やバス、タクシーの運転手さんの恰好もドイツから来るととても興味深い。きちんとワイシャツ来て、ベストも着て、時に白い手袋までして運転しているのだもの。お仕事お疲れ様。
あ、ドイツ語だ!こんなところでこんなコテコテのドイツ語を見ようとは。これ、ホップとモルツに神のご加護がありますように、という意味で、描かれている王様がガンブリヌスというビールの神様である。女神が持っているのはたぶん豊穣の角で、普通は花や果物などがその中に入っているのだが、ここでは紙が描かれている。これは何かしら?勘定書?それともビールの製法が書かれてるとか?
そして、これは・・・なんというか、言葉を失うほどすごいと思ったところ。駅のガード下に設けられた喫煙所。
緑で仕切った喫煙所。すごいなあ、これ。なんというアイロニー。そして、まるで障子で隠しているかのような印象のデザイン。
横浜は異国情緒も売りにしている都市。表側の店では外国の煙草が売られていて、うちのドイツ人のいつも買っている煙草もあった・・・オランダのDRUMの青いパッケージ。400g入り紙巻き用煙草で、60枚の紙付きで1140円。同じのを買うとドイツでは7ユーロくらい(約950円程度)。意外に横浜のはそれほど高くないわね。税金の違いかしらね。
以上、とりとめないが、めぎがスナップとして撮った東京(と横浜)の写真。これがめぎの祖国の日常の風景なのよね。とってもとっても愛おしい。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
4年目によせて [2014年夏 日本の旅]
ここはかつて港があり、漁船があり、家がたくさんあったところ。
今は地震の痕と・・・
津波の痕と・・・
妙に新しい家が一軒と新しいお宮らしき建物とビニールハウスと傾いた鳥居とかつて家々があったはずの所に草がぼうぼう。
上記の場所はもちろんドイツではなく、奥松島の大島地区。ドイツ再発見という名のブログに、今日が3月11日だからって日本の話を期待している方はいないかも知れない。めぎはその日ドイツにいたのであり、被災した訳でもない。しかし、その日はめぎにとっても忘れられない大きな転機となった日であり、思いを馳せずにはいられないのである。
奥松島の大島というところの民宿に泊まったのは2005年の秋である。妹が仙台の人と仙台で結婚式を挙げた機会を利用して、めぎとうちのドイツ人は奥松島へ足を伸ばしたのだった。そのときの楽しかったことや風光明媚な景色、漁村の朝の風景などは今もめぎ家の大事な大事な思い出である。だから、その場所が津波で跡形もなくなったというのを知ったときには非常に胸が痛んだ。その民宿の方々はみなさん無事だったそうで一安心したものの、宿を再開する予定はないとのこと。毎朝漁に出てそこで捕れたものを夕食に出す宿だったのだが、宿の建物も自分たちの住まいも、そして船も網も全て流されてしまったそうだ。
その辺りが多少なりとも復興したら応援に泊まりにいこうと思っていた。昨年夏に日本へ行ったとき、隣町の月浜というところで民宿を再開したところがあったので、そちらに今回は宿泊した。ホームページはこちら。真新しい建物がなんだか痛々しくも感じる。
部屋は簡素だが新しくて清潔。
そのベランダから見た景色・・・
浜から見たその民宿。(右奥の土台を非常に高く作っている黄色い建物。)
宿に貼ってあったかつての月浜。
そう、大浜もこんな風だったのよね。
月浜と大浜の位置はこちら。
ところで宿からは別の方向にこんなのも見えた。
ええっ!?と思って行ってみたら、やはり!!
