実は…冬どん底のめぎ家 [義母とのお別れ 2023年12月]
今日は1月7日、クリスマス休暇という名の冬休み最終日。仕事こそしなかったが、忙しくて休んだ気のしない冬休みが終わろうとしている。この写真は、12月31日の撮影。ちょっと晴れ間が出て嬉しくてパチリ。

え?と思ったみなさま、ええ、そうなんです…ブログではずっとポルトガルの景色を載せ続けていたけど、実はめぎたち、急用ができて12月26日にドイツに戻ってきていた。

その急用というのはうちのドイツ人の母親が突然亡くなったこと。89歳だった義母はとても元気で、今年の夏90歳になるお祝いをどんなふうにしようかと家族で話し合っていた矢先の突然の出来事で、12月21日には電話で90歳になったらかつて長く住んだイギリスの思い出のどこどこに行きたいなどという話も聞いていたところで、今も信じられない気持ち。
クリスマスイブに心筋梗塞で自分で救急車を呼んで運ばれ、検査したら心臓に穴が開いていて、延命治療を本人が拒否し、その結果として気を静める治療が行われ、上機嫌で安らかにでもあっという間に逝ってしまった。誰も苦しまないですんだのが不幸中の幸い。めぎたちは25日に義母の親しくしていた友人から知らせを受け取り、すぐに26日の帰国便の手配をしたのだが、亡くなったのは12月26日12時9分、めぎたちがドイツへ戻る飛行中だった。これは死後、義母の友人がめぎたちに送ってくれた去年の夏の誕生日の写真。煙草を吸い、およそ体にいいと思われることは食事も運動も含め全くしてこなかった義母だが、89年4か月、一人で元気に生き切った。

そんなわけでめぎたちは光いっぱいのポルトガル滞在の中断を余儀なくされ、どんより黒い雲の立ち込める、または冷たい雨の降る、または強風の吹き荒れる、ごくたまに弱々しいがきれいな光の注ぐドイツで年越ししたのだが、24日の午後と25日のまる一日のほんの1日半だったけど海の美しい景色を堪能できたおかげで随分と力を得て、ここまでクリスマス休暇でお休みの役所や葬儀屋やお墓の管理人やらなにやらと亀の歩みで二転三転の色々な面倒な手続き等を乗り切り、クリスマスと年末年始だからこそ忙しい司祭と貴族の義母が懇意にしていた町のお偉方との調整も乗り切り、1月5日、無事に義母の望んでいた通りのやり方でお葬式(埋葬式)を済ませることができた。
近親者が亡くなればみんな色々大変なのだろうが、今までの3人(義母のパートナー、義父、義父の奥さん)と違って今回は葬儀を行う義務を負っているのがうちのドイツ人一人なのでめぎが手伝わなければならないことも多く、知らせを受けてからのこの2週間のめぎはうちのドイツ人を支えるだけで精いっぱいで、リアルタイムにブログに書けるほどには頭の整理がつかなかった。結構大変だったので、学校がお休み中で良かったわ…
ほんの1日半だけどたくさんの写真を撮ったおかげでここまでずっとポルトガルでの休暇をブログ上だけでも続けることができ、めぎは気分的にずいぶん助けられた。でも、ポルトガルの海の景色を一緒に楽しんでくださった皆様、フェイクブログでごめんなさい…

そんなわけであまり気持ちも身体も休まらないまま冬休みが終わる。今年はあまり頑張らないようにしよう…
え?と思ったみなさま、ええ、そうなんです…ブログではずっとポルトガルの景色を載せ続けていたけど、実はめぎたち、急用ができて12月26日にドイツに戻ってきていた。
その急用というのはうちのドイツ人の母親が突然亡くなったこと。89歳だった義母はとても元気で、今年の夏90歳になるお祝いをどんなふうにしようかと家族で話し合っていた矢先の突然の出来事で、12月21日には電話で90歳になったらかつて長く住んだイギリスの思い出のどこどこに行きたいなどという話も聞いていたところで、今も信じられない気持ち。
クリスマスイブに心筋梗塞で自分で救急車を呼んで運ばれ、検査したら心臓に穴が開いていて、延命治療を本人が拒否し、その結果として気を静める治療が行われ、上機嫌で安らかにでもあっという間に逝ってしまった。誰も苦しまないですんだのが不幸中の幸い。めぎたちは25日に義母の親しくしていた友人から知らせを受け取り、すぐに26日の帰国便の手配をしたのだが、亡くなったのは12月26日12時9分、めぎたちがドイツへ戻る飛行中だった。これは死後、義母の友人がめぎたちに送ってくれた去年の夏の誕生日の写真。煙草を吸い、およそ体にいいと思われることは食事も運動も含め全くしてこなかった義母だが、89年4か月、一人で元気に生き切った。
そんなわけでめぎたちは光いっぱいのポルトガル滞在の中断を余儀なくされ、どんより黒い雲の立ち込める、または冷たい雨の降る、または強風の吹き荒れる、ごくたまに弱々しいがきれいな光の注ぐドイツで年越ししたのだが、24日の午後と25日のまる一日のほんの1日半だったけど海の美しい景色を堪能できたおかげで随分と力を得て、ここまでクリスマス休暇でお休みの役所や葬儀屋やお墓の管理人やらなにやらと亀の歩みで二転三転の色々な面倒な手続き等を乗り切り、クリスマスと年末年始だからこそ忙しい司祭と貴族の義母が懇意にしていた町のお偉方との調整も乗り切り、1月5日、無事に義母の望んでいた通りのやり方でお葬式(埋葬式)を済ませることができた。
近親者が亡くなればみんな色々大変なのだろうが、今までの3人(義母のパートナー、義父、義父の奥さん)と違って今回は葬儀を行う義務を負っているのがうちのドイツ人一人なのでめぎが手伝わなければならないことも多く、知らせを受けてからのこの2週間のめぎはうちのドイツ人を支えるだけで精いっぱいで、リアルタイムにブログに書けるほどには頭の整理がつかなかった。結構大変だったので、学校がお休み中で良かったわ…
ほんの1日半だけどたくさんの写真を撮ったおかげでここまでずっとポルトガルでの休暇をブログ上だけでも続けることができ、めぎは気分的にずいぶん助けられた。でも、ポルトガルの海の景色を一緒に楽しんでくださった皆様、フェイクブログでごめんなさい…
そんなわけであまり気持ちも身体も休まらないまま冬休みが終わる。今年はあまり頑張らないようにしよう…
教会で心を落ち着ける [義母とのお別れ 2023年12月]
ここはデュッセルドルフの旧市街近くにある聖マクシミリアン教会。めぎ家から歩いて10分ぐらいかな。めぎは12月末に一人でここを訪れた。

キリスト教ではクリスマスというのはキリストが生まれた12月25日からそれを聞きつけて東方三博士がお祝いに駆け付けた1月6日までの期間を指し、そのためめぎが行ったときはまだツリーが飾られてあった。

↑赤いアマリリスが活けてある。ドイツではクリスマスにアマリリスを飾ることが多い。そう言えば去年亡くなった義父の3人目の奥さんアンゲリカもアマリリスが好きで、クリスマスから春までの間、部屋をアマリリスの切り花でいっぱいにしていたな…義父もアンゲリカも、義母のパートナーも義母も、みんな亡くなってしまった。去年はずっと、新演出のオペラを見るにつけ、またはYouTubeで50年前とかの映像の中のめぎが知らない、でも恐らく当時有名だったはずの歌手たちの素晴らしい歌声を見つけるにつけ、この演出どう思った?当時この歌手どうだった?とオペラ歌手だったアンゲリカとおしゃべりできない淋しさを感じて過ごした。さらに今度は、クリスマスどうだった?休暇はどうだった?イギリスのこのニュースどう思った?などと長くイギリスに住んでいた義母と話すことももう叶わなくなり、こうやって、一人一人と欠けて行くんだな…となんとも言えない哀しさがこみ上げる。兄弟姉妹最後に残された義母の妹(うちのドイツ人の叔母)の哀しさも気の毒なほどだし、その次に一番年上なのはうちのドイツ人。つまり、めぎにとって次の大きな別れは(日本の家族を除けば)自分の夫なのだな、と否応にも考えさせられる。人の営みって、こんなに頑張って生きているのにつまりは死や別れに向かって努力しているということなのであって、なんて無情なのかしら。
義母はプロテスタントの教会の参事会員だったので、こんなカトリックの教会に来ても義母が喜ぶわけではないのだけど、めぎは自分の大好きなここで一人静かにこの世の無常に打ちひしがれて涙し、しばらく涙にくれることで少し落ち着くことができた。生まれた以上、どんな酷なことが起こったとしても、自分にお迎えが来るその日まで生きていくしかないのだ。
クリスマスのミサのためかな、席も多めに設置されていた。これは全部、生きている人たちのための物。ミサも綺麗な飾りもハッキリ言えば空しい営みだけど、それで今を生きる元気が出る人がいるならば、存在価値があると言えるのだろう。
キリスト教ではクリスマスというのはキリストが生まれた12月25日からそれを聞きつけて東方三博士がお祝いに駆け付けた1月6日までの期間を指し、そのためめぎが行ったときはまだツリーが飾られてあった。
↑赤いアマリリスが活けてある。ドイツではクリスマスにアマリリスを飾ることが多い。そう言えば去年亡くなった義父の3人目の奥さんアンゲリカもアマリリスが好きで、クリスマスから春までの間、部屋をアマリリスの切り花でいっぱいにしていたな…義父もアンゲリカも、義母のパートナーも義母も、みんな亡くなってしまった。去年はずっと、新演出のオペラを見るにつけ、またはYouTubeで50年前とかの映像の中のめぎが知らない、でも恐らく当時有名だったはずの歌手たちの素晴らしい歌声を見つけるにつけ、この演出どう思った?当時この歌手どうだった?とオペラ歌手だったアンゲリカとおしゃべりできない淋しさを感じて過ごした。さらに今度は、クリスマスどうだった?休暇はどうだった?イギリスのこのニュースどう思った?などと長くイギリスに住んでいた義母と話すことももう叶わなくなり、こうやって、一人一人と欠けて行くんだな…となんとも言えない哀しさがこみ上げる。兄弟姉妹最後に残された義母の妹(うちのドイツ人の叔母)の哀しさも気の毒なほどだし、その次に一番年上なのはうちのドイツ人。つまり、めぎにとって次の大きな別れは(日本の家族を除けば)自分の夫なのだな、と否応にも考えさせられる。人の営みって、こんなに頑張って生きているのにつまりは死や別れに向かって努力しているということなのであって、なんて無情なのかしら。
義母はプロテスタントの教会の参事会員だったので、こんなカトリックの教会に来ても義母が喜ぶわけではないのだけど、めぎは自分の大好きなここで一人静かにこの世の無常に打ちひしがれて涙し、しばらく涙にくれることで少し落ち着くことができた。生まれた以上、どんな酷なことが起こったとしても、自分にお迎えが来るその日まで生きていくしかないのだ。
クリスマスのミサのためかな、席も多めに設置されていた。これは全部、生きている人たちのための物。ミサも綺麗な飾りもハッキリ言えば空しい営みだけど、それで今を生きる元気が出る人がいるならば、存在価値があると言えるのだろう。
蝋燭の光 [義母とのお別れ 2023年12月]
ここはデュッセルドルフの聖マクシミリアン教会。

ちょうど蝋燭を捧げている人がいた。

一本だけでなく数本。家族の分かな。

その向こうにはクリッペ(キリスト誕生の厩の模型)。

1月6日にはここに東方の三博士も並んだのだろう。見に行っていないけど。今回のクリスマスは味わう暇もなく、らしさを感じる暇もなく終わっていったなぁ…
唯一クリスマスらしいことをしたと言えば、クリスマスまでのアドヴェントリースを作って蝋燭を4本、日曜日ごとに灯していったのだが、今、その蝋燭の使い残りを順番に食卓テーブルで使っている。蝋燭の火を消すとき、普通は吹き消すのだろうが、めぎはどうも吹き消すのが苦手でロウがテーブルの上に飛び散ってしまったりするので、義母に以前もらったこんな古い蝋燭消しを使っている。もともとはクリスマスツリーの蝋燭を消すためのものなのだが、パートナーを亡くしてツリーをもう飾らなくなった義母に数年前頼んで譲り受け、ずっと愛用していた。これがめぎにとって義母の形見になった。毎晩、蝋燭を消すときに義母のことを思い出している。
ちょうど蝋燭を捧げている人がいた。
一本だけでなく数本。家族の分かな。
その向こうにはクリッペ(キリスト誕生の厩の模型)。
1月6日にはここに東方の三博士も並んだのだろう。見に行っていないけど。今回のクリスマスは味わう暇もなく、らしさを感じる暇もなく終わっていったなぁ…
唯一クリスマスらしいことをしたと言えば、クリスマスまでのアドヴェントリースを作って蝋燭を4本、日曜日ごとに灯していったのだが、今、その蝋燭の使い残りを順番に食卓テーブルで使っている。蝋燭の火を消すとき、普通は吹き消すのだろうが、めぎはどうも吹き消すのが苦手でロウがテーブルの上に飛び散ってしまったりするので、義母に以前もらったこんな古い蝋燭消しを使っている。もともとはクリスマスツリーの蝋燭を消すためのものなのだが、パートナーを亡くしてツリーをもう飾らなくなった義母に数年前頼んで譲り受け、ずっと愛用していた。これがめぎにとって義母の形見になった。毎晩、蝋燭を消すときに義母のことを思い出している。
2023年12月29日のこと [義母とのお別れ 2023年12月]
12月29日は12年前に亡くなった義父の誕生日。生きていれば93歳になった日だ。めぎたちはいつものように、義父の好きだった赤ワインで在りし日を偲んだ。

この日の夜は、美食家だった義父を思い出しながらボンゴレスパゲティ。本当はポルトガルで売っていたムール貝を買いたかったのだけど、年末押し迫っていたからか売ってなくて。

アサリは1袋に920gで27.14ユーロで、日本円にすると4千円ぐらい。車で郊外の卸売りのところまで行けばその半額もしないのだが、うちのドイツ人にはこの頃、車でちょっと買い物に出かけるような余裕はどこにもなかった。義母の死後の様々な手続きのことで一日中何十本もの電話やメールでの打ち合わせや問い合わせに追われ、夜にはもうすっかり疲れ切っていたのだ。料理する元気もなく、食欲無いというのをなんとかテーブルに着かせ、めぎが作ったものをつまんでもらいながらあれこれ議論し合う、と言うかうちのドイツ人の話をめぎが聞いてあげる時間がとても重要だった。
色々あったのを葬儀が終わってしばらくすれば忘れてしまいそうなので、覚書として書いておく。ドイツは州によって法律が異なり、義母の住むザクセン州の法律では相続しようとしまいと配偶者・子ども(長子、第二子…)・親・兄弟…という順番で葬儀を行う義務があって、うちのドイツ人は一人で全部準備しなければならなかった。(それに対し義父の住んでいたハンブルクでは、相続人が葬儀を行う義務を持つので、相続人全員で相談できる。)この頃問題になっていたことの一つは、義母の離婚証明書がないことだった。それが無いと、配偶者を差し置いて長子のうちのドイツ人が葬儀を行う許可が役所から下りないのである。
でも、1回目の離婚のうちのドイツ人の父親との離婚証明書は無く(生前父親も母親ももうどこにあるか見つからないと言っていた)、2回目のイギリス人との離婚証明書も見つけられず(しかも後から見つけた自伝によるとイギリスでは2回も結婚してた!1回目は未亡人となり、2回目は離婚したようだ)、さてさてどうしましょ状態だったのだ。どこに問い合わせても休暇中だったり、やっと通じたと思ったらそういう名前の人の書類はここには無いと言われたり。どこにあるのよ…というか、どこで離婚したのよ…ちゃんと死ぬ前に必要な書類を用意しておいてよね、と言うか、そういう大事な書類をちゃんと取っておいてよね…と、このときばかりは、3か月以内の発行じゃないと有効じゃないという縛りが面倒だけど、日本の戸籍謄本のシステムって便利だなあと思ったわ。その人の結婚離婚の歴史がすべてそこに書いてあって、謄本一枚で解決するものね。最終的には、どうしても1月5日に葬儀を行いたい義母の友人のお偉いさんが掛け合って役所が折れてくれて、なんと家族構成(配偶関係)欄に「nicht bekannt=不明」と記された死亡証明書がぎりぎり1月4日に出され、めでたくうちのドイツ人が1月5日に葬儀を行うことが認められた。この成り行きは凄かった…とにかくいつまでも冷蔵庫代(遺体保安室のこと)をかけずに葬儀を済ませることができてよかったけど、でもお役所さん、いいのそれで?
二人でその920gのアサリを平らげるため、スパゲティは少量で。二人分で150g茹でた。めぎたち、本当に食べられなくなったわねぇ…これが歳を取るということなんだわね。でも、食欲を全く失っていたうちのドイツ人がアサリを美味しく食べられてよかったわ。
この日の夜は、美食家だった義父を思い出しながらボンゴレスパゲティ。本当はポルトガルで売っていたムール貝を買いたかったのだけど、年末押し迫っていたからか売ってなくて。
アサリは1袋に920gで27.14ユーロで、日本円にすると4千円ぐらい。車で郊外の卸売りのところまで行けばその半額もしないのだが、うちのドイツ人にはこの頃、車でちょっと買い物に出かけるような余裕はどこにもなかった。義母の死後の様々な手続きのことで一日中何十本もの電話やメールでの打ち合わせや問い合わせに追われ、夜にはもうすっかり疲れ切っていたのだ。料理する元気もなく、食欲無いというのをなんとかテーブルに着かせ、めぎが作ったものをつまんでもらいながらあれこれ議論し合う、と言うかうちのドイツ人の話をめぎが聞いてあげる時間がとても重要だった。
色々あったのを葬儀が終わってしばらくすれば忘れてしまいそうなので、覚書として書いておく。ドイツは州によって法律が異なり、義母の住むザクセン州の法律では相続しようとしまいと配偶者・子ども(長子、第二子…)・親・兄弟…という順番で葬儀を行う義務があって、うちのドイツ人は一人で全部準備しなければならなかった。(それに対し義父の住んでいたハンブルクでは、相続人が葬儀を行う義務を持つので、相続人全員で相談できる。)この頃問題になっていたことの一つは、義母の離婚証明書がないことだった。それが無いと、配偶者を差し置いて長子のうちのドイツ人が葬儀を行う許可が役所から下りないのである。
でも、1回目の離婚のうちのドイツ人の父親との離婚証明書は無く(生前父親も母親ももうどこにあるか見つからないと言っていた)、2回目のイギリス人との離婚証明書も見つけられず(しかも後から見つけた自伝によるとイギリスでは2回も結婚してた!1回目は未亡人となり、2回目は離婚したようだ)、さてさてどうしましょ状態だったのだ。どこに問い合わせても休暇中だったり、やっと通じたと思ったらそういう名前の人の書類はここには無いと言われたり。どこにあるのよ…というか、どこで離婚したのよ…ちゃんと死ぬ前に必要な書類を用意しておいてよね、と言うか、そういう大事な書類をちゃんと取っておいてよね…と、このときばかりは、3か月以内の発行じゃないと有効じゃないという縛りが面倒だけど、日本の戸籍謄本のシステムって便利だなあと思ったわ。その人の結婚離婚の歴史がすべてそこに書いてあって、謄本一枚で解決するものね。最終的には、どうしても1月5日に葬儀を行いたい義母の友人のお偉いさんが掛け合って役所が折れてくれて、なんと家族構成(配偶関係)欄に「nicht bekannt=不明」と記された死亡証明書がぎりぎり1月4日に出され、めでたくうちのドイツ人が1月5日に葬儀を行うことが認められた。この成り行きは凄かった…とにかくいつまでも冷蔵庫代(遺体保安室のこと)をかけずに葬儀を済ませることができてよかったけど、でもお役所さん、いいのそれで?
二人でその920gのアサリを平らげるため、スパゲティは少量で。二人分で150g茹でた。めぎたち、本当に食べられなくなったわねぇ…これが歳を取るということなんだわね。でも、食欲を全く失っていたうちのドイツ人がアサリを美味しく食べられてよかったわ。
2023年12月30日のこと [義母とのお別れ 2023年12月]
年末のうちのドイツ人の誕生日、ちょっとでも気分を明るくしてもらおうと、うちのドイツ人の好きな赤いチューリップを買ってきた。シーズン早過ぎで無理があったのか、こんな風にくたんとなってしまったが、赤い色が可愛かった。