これにはうちのドイツ人が非常に非常に非常に驚いた。日本という国は、震災から3年以上も経っても人々をこんなプレハブに住まわせておかなければならないほど貧しい国だとは思えないけど?というのが彼の最初の言葉だった。もちろん様々な事情がここに絡んでいるのは知っている・・・住み慣れたここを離れたくない人が多いこと、どう復興したらいいか住民同士で意見が一致していないこと、だから家をパッと建てる訳にはいかないし、遠くの住まいを充てがう訳にも行かないこと・・・しかし、そういう事情はあっても、外国人から見たら、日本という国はこんなに困っている人をこんな不自由な狭い所に閉じこめて見捨てておくのか、となる。少なくとも先進国に肩を並べている国ならば、アパートや団地のような体裁の仮住まいを用意して然るべき、これでは住まいではなく物置じゃないか、ということなのだ。
まあ、ドイツで似たような災害が起こったとしたら、どれほど手厚く手をさしのべてくれるのかめぎはめぎで疑問だが、たしかに亡命者や移民にプレハブを充ててはいない。少なくとも仮住まいでも快適に住もうとするドイツの文化では、この狭いプレハブに3年以上も住み続ける人はいないであろう。そんなことをさせたら、メディアもいくつかの政党も黙っていないはずだ。賢いメルケルさんはもちろん先手を打ってそれなりの援助をするのだろう。
近くには、ようやく意見の一致した人々が共同で建てたという家が建設中であった。今頃はその方々はここに住んでいるのだろう。
ちなみに民宿の経営者のご家族も、民宿は綺麗に建て直したが、自分たちの住まいはまだ仮設住宅だと言っていた。
少し外を散歩してみた。ようこそという立派な門がなんとも淋しい。
民宿がたくさん建ち並ぶはずの所は、さっき宿のベランダから見下ろした何もない空間である。
かつてはここは海水浴客や釣り客で賑わっていたのだろう。
真新しい宿のすぐ近くに放置された災害の痕。
めぎたちはちょっと高台にある神社にも行ってみた。
この鳥居も津波で倒れたのだとか。
階段を上がると、一部新しく改装したような神殿があり・・・
津波がここまで到達したという線が表示されていた。月浜はみなさん無事だったとのことでなにより。
名前からドイツ人と思われる人とその日本人の奥さんと思われる人が建てた碑があった。
津波の到達した高さの所から見下ろしてみた。ここに逃げてきた人は、どれほど怖かったことだろう。
遠くに壊れた家々が見えた。
さて、その民宿の食事。宿に直接電話をかけて予約すれば、一泊朝夕食付きで7500円。海の幸がいっぱいで非常に豪華だ。
このホタテが美味しかった。こういうホタテの料理は、めぎがかつて北海道でよく食べ、自分でもよく作ったもの。今思うと、なんて贅沢な暮らしだったのかしら・・・ホタテが殻付きで普通にスーパーで手に入ったのだものねえ。あの頃は食べたことのなかったものもいっぱいあったけど、今はもう食べられないものもいっぱい。
朝は、「今日はウニ採りです」というものすごく大きなスピーカーの音で眼が冷めた。町中に流すための災害通報が発せられるスピーカーなのだが、建物がないので雷のように響き渡った。ウニ漁が解禁になった頃だったのだ。地震の前にもきっと毎年毎年繰り返してきたウニ漁。こうして平常を取り戻しつつあるということなのだな・・・ウニ漁の収入がこの町の復興に役立てばと願う。うちのドイツ人は、この通報にも非常に驚いていた。解禁日なんてもうずいぶん前から周知のはずで、なにもその日に大音量で号令をかけることではなかろう、と。
朝食も美味しかった。
こうして一泊だけほんのぽっちりのお見舞いの宿泊をして、ここをあとにした。あれから7か月あまり。復興はどれくらい進んだのかな。
行きは妹夫婦に車で仙台から宿まで送ってもらったのだが、帰りは宿の奥さんに駅まで車で15分くらいの道のりを送ってもらった。最も近い駅は野蒜(のびる)といい、まだ復旧していなかった。今年の5月に開通する見込みとのことだが、このときはここから鉄道のあるところまで代替バスが出ていた。
この辺りはまわり中が工事中だった。駅も移設するということだったし、学校や住宅街を高台に建てるため盛り土をしているのだとか。
以上、昨年の夏に訪ねた奥松島の思い出を書くことで、めぎとうちのドイツ人の3月11日への哀悼の代わりとしたい。ただ見に行っただけであることを心苦しく思いつつ、でも自分の目で見たことで、その土地の人と直接話したことで、ドイツで、授業で、自分の言葉を語ることができるようになり、行ってよかったと思っている。
撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)、食事の写真のみNikon 1 V1 + 10mm(F2.8)