↑お昼に食べたのが、街中の市場の魚介コーナーから買ってきたウナギの燻製とライ麦パン。うちのドイツ人が好きなので誕生日のお昼用にと特別に買った燻製ウナギは、脂がのってて美味しかった。飲み物はトマトジュース。
チューリップを買ったのは市場の真ん中にあるこのお店。ここの看板娘のおばあちゃん、お元気そうでなにより。

義母の死後の手続きでこの頃色々あって、同じドイツなのに(未だ)東と西の違いも大きかったし、色々埒があかないし、現地の義母の友人たちは事を急くし、義母が借りていた家の大家はあれこれ勝手なことを言ってくるし、義妹は病気で何もしないし、うちのドイツ人の肩に全てがのしかかって日々神経を使い大変なところだったので、こういう小さなこと…ああここのおばあちゃん、まだお元気なのだな、とか、赤いチューリップの色、可愛いな、といったこと…が本当にめぎたちの慰めと励ましになった。
でも、年明けにはここ、閉まってた…あのおばあちゃんが休暇を楽しんでいますように。

話は戻り、12月30日のうちのドイツ人の誕生日のディナー。ポルトガルで食べた茹でエビが美味しかったね~と言いながら、エビのガーリック焼き。頭は取られて売られていたのだが、生のを購入。食べやすいようにエビを予め半分に切って焼いている。(ポルトガル料理の本を見ながら新しくチャレンジして作る元気はめぎにもなかったので、以前作ったことのある慣れた料理ばかり続く。)

↑チューリップに取って代わった白を基調にした花束は、うちのドイツ人の叔母と従妹が誕生日祝いに届けてくれたもの。姉を失った叔母も悲しみに沈んでいるところだけど、うちのドイツ人に気遣いをしてくれて嬉しい。でも、ちょっと寂しい色合いね。ちなみにチューリップはリビングに移動した。
この日の飲み物は、ポルトガルから持ち帰った白ワイン。現地で滞在中に飲む&食べるつもりで12月24日に現地スーパーで色々購入したのだが、そのほとんどを冷蔵庫に置いてくることとなった。野菜や肉や魚や貝など、コテージの大家に連絡し、快く引き取ってもらった。ワインは持ち帰ってこうして楽しめてよかったわ。
↑お昼に食べたのが、街中の市場の魚介コーナーから買ってきたウナギの燻製とライ麦パン。うちのドイツ人が好きなので誕生日のお昼用にと特別に買った燻製ウナギは、脂がのってて美味しかった。飲み物はトマトジュース。
チューリップを買ったのは市場の真ん中にあるこのお店。ここの看板娘のおばあちゃん、お元気そうでなにより。
義母の死後の手続きでこの頃色々あって、同じドイツなのに(未だ)東と西の違いも大きかったし、色々埒があかないし、現地の義母の友人たちは事を急くし、義母が借りていた家の大家はあれこれ勝手なことを言ってくるし、義妹は病気で何もしないし、うちのドイツ人の肩に全てがのしかかって日々神経を使い大変なところだったので、こういう小さなこと…ああここのおばあちゃん、まだお元気なのだな、とか、赤いチューリップの色、可愛いな、といったこと…が本当にめぎたちの慰めと励ましになった。
でも、年明けにはここ、閉まってた…あのおばあちゃんが休暇を楽しんでいますように。
話は戻り、12月30日のうちのドイツ人の誕生日のディナー。ポルトガルで食べた茹でエビが美味しかったね~と言いながら、エビのガーリック焼き。頭は取られて売られていたのだが、生のを購入。食べやすいようにエビを予め半分に切って焼いている。(ポルトガル料理の本を見ながら新しくチャレンジして作る元気はめぎにもなかったので、以前作ったことのある慣れた料理ばかり続く。)
↑チューリップに取って代わった白を基調にした花束は、うちのドイツ人の叔母と従妹が誕生日祝いに届けてくれたもの。姉を失った叔母も悲しみに沈んでいるところだけど、うちのドイツ人に気遣いをしてくれて嬉しい。でも、ちょっと寂しい色合いね。ちなみにチューリップはリビングに移動した。
この日の飲み物は、ポルトガルから持ち帰った白ワイン。現地で滞在中に飲む&食べるつもりで12月24日に現地スーパーで色々購入したのだが、そのほとんどを冷蔵庫に置いてくることとなった。野菜や肉や魚や貝など、コテージの大家に連絡し、快く引き取ってもらった。ワインは持ち帰ってこうして楽しめてよかったわ。
大晦日とお正月 [義母とのお別れ 2023年12月]
今日はまず2023年大晦日にめぎ家が食べたもの。飲み物はRotkäppchen(訳すと「赤ずきんちゃん」)という名のドイツ東部発祥のスパークリングワイン。めぎが初めてRotkäppchenを飲んだのはかつてドイツ東部の小さな町に住む義母を訪ねた時だったので、ちょっと思い出の飲み物だ。

そして年越しそばの代わりに食べたのが、うちのドイツ人のリクエストで明太子スパゲティ。
そうそう、撮り忘れちゃったけど、今年はスペイン風にブドウを買ってきてデザートとして12粒食べた。ポルトガルでもそうなんじゃないかな、と想像して。知らないけど。夕食後から真夜中まではバイエルン国立オペラ座の新演出のオペレッタ「こうもり」を見て過ごした。どんちゃん騒ぎのオペレッタなので、新演出だろうと昔のだろうとあまり変わらないというか、まあまあって感じ。ただ、明るい軽い調子のヨハン・シュトラウスの音楽がこの頃の疲れ切っていためぎには心地よかった。年越しには周り中がバンバン大きな花火を打ち上げててバルコニーから見てても素晴らしい眺めだったのだけど、あまり気が乗らず写真も動画も撮っていない。日本風に言えばめぎ家は喪中なのだが、キリスト教にそういう考え方は無いので、めぎ家も普通に年越しを祝い、Frohes neues Jahr!(フローエス・ノイエス・ヤーア!=あけましておめでとう)とお正月を迎えた。
日本ではお正月を祝っている頃、ドイツでは元旦には何もしない。特別な料理もないし、特別な習慣もない。年越しをどんちゃん騒ぎして祝った後の疲れで、普通はみんな寝正月。2日から通常なので、ああまた仕事だなあってみんな嫌気がさしている日でもある。外は花火と乾杯の残骸で汚いし、新年改まった清々しい気など全くしない。

2023年の大晦日は日曜日だったし元旦はドイツも祝日なので役所や葬儀屋が金曜日の29日午後から1日まで締まってて、義母のお葬式についてのあれこれの問い合わせや確認や打ち合わせ等も止まり、めぎたちは束の間の静寂を謳歌した。それでも現地で色々準備をしてくれてた義母の友人たちから何度か電話が入ったけど。新聞広告をどうするかとか、合唱をさせてほしいとか、まだ足りない書類のこととか。彼ら、こんな年末年始にほかにすることないの?と思うほど葬儀の準備に熱心だったなぁ…なんというか、村のコミュニティ結束を感じたわ。ロンドンに住んでインターナショナルな空気を吸って自由を謳歌していた義母が壁崩壊後サクッと離婚して旧東ドイツの故郷に一人戻り、そこに住み続けることに最後までこだわっていた理由が本当によく分かる。西に住むと義母はただ人の一人にすぎないが、東の村では花のお貴族様としてちやほやされ、子どもの頃のお姫様気分で過ごせたのだろう。付き合いの良い義母は人気者だったようで、死後もみんな本当に一生懸命。現地にいないうちのドイツ人の代わりに色々やってくれて有難いこともあったけど、彼らの意向が最優先されて、誰が遺族なのか分からないほどだった。
確かに一人暮らしの高齢の義母を支えてくれたのは現地の周りの人たちであって我々家族ではないのだし、だから感謝の気持ちを込めて彼らの意向に沿って準備した。もともとザクセン州の法律で、お葬式は故人の希望していた通りにしなければならない決まりで(!)、義母の意向は友人たちこそがよく知っているので(葬儀屋が国葬みたいねという冗談を言ったほどの規模)、どっちみち無視はできないのだ。でも、うちのドイツ人は調整が本当に大変そうだった。喩えて言えば、北海道育ちの人が鹿児島でお葬式を行わなければならないような、そのぐらいの文化や習慣の違いがあり、それに加えて法律の違いもある。でも、何と言われても、葬式代を払うのはうちのドイツ人なのだ。
亡くなった人のネガティブなことを書くのも何だが、どうにもこうにも辛かったので、このブログ上で年の改まるタイミングでこの件に気持ちの整理をつけるためにやっぱり書いておく。葬式代としてこれを使ってね、と言われて証書のコピーまでもらっていた生命保険は、ふたを開けて見ればほかならぬ義母の手でいつのまにやら解約されてて、葬式代が全てめぎ家の持ち出しとなったことが、うちのドイツ人には衝撃が大きかった。それは、金額の問題ではなく、母親にまたしても騙されていたという事実が。
うちのドイツ人は赤ちゃんの頃からあちこちに預けられて育ち(残っている写真から推測するに20カ所を越える)、基本的に母親に育てられていないのだが、一緒に住んでいた数少ない期間のある時期、小学校低学年の頃、楽しいイースターパーティーがあるからここに行きなさい、と母親に言われてタクシーに乗せられて届けられたところには誰もいなくて、その間に義母は一人イギリスに行ってしまってそれきり帰って来ず、不思議に思ったタクシーの運転手さんが無料で出発地の家に届けてくれたおかげでうちのドイツ人は雨露をしのぎ、小さな妹と数日間食べ物もなく二人だけで家に取り残されていたのを近所の人が見つけ、離婚して別のところに住んでいた父親に引き取られたという過去を持つ。その前にも後にも、母親は大なり小なりいろんな噓をついてきた。そして、とうとうこんな最期にもまた。
聡明な義母がそのことに気がつかずに解約したはずはない。2023年秋に、遺書も新しく書き直していたのだから。お金がなくやむを得ず解約し、恥ずかしくて言えなかったのかもしれないが。でも、そういう隠したかったことも死後こうやって明るみになり、結局のところは「母は息子に一言も謝りもなく裏切って死んだ」というイメージが残ってしまう。もう亡くなった義母はそのことを恥ずかしく思ったりすることももはやないが、残された我々はその悲しい事実を乗り越えて生きていかなければならない。なんという負の遺産。我々、このことから学び、恥ずかしいことも後ろめたいことも隠さずちゃんと遺族に伝え、なあなあにすべきではないと強く思う。めぎとめぎの親はもう長いこと所帯が別であって相手の懐具合のことなどお互いに詮索してないが、故人にはもう人権も無く突然おっぴろげになるのだ。お互い迷惑をかけないように身辺をきちんとしておかないとね。
解約の事実を聞いた叔母(義母の妹)は、そんなはずはない、姉はちゃんと用意したと言ってた、どこかに別の証書があるはず、ちゃんと探したのかと言い張って、そうでなくても大変なのにそういう家族間の対応も面倒だったし、そんなこんなでもう料理もできないほどうちのドイツ人は精神的に疲れていた。で、ちょっと何かお正月らしく特別なものをと思ってめぎが元旦の夕食に料理したのは、ホタテのバター焼きとラパというちょっと菜の花に似た味の野菜のごま油炒め。ホタテは先日ご紹介した街中の市場で殻から出してあったとは言えかなり新鮮なのを購入。ラパはドイツの野菜ではなく、トルコ系の店で購入。写真はぼけちゃった。

うちのドイツ人は餅が苦手なので、お雑煮は作っていない。めぎ家の2024年のお正月はこれで終わっていった。
そして年越しそばの代わりに食べたのが、うちのドイツ人のリクエストで明太子スパゲティ。
そうそう、撮り忘れちゃったけど、今年はスペイン風にブドウを買ってきてデザートとして12粒食べた。ポルトガルでもそうなんじゃないかな、と想像して。知らないけど。夕食後から真夜中まではバイエルン国立オペラ座の新演出のオペレッタ「こうもり」を見て過ごした。どんちゃん騒ぎのオペレッタなので、新演出だろうと昔のだろうとあまり変わらないというか、まあまあって感じ。ただ、明るい軽い調子のヨハン・シュトラウスの音楽がこの頃の疲れ切っていためぎには心地よかった。年越しには周り中がバンバン大きな花火を打ち上げててバルコニーから見てても素晴らしい眺めだったのだけど、あまり気が乗らず写真も動画も撮っていない。日本風に言えばめぎ家は喪中なのだが、キリスト教にそういう考え方は無いので、めぎ家も普通に年越しを祝い、Frohes neues Jahr!(フローエス・ノイエス・ヤーア!=あけましておめでとう)とお正月を迎えた。
日本ではお正月を祝っている頃、ドイツでは元旦には何もしない。特別な料理もないし、特別な習慣もない。年越しをどんちゃん騒ぎして祝った後の疲れで、普通はみんな寝正月。2日から通常なので、ああまた仕事だなあってみんな嫌気がさしている日でもある。外は花火と乾杯の残骸で汚いし、新年改まった清々しい気など全くしない。
2023年の大晦日は日曜日だったし元旦はドイツも祝日なので役所や葬儀屋が金曜日の29日午後から1日まで締まってて、義母のお葬式についてのあれこれの問い合わせや確認や打ち合わせ等も止まり、めぎたちは束の間の静寂を謳歌した。それでも現地で色々準備をしてくれてた義母の友人たちから何度か電話が入ったけど。新聞広告をどうするかとか、合唱をさせてほしいとか、まだ足りない書類のこととか。彼ら、こんな年末年始にほかにすることないの?と思うほど葬儀の準備に熱心だったなぁ…なんというか、村のコミュニティ結束を感じたわ。ロンドンに住んでインターナショナルな空気を吸って自由を謳歌していた義母が壁崩壊後サクッと離婚して旧東ドイツの故郷に一人戻り、そこに住み続けることに最後までこだわっていた理由が本当によく分かる。西に住むと義母はただ人の一人にすぎないが、東の村では花のお貴族様としてちやほやされ、子どもの頃のお姫様気分で過ごせたのだろう。付き合いの良い義母は人気者だったようで、死後もみんな本当に一生懸命。現地にいないうちのドイツ人の代わりに色々やってくれて有難いこともあったけど、彼らの意向が最優先されて、誰が遺族なのか分からないほどだった。
確かに一人暮らしの高齢の義母を支えてくれたのは現地の周りの人たちであって我々家族ではないのだし、だから感謝の気持ちを込めて彼らの意向に沿って準備した。もともとザクセン州の法律で、お葬式は故人の希望していた通りにしなければならない決まりで(!)、義母の意向は友人たちこそがよく知っているので(葬儀屋が国葬みたいねという冗談を言ったほどの規模)、どっちみち無視はできないのだ。でも、うちのドイツ人は調整が本当に大変そうだった。喩えて言えば、北海道育ちの人が鹿児島でお葬式を行わなければならないような、そのぐらいの文化や習慣の違いがあり、それに加えて法律の違いもある。でも、何と言われても、葬式代を払うのはうちのドイツ人なのだ。
亡くなった人のネガティブなことを書くのも何だが、どうにもこうにも辛かったので、このブログ上で年の改まるタイミングでこの件に気持ちの整理をつけるためにやっぱり書いておく。葬式代としてこれを使ってね、と言われて証書のコピーまでもらっていた生命保険は、ふたを開けて見ればほかならぬ義母の手でいつのまにやら解約されてて、葬式代が全てめぎ家の持ち出しとなったことが、うちのドイツ人には衝撃が大きかった。それは、金額の問題ではなく、母親にまたしても騙されていたという事実が。
うちのドイツ人は赤ちゃんの頃からあちこちに預けられて育ち(残っている写真から推測するに20カ所を越える)、基本的に母親に育てられていないのだが、一緒に住んでいた数少ない期間のある時期、小学校低学年の頃、楽しいイースターパーティーがあるからここに行きなさい、と母親に言われてタクシーに乗せられて届けられたところには誰もいなくて、その間に義母は一人イギリスに行ってしまってそれきり帰って来ず、不思議に思ったタクシーの運転手さんが無料で出発地の家に届けてくれたおかげでうちのドイツ人は雨露をしのぎ、小さな妹と数日間食べ物もなく二人だけで家に取り残されていたのを近所の人が見つけ、離婚して別のところに住んでいた父親に引き取られたという過去を持つ。その前にも後にも、母親は大なり小なりいろんな噓をついてきた。そして、とうとうこんな最期にもまた。
聡明な義母がそのことに気がつかずに解約したはずはない。2023年秋に、遺書も新しく書き直していたのだから。お金がなくやむを得ず解約し、恥ずかしくて言えなかったのかもしれないが。でも、そういう隠したかったことも死後こうやって明るみになり、結局のところは「母は息子に一言も謝りもなく裏切って死んだ」というイメージが残ってしまう。もう亡くなった義母はそのことを恥ずかしく思ったりすることももはやないが、残された我々はその悲しい事実を乗り越えて生きていかなければならない。なんという負の遺産。我々、このことから学び、恥ずかしいことも後ろめたいことも隠さずちゃんと遺族に伝え、なあなあにすべきではないと強く思う。めぎとめぎの親はもう長いこと所帯が別であって相手の懐具合のことなどお互いに詮索してないが、故人にはもう人権も無く突然おっぴろげになるのだ。お互い迷惑をかけないように身辺をきちんとしておかないとね。
解約の事実を聞いた叔母(義母の妹)は、そんなはずはない、姉はちゃんと用意したと言ってた、どこかに別の証書があるはず、ちゃんと探したのかと言い張って、そうでなくても大変なのにそういう家族間の対応も面倒だったし、そんなこんなでもう料理もできないほどうちのドイツ人は精神的に疲れていた。で、ちょっと何かお正月らしく特別なものをと思ってめぎが元旦の夕食に料理したのは、ホタテのバター焼きとラパというちょっと菜の花に似た味の野菜のごま油炒め。ホタテは先日ご紹介した街中の市場で殻から出してあったとは言えかなり新鮮なのを購入。ラパはドイツの野菜ではなく、トルコ系の店で購入。写真はぼけちゃった。
うちのドイツ人は餅が苦手なので、お雑煮は作っていない。めぎ家の2024年のお正月はこれで終わっていった。
葬儀 [義母とのお別れ 2023年12月]
今日は義母の葬儀のお話を。
2024年になってから、葬儀までは非常に慌ただしかった。仕事始めの2日に役所に電話すると、担当者がまだ休み中だから3日以降に電話しろと言われた。3日に電話すると、その書類ではダメと言われ、予定していた5日の葬儀は絶望的となった。それが4日に現地のお偉いさんが掛け合い、お昼過ぎに急に葬儀の許可が下り、2024年1月5日、葬儀が営まれた。そんな急に決まっても、うちからそこまで10時間かかるんですけど…
立派な棺桶に入っている義母。中はどんな姿なのか、全く分からない。

日本ではお葬式の時に旅立ちの装束を着せられた遺体が棺桶に入っていて、その上が開くようになっていて、最期のお別れに顔を見たり花を入れたりすることが多いと思うが、ドイツではそれはかなり稀。病院で亡くなった場合、その日のうちにその病院に着くことができればお別れのための遺体安置室があってそこで蝋燭などを灯して静かにお別れすることができるが、その後遺体は病院の地下などにある巨大冷蔵庫に移動。冷蔵庫の引き出しから出てくる形でもいいから見たいと掛け合わない限り、2日目以降は遺体を見ることはもう叶わない。(日本のように遺体を家やしかるべき場所に運んで取り囲んでお通夜をするということもない。家に運び入れることは禁止されている。)その後、火葬の場合は直接火葬場に運ばれ遺族が立ち会うこともないまま火葬され、遺灰の入った骨壺が葬儀場に運ばれてくる。土葬の場合は、お葬式の日まで葬儀屋の冷蔵庫で安置され、当日こうして棺桶に入れて置かれる。死後2週間ほど経っているため、中の遺体を見ることは無い。骨壺の中も、棺桶の中も、本当にその人なのか、本当に入っているのか、ハッキリ言って謎。これはコロナとは関係なく、以前からずっとそうである。こちらの人は、死後の遺体はもう魂も無いし、それを見るのは亡くなった人の尊厳を損ねると感じるらしい。見たいという人は誰もいなかった。
今日の写真は全て義母の友人が撮ってくれたもの。結構な参列者がいて、びっくり。全て義母の友人知人。見えないが、写真では陰になっている2階の真下にも席があって、そこにも結構な人数が座っていた。全部で60人ほど。

葬儀は音楽で始まり、こんな風に男声コーラスや、参列者も一緒に歌う合唱や、聖歌の暗唱や、聖書の朗読などが続いた。コーラスをしたのは義母の友人たちだ。

そして、義母が特に懇意にしていた司祭が義母の希望通り葬儀を行い、非常に個人的な内容で準備した長いスピーチをしてくれた。これは、こんな風に始まった(元はドイツ語)。

クリスマスの数日前、マリー=ルイーゼ(義母の名)からクリスマスの挨拶が書かれたカードが届いた。表には彼女の刺繍の写真があった。そして、お祝いの言葉の後に、彼女はこう書いていた。「続報はお手紙で!」
彼女の訃報を受け、私はそのカードを手に取り、もう一度読み返した。連休が明けたら、彼女の様子見に電話しようと思っていたのだ。でも、手紙も電話も実現しなかった。ここにいる多くの人がそれと同じような状況であろう。交流はまだまだ続くと思っていたのに…本当に彼女はまだ彼女自身の、あなたたちの、私たちの人生の真っただ中にいたのだった。
マリー=ルイーゼは高齢でもう充分生きたと言える。彼女はそのことに自ら気づき、感謝していた。彼女は精神的にも健康で、みんながよく言っているように、最後までいろいろなことに積極的に関わり、参加していた。昨年のクリスマスの日も、彼女は小教区で仕事をしていた。それももう、手紙や電話と同じく実現しなかった。
死が突然に訪れると、私たちは自分の命のはかなさを痛感する。私の終わりがどれほど近いのか、誰にもわからない。
彼女はおそらく、自分の死期や死に際について、いつものように典型的なユーモラスな言い回しでこう語ったことだろう。「そうね、必ずしもクリスマスである必要はないわ!」そして、よくそうしていたようにこう手を挙げてこう言っただろう。「You never know!」そしてたぶん、「だから何?どうあるべきか、どうなるべきかは、主のみが知るのだから!」と続け、そして、彼女は日常会話に好んで英語の慣用句を使っていただけでなく、ザクセン方言を取り入れるのも好きだったので、「dann isses ähmde so」(dann ist es eben so =仕方がない)と付け加えて大笑いしたかもしれない。
…
これを聞いて、そこにいた誰もが在りし日の義母の声を聞き、そのジェスチャーをありありと瞼に浮かべただろうと思う。そうなのだ、そういう人だったなぁ…姿と声が蘇るようだ。司祭はこんな風に自らの友人としてのエピソードに加え、前日までうちのドイツ人や義母の友人たちにも取材してスピーチを準備してくれて、それはA4で12ページにも及んだ。最後の4分の1ぐらいはキリスト教のお話に結び付けたものだったけど、後の4分の3は義母の生まれ育ちから亡くなるまでの半生記のエピソードと彼女との思い出話だった。義母が必ずこの司祭に自分の葬儀をしてもらってほしいと願っていた理由がよく分かる。この司祭は数年前に配置替えとなり、今は義母の住んでいた小教区にはいないのだが、この日のためにわざわざ来てくれたのだ。言い換えると、特にこの人がスケジュール上可能な1月5日の葬儀を実現させるためにみんな頑張っていたのだ。
式が終わると、こうやって棺桶が運ばれて行き…

教会のすぐ横の墓地へと運ばれ、埋葬式が行われた。ここに写っている人たちは、みんな義母の知り合いや友人たち。向こうの曲がり角まで人がぎっしり。89歳の独り身のおばあさんのお葬式とは思えない凄い参列者。義母がここでどれほどみんなに愛されていたかがよく分かる。言い方を変えると、これほどみんなに囲まれて楽しく居心地がいいから、彼女は壁崩壊後すぐにロンドンで離婚して生まれ故郷の東へと帰り、そこを30年以上動かなかったのだろう。うちのドイツ人の言葉を司祭がスピーチで引用していたのだが、ここに戻った義母はまさに「水を得た魚」だった。

友人たちが順番に土をかけ、用意された花びらを投げ入れた。

そこに猫がいた。猫好きだった義母のために来たのだろう、義母が呼んだのかも、と誰もが思った。うちのドイツ人は、こうやって土を掘り起こすとネズミが来るからいたのだろう、などと現実的なことを言っていたが。

義母が懇意にしていた東の人たちは人情味が厚く、貴族の義母への礼儀も正しく、ロンドンに住んだこともあるインターナショナル性も尊敬してくれて、最後の最後まで義母に英語の個人レッスンを受けてくれていた人もいて、義母は本当に充実して楽しい老後だったようだ。うちのドイツ人にとっての問題は(そして外国人のめぎにとってはかなり居心地の悪いことだったのだが)、その人たちの多くがネオナチの人たちだったこと(12年前に亡くなったパートナーさんがそのグループのお偉いさんだったし、東部では最近ますます増えている)。でも、義母が幸せに逝けたのだから、そしてもう友人の皆さんにも会うこともないわけだから、まあもうそのことも胸のうちに収めることにしよう。
2024年になってから、葬儀までは非常に慌ただしかった。仕事始めの2日に役所に電話すると、担当者がまだ休み中だから3日以降に電話しろと言われた。3日に電話すると、その書類ではダメと言われ、予定していた5日の葬儀は絶望的となった。それが4日に現地のお偉いさんが掛け合い、お昼過ぎに急に葬儀の許可が下り、2024年1月5日、葬儀が営まれた。そんな急に決まっても、うちからそこまで10時間かかるんですけど…
立派な棺桶に入っている義母。中はどんな姿なのか、全く分からない。
日本ではお葬式の時に旅立ちの装束を着せられた遺体が棺桶に入っていて、その上が開くようになっていて、最期のお別れに顔を見たり花を入れたりすることが多いと思うが、ドイツではそれはかなり稀。病院で亡くなった場合、その日のうちにその病院に着くことができればお別れのための遺体安置室があってそこで蝋燭などを灯して静かにお別れすることができるが、その後遺体は病院の地下などにある巨大冷蔵庫に移動。冷蔵庫の引き出しから出てくる形でもいいから見たいと掛け合わない限り、2日目以降は遺体を見ることはもう叶わない。(日本のように遺体を家やしかるべき場所に運んで取り囲んでお通夜をするということもない。家に運び入れることは禁止されている。)その後、火葬の場合は直接火葬場に運ばれ遺族が立ち会うこともないまま火葬され、遺灰の入った骨壺が葬儀場に運ばれてくる。土葬の場合は、お葬式の日まで葬儀屋の冷蔵庫で安置され、当日こうして棺桶に入れて置かれる。死後2週間ほど経っているため、中の遺体を見ることは無い。骨壺の中も、棺桶の中も、本当にその人なのか、本当に入っているのか、ハッキリ言って謎。これはコロナとは関係なく、以前からずっとそうである。こちらの人は、死後の遺体はもう魂も無いし、それを見るのは亡くなった人の尊厳を損ねると感じるらしい。見たいという人は誰もいなかった。
今日の写真は全て義母の友人が撮ってくれたもの。結構な参列者がいて、びっくり。全て義母の友人知人。見えないが、写真では陰になっている2階の真下にも席があって、そこにも結構な人数が座っていた。全部で60人ほど。
葬儀は音楽で始まり、こんな風に男声コーラスや、参列者も一緒に歌う合唱や、聖歌の暗唱や、聖書の朗読などが続いた。コーラスをしたのは義母の友人たちだ。
そして、義母が特に懇意にしていた司祭が義母の希望通り葬儀を行い、非常に個人的な内容で準備した長いスピーチをしてくれた。これは、こんな風に始まった(元はドイツ語)。
クリスマスの数日前、マリー=ルイーゼ(義母の名)からクリスマスの挨拶が書かれたカードが届いた。表には彼女の刺繍の写真があった。そして、お祝いの言葉の後に、彼女はこう書いていた。「続報はお手紙で!」
彼女の訃報を受け、私はそのカードを手に取り、もう一度読み返した。連休が明けたら、彼女の様子見に電話しようと思っていたのだ。でも、手紙も電話も実現しなかった。ここにいる多くの人がそれと同じような状況であろう。交流はまだまだ続くと思っていたのに…本当に彼女はまだ彼女自身の、あなたたちの、私たちの人生の真っただ中にいたのだった。
マリー=ルイーゼは高齢でもう充分生きたと言える。彼女はそのことに自ら気づき、感謝していた。彼女は精神的にも健康で、みんながよく言っているように、最後までいろいろなことに積極的に関わり、参加していた。昨年のクリスマスの日も、彼女は小教区で仕事をしていた。それももう、手紙や電話と同じく実現しなかった。
死が突然に訪れると、私たちは自分の命のはかなさを痛感する。私の終わりがどれほど近いのか、誰にもわからない。
彼女はおそらく、自分の死期や死に際について、いつものように典型的なユーモラスな言い回しでこう語ったことだろう。「そうね、必ずしもクリスマスである必要はないわ!」そして、よくそうしていたようにこう手を挙げてこう言っただろう。「You never know!」そしてたぶん、「だから何?どうあるべきか、どうなるべきかは、主のみが知るのだから!」と続け、そして、彼女は日常会話に好んで英語の慣用句を使っていただけでなく、ザクセン方言を取り入れるのも好きだったので、「dann isses ähmde so」(dann ist es eben so =仕方がない)と付け加えて大笑いしたかもしれない。
…
これを聞いて、そこにいた誰もが在りし日の義母の声を聞き、そのジェスチャーをありありと瞼に浮かべただろうと思う。そうなのだ、そういう人だったなぁ…姿と声が蘇るようだ。司祭はこんな風に自らの友人としてのエピソードに加え、前日までうちのドイツ人や義母の友人たちにも取材してスピーチを準備してくれて、それはA4で12ページにも及んだ。最後の4分の1ぐらいはキリスト教のお話に結び付けたものだったけど、後の4分の3は義母の生まれ育ちから亡くなるまでの半生記のエピソードと彼女との思い出話だった。義母が必ずこの司祭に自分の葬儀をしてもらってほしいと願っていた理由がよく分かる。この司祭は数年前に配置替えとなり、今は義母の住んでいた小教区にはいないのだが、この日のためにわざわざ来てくれたのだ。言い換えると、特にこの人がスケジュール上可能な1月5日の葬儀を実現させるためにみんな頑張っていたのだ。
式が終わると、こうやって棺桶が運ばれて行き…
教会のすぐ横の墓地へと運ばれ、埋葬式が行われた。ここに写っている人たちは、みんな義母の知り合いや友人たち。向こうの曲がり角まで人がぎっしり。89歳の独り身のおばあさんのお葬式とは思えない凄い参列者。義母がここでどれほどみんなに愛されていたかがよく分かる。言い方を変えると、これほどみんなに囲まれて楽しく居心地がいいから、彼女は壁崩壊後すぐにロンドンで離婚して生まれ故郷の東へと帰り、そこを30年以上動かなかったのだろう。うちのドイツ人の言葉を司祭がスピーチで引用していたのだが、ここに戻った義母はまさに「水を得た魚」だった。
友人たちが順番に土をかけ、用意された花びらを投げ入れた。
そこに猫がいた。猫好きだった義母のために来たのだろう、義母が呼んだのかも、と誰もが思った。うちのドイツ人は、こうやって土を掘り起こすとネズミが来るからいたのだろう、などと現実的なことを言っていたが。
義母が懇意にしていた東の人たちは人情味が厚く、貴族の義母への礼儀も正しく、ロンドンに住んだこともあるインターナショナル性も尊敬してくれて、最後の最後まで義母に英語の個人レッスンを受けてくれていた人もいて、義母は本当に充実して楽しい老後だったようだ。うちのドイツ人にとっての問題は(そして外国人のめぎにとってはかなり居心地の悪いことだったのだが)、その人たちの多くがネオナチの人たちだったこと(12年前に亡くなったパートナーさんがそのグループのお偉いさんだったし、東部では最近ますます増えている)。でも、義母が幸せに逝けたのだから、そしてもう友人の皆さんにも会うこともないわけだから、まあもうそのことも胸のうちに収めることにしよう。
あの教会で [義母とのお別れ 2023年12月]
義母の葬儀が無事に終わった後、めぎはまた一人この教会を訪れた。めぎ家の近くにある聖マクシミリアン教会である。

光のあるところには影がある。めぎたちの輝かしい生は、いつも死と隣り合わせ。

1月2週目だったのだが、まだクリスマスツリーが飾られてあった。お花は活け変えてあるようだ。

1月6日に到着したらしい三賢者の皆さんがいた。

年末にここを訪れたときは色々と落ち着かず心が乱れていて一人ここで涙しためぎだったが、この日は晴れやかな気分だった。まだまだ色々片付けなければならないことが山積みだけど、まずは健康第一にして、ゆっくりやっていきましょ、と。

冷え込んで晴れていたおかげで、本当に綺麗な光で満ちていた。
光のあるところには影がある。めぎたちの輝かしい生は、いつも死と隣り合わせ。
1月2週目だったのだが、まだクリスマスツリーが飾られてあった。お花は活け変えてあるようだ。
1月6日に到着したらしい三賢者の皆さんがいた。
年末にここを訪れたときは色々と落ち着かず心が乱れていて一人ここで涙しためぎだったが、この日は晴れやかな気分だった。まだまだ色々片付けなければならないことが山積みだけど、まずは健康第一にして、ゆっくりやっていきましょ、と。
冷え込んで晴れていたおかげで、本当に綺麗な光で満ちていた。
手続き [義母とのお別れ 2023年12月]
今日の話は、義母の葬儀から一週間ほど経った日のこと。

めぎたちはデュッセルドルフの↑この並木通りにある公証人の事務所を訪ねていた。そこに集まったのはうちのドイツ人と彼の伯母、その娘(つまりうちのドイツ人の従妹)、そしてその息子。彼らは家族そろって義母の相続放棄をする決心をし、手続きに訪れたのだ。めぎには相続権が無いので、ただの付き添い。
相続放棄をすることにした理由はたくさんあるが、主なものを挙げると…
1.東側の義母の家には誰も縁もゆかりもなく、引き取りたい物も思い出の物も自分の物もそこには何一つない。
2.電車で片道10時間、車でも7時間、飛行機を使っても半日かかるそこへ片付けに通える人もいない。通ったところで泊まる場所はホテルになり、費用もかさむ。
3.義母の遺した銀行預金では最後の家賃(持ち家ではなく賃貸で、死後すぐに解約をしても最低3か月は払い続けなければならない)と片付け業者料、その他もろもろを払うと大いなるマイナスが生じる。
4.義母の家には12年前に亡くなった義母のパートナーの私物もまだあり、友人たちはあれが欲しいこれをもらうはずだったと色々言ってくるし、さらに大家もアルコール依存症のようで、やり取りが非常にストレス。
追記) 子どものうちのドイツ人だけでなく親族、つまり叔母もその娘もさらにその息子までも 相続放棄の手続きをしたのは、亡くなった人の子どもが相続放棄した場合、亡くなった人の親、兄弟、その子ども…という順番で相続人になるから。我々は誰も相続したくないということで一致したため、相続人になる前にみんな放棄手続きをしたのだ。(そうでないと、相続人が決まるまで誰も部屋を片付けられないから、いつまでもそのまま放置されることになってしまう。相続人になる可能性のある人が全員放棄したので、次は裁判所が遺産清算人を手配し、公共の手で片付けに入ることになる。)配偶者と子どもがいなかったら(または相続放棄したら)、親、兄弟、その兄弟がもう亡くなっていたらさらにその子供という順番で相続人になるのは日本も同じだけど、そういう経験をなさった方はいらっしゃるかしら。今後は子どもも少ないし、頻繁に起こりそうよね。
公証人とは予め電話やメールで話をしてあり、必要な書類も提出済みで、この日はただ順番に署名をしてあっという間に終わった。家族が話し合って全員一致で決めたことだから尊重するし、仕方がないし、気持ちも大いにわかるのでめぎも異存はないが、人が一人亡くなって、遺産と呼べるようなものは全くなくとも、その人が大好きで集めて大事にしていた物たちがただ家族の迷惑になり処分されてしまうのって、凄く淋しいことね。死とともに、その人の物の命も全て終わりってことね。その人の生活が終わったのだから当然だけど、本当に生活って「生活」という字の通り、生きていればこその営みで、儚いわね。
手続き終了後は、現地の裁判所が遺産処分管理人を公に指定し、その人が遺書などを参考にしつつ全て片付けを公の業者に依頼することになる。ほとんどの物はたぶんキリスト教団体が引き取って役立ててくれるのだろうけど、遺書にはいくつかの物品が誰だれにと指定されていたので、それは相続放棄と関係なくいつか手渡されるらしい。つまりは貴族の紋章とか祖先の古い写真とかは、めぎ家にいつかやってくるようだ。でも、引き取ると決めたら、運送代は自分持ちだとか。金目のものは何一つないので、税金はかからない模様。それに、もし何らかの手違いなりでそれらの物がめぎ家にやって来なかったとしても、めぎ家は別に困らない。勿体ないなあと思うものは何一つないのだ。うちのドイツ人は貴族ではないし、写真は既に全部スキャンしてあるし、めぎにはもうあの蝋燭消しやエルツ山地地方のクリスマスとイースターの飾りの工芸品が多々あるし。義母の思い出はめぎたちの胸の中にある。
その後、めぎたちはみんなで近くのレストランへ行った。ワインで乾杯。

家族で義母の思い出や葬儀のことなどをあれこれ話す。これが我々にとって、日本でいうお通夜のような時間になった。義母を憎んで相続放棄したのではなく、みんな、自分の生活の中でできることとできないことがあるということなのだ。放棄したおかげで、かえってみんなの中に良い思い出だけが蘇る。とても和やかな時間だった。
場所的には高そうなところなのだがいろんな料理が良心的な値段で提供されているレストランで、めぎはここで、Chicken Karaage Bowlというのを食べた。唐揚げが3つとライスと枝豆の豆と乾燥トマトとサラダが盛られてあった。ライスはニンジンの下で、サラダの一部というような位置づけ。これ、思った以上に美味しかった。こういうエキゾチックなもの、目の前の叔母は全く受け付けないが、義母は生きていたら興味津々につまんでくれたんじゃないかな。かつてめぎ家に一週間ほど滞在した時、めぎの友人が遊びに来て餃子を作ってくれたのだけど、凄く喜んで食べていたから。

ここでうちのドイツ人が言った。いつもなら「ここに母が参加できていないのが可哀想だね」と言うところなんだけどね…と。そうね、もう参加しようにも義母はいない。叔母がめぎ家と一緒に何かをすると特に凄く羨ましがっていた義母はもういなくて、我々ももう後ろめたい気分にならずにすむ。生きている者同士、最期の瞬間までこうして楽しんでいけたらいいね。
めぎたちはデュッセルドルフの↑この並木通りにある公証人の事務所を訪ねていた。そこに集まったのはうちのドイツ人と彼の伯母、その娘(つまりうちのドイツ人の従妹)、そしてその息子。彼らは家族そろって義母の相続放棄をする決心をし、手続きに訪れたのだ。めぎには相続権が無いので、ただの付き添い。
相続放棄をすることにした理由はたくさんあるが、主なものを挙げると…
1.東側の義母の家には誰も縁もゆかりもなく、引き取りたい物も思い出の物も自分の物もそこには何一つない。
2.電車で片道10時間、車でも7時間、飛行機を使っても半日かかるそこへ片付けに通える人もいない。通ったところで泊まる場所はホテルになり、費用もかさむ。
3.義母の遺した銀行預金では最後の家賃(持ち家ではなく賃貸で、死後すぐに解約をしても最低3か月は払い続けなければならない)と片付け業者料、その他もろもろを払うと大いなるマイナスが生じる。
4.義母の家には12年前に亡くなった義母のパートナーの私物もまだあり、友人たちはあれが欲しいこれをもらうはずだったと色々言ってくるし、さらに大家もアルコール依存症のようで、やり取りが非常にストレス。
追記) 子どものうちのドイツ人だけでなく親族、つまり叔母もその娘もさらにその息子までも 相続放棄の手続きをしたのは、亡くなった人の子どもが相続放棄した場合、亡くなった人の親、兄弟、その子ども…という順番で相続人になるから。我々は誰も相続したくないということで一致したため、相続人になる前にみんな放棄手続きをしたのだ。(そうでないと、相続人が決まるまで誰も部屋を片付けられないから、いつまでもそのまま放置されることになってしまう。相続人になる可能性のある人が全員放棄したので、次は裁判所が遺産清算人を手配し、公共の手で片付けに入ることになる。)配偶者と子どもがいなかったら(または相続放棄したら)、親、兄弟、その兄弟がもう亡くなっていたらさらにその子供という順番で相続人になるのは日本も同じだけど、そういう経験をなさった方はいらっしゃるかしら。今後は子どもも少ないし、頻繁に起こりそうよね。
公証人とは予め電話やメールで話をしてあり、必要な書類も提出済みで、この日はただ順番に署名をしてあっという間に終わった。家族が話し合って全員一致で決めたことだから尊重するし、仕方がないし、気持ちも大いにわかるのでめぎも異存はないが、人が一人亡くなって、遺産と呼べるようなものは全くなくとも、その人が大好きで集めて大事にしていた物たちがただ家族の迷惑になり処分されてしまうのって、凄く淋しいことね。死とともに、その人の物の命も全て終わりってことね。その人の生活が終わったのだから当然だけど、本当に生活って「生活」という字の通り、生きていればこその営みで、儚いわね。
手続き終了後は、現地の裁判所が遺産処分管理人を公に指定し、その人が遺書などを参考にしつつ全て片付けを公の業者に依頼することになる。ほとんどの物はたぶんキリスト教団体が引き取って役立ててくれるのだろうけど、遺書にはいくつかの物品が誰だれにと指定されていたので、それは相続放棄と関係なくいつか手渡されるらしい。つまりは貴族の紋章とか祖先の古い写真とかは、めぎ家にいつかやってくるようだ。でも、引き取ると決めたら、運送代は自分持ちだとか。金目のものは何一つないので、税金はかからない模様。それに、もし何らかの手違いなりでそれらの物がめぎ家にやって来なかったとしても、めぎ家は別に困らない。勿体ないなあと思うものは何一つないのだ。うちのドイツ人は貴族ではないし、写真は既に全部スキャンしてあるし、めぎにはもうあの蝋燭消しやエルツ山地地方のクリスマスとイースターの飾りの工芸品が多々あるし。義母の思い出はめぎたちの胸の中にある。
その後、めぎたちはみんなで近くのレストランへ行った。ワインで乾杯。
家族で義母の思い出や葬儀のことなどをあれこれ話す。これが我々にとって、日本でいうお通夜のような時間になった。義母を憎んで相続放棄したのではなく、みんな、自分の生活の中でできることとできないことがあるということなのだ。放棄したおかげで、かえってみんなの中に良い思い出だけが蘇る。とても和やかな時間だった。
場所的には高そうなところなのだがいろんな料理が良心的な値段で提供されているレストランで、めぎはここで、Chicken Karaage Bowlというのを食べた。唐揚げが3つとライスと枝豆の豆と乾燥トマトとサラダが盛られてあった。ライスはニンジンの下で、サラダの一部というような位置づけ。これ、思った以上に美味しかった。こういうエキゾチックなもの、目の前の叔母は全く受け付けないが、義母は生きていたら興味津々につまんでくれたんじゃないかな。かつてめぎ家に一週間ほど滞在した時、めぎの友人が遊びに来て餃子を作ってくれたのだけど、凄く喜んで食べていたから。
ここでうちのドイツ人が言った。いつもなら「ここに母が参加できていないのが可哀想だね」と言うところなんだけどね…と。そうね、もう参加しようにも義母はいない。叔母がめぎ家と一緒に何かをすると特に凄く羨ましがっていた義母はもういなくて、我々ももう後ろめたい気分にならずにすむ。生きている者同士、最期の瞬間までこうして楽しんでいけたらいいね。
夕方の光と友人の日本食 [義母とのお別れ 2023年12月]
今日の写真は雪が降る前のこと。
まず、先日書いた相続放棄の手続きの日のこと。公証人との約束の時間が午後遅く、夕方にめぎ家近くの公園の中を通った。

夕方にここに来ることは普段無いので、たまたま晴れててラッキー。

氷はまだうっすら。

手続きの話のところでコメントにドイツでは親族も相続するのかというのがあったので補足すると、ドイツでも普通遺産相続するのは配偶者と子供だけ。日本とおなじである。でも、配偶者が既になく、子どももいなかったり相続放棄したりしたら、次には親、兄弟、その子ども…と相続が回っていく。それは日本もドイツも同じ。で、叔母も従妹もその息子も、うちのドイツ人が相続放棄すると相続が回ってくるので、みんな一斉に放棄の手続きをしてしまったのだ。そうすれば、それ以上の親族はいないので、法定相続人が全くいないということで裁判所が片付けなどの手配にすぐに入れるからだ。相続人になってから6週間は放棄する権利を持つので、順番に放棄するのを待っていたら最長で18週間もかかり、その間家の片付けもされないまま放置される。放棄しためぎ家はもういくらかかろうと関係ないが、18週間も家を借りたままにしておくと家賃もかかるし、ずっとそのままだと想像するとこちらもいつまでも片付かない気分が続くし、片付ける義務を負う町(?もしかしたら国?)に費用もかさんで申し訳ないという気持ちがあって、みんなで早く手続したというわけである。
その後雪が降ってさらに冷え込んで氷が広がった話は昨日書いた通り。

さて、今から10日ぐらい前のこの頃、ちょうどめぎのブログでは義母の亡くなってからの話を順番に書いていて、それを読んだめぎの友人たちが相次いでメールをくれたり電話をくれたりしていた。みんな色々心配してくれて、あれこれ優しい言葉を送ってくれて嬉しかったな…みなさまにもブログに温かいコメントやたくさんのniceを頂き、本当に勇気づけられた。この場をもって心から御礼申し上げたい。
その中の一人、デュッセルドルフに住んでいる友人が、ある日突然たくさんの料理を届けてくれた。一日ではとても食べきれないほどたくさんで、めぎ家は一週間ほどかけて有難く少しずつ頂いた。まず、お寿司各種とほうれん草のピーナッツ和え(だと思う)。これはまず初日の夕飯とし、食べきれなかった分は次の日のお昼になった。お味噌汁も持ってきてくれたのだが、それは写し忘れ。

それから大量に作って持ってきてくれた餃子。かつて義母が遊びに来たときに餃子を作ってくれた友人で、その時のことを思い出して作ってくれたのだ。夕食2回分になった。

焼いたのがめぎなのであまり綺麗ではないが、中身はちょっと大きめにニンニクがごろんと入っていて、強烈に美味しかった。ゴマとかネギとかの入ったたれも作ってきてくれて、至れり尽くせりで感動的に美味しかった。

最後にもう一品、春雨サラダかな…ああこれぞ日本の味だね~とうちのドイツ人が懐かしい顔をしながら食べていた。たぶん中華味と言った方が近いと思うのだが、でもうちのドイツ人がこういう味付けを食べたことがあるのは日本なのだ。(中国では食べたことがないという。)ものすごく喜んで味わっていた。

以前も書いたように、この頃うちのドイツ人はあまり食欲がなかったし、めぎも疲れてて料理するのが大変だったので、これには本当に助けられた。二人で感動しながら久々に食べることを楽しんだ。持つべきものは友人なんだなぁ…彼女の方は、かつて自分の方がめぎたちにお世話になったから、と言ってくれたが、めぎよりずっと若いとはいえ今は小学生の子どももいて仕事もしてて、自分の家の家事も料理もあるのにこんなにたくさん作ってわざわざ出かけてめぎ家までもって来てくれるというのは、本当に手間がかかったことだろう。ありがとう。涙が出るほど嬉しかったよ。
まず、先日書いた相続放棄の手続きの日のこと。公証人との約束の時間が午後遅く、夕方にめぎ家近くの公園の中を通った。
夕方にここに来ることは普段無いので、たまたま晴れててラッキー。
氷はまだうっすら。
手続きの話のところでコメントにドイツでは親族も相続するのかというのがあったので補足すると、ドイツでも普通遺産相続するのは配偶者と子供だけ。日本とおなじである。でも、配偶者が既になく、子どももいなかったり相続放棄したりしたら、次には親、兄弟、その子ども…と相続が回っていく。それは日本もドイツも同じ。で、叔母も従妹もその息子も、うちのドイツ人が相続放棄すると相続が回ってくるので、みんな一斉に放棄の手続きをしてしまったのだ。そうすれば、それ以上の親族はいないので、法定相続人が全くいないということで裁判所が片付けなどの手配にすぐに入れるからだ。相続人になってから6週間は放棄する権利を持つので、順番に放棄するのを待っていたら最長で18週間もかかり、その間家の片付けもされないまま放置される。放棄しためぎ家はもういくらかかろうと関係ないが、18週間も家を借りたままにしておくと家賃もかかるし、ずっとそのままだと想像するとこちらもいつまでも片付かない気分が続くし、片付ける義務を負う町(?もしかしたら国?)に費用もかさんで申し訳ないという気持ちがあって、みんなで早く手続したというわけである。
その後雪が降ってさらに冷え込んで氷が広がった話は昨日書いた通り。
さて、今から10日ぐらい前のこの頃、ちょうどめぎのブログでは義母の亡くなってからの話を順番に書いていて、それを読んだめぎの友人たちが相次いでメールをくれたり電話をくれたりしていた。みんな色々心配してくれて、あれこれ優しい言葉を送ってくれて嬉しかったな…みなさまにもブログに温かいコメントやたくさんのniceを頂き、本当に勇気づけられた。この場をもって心から御礼申し上げたい。
その中の一人、デュッセルドルフに住んでいる友人が、ある日突然たくさんの料理を届けてくれた。一日ではとても食べきれないほどたくさんで、めぎ家は一週間ほどかけて有難く少しずつ頂いた。まず、お寿司各種とほうれん草のピーナッツ和え(だと思う)。これはまず初日の夕飯とし、食べきれなかった分は次の日のお昼になった。お味噌汁も持ってきてくれたのだが、それは写し忘れ。
それから大量に作って持ってきてくれた餃子。かつて義母が遊びに来たときに餃子を作ってくれた友人で、その時のことを思い出して作ってくれたのだ。夕食2回分になった。
焼いたのがめぎなのであまり綺麗ではないが、中身はちょっと大きめにニンニクがごろんと入っていて、強烈に美味しかった。ゴマとかネギとかの入ったたれも作ってきてくれて、至れり尽くせりで感動的に美味しかった。
最後にもう一品、春雨サラダかな…ああこれぞ日本の味だね~とうちのドイツ人が懐かしい顔をしながら食べていた。たぶん中華味と言った方が近いと思うのだが、でもうちのドイツ人がこういう味付けを食べたことがあるのは日本なのだ。(中国では食べたことがないという。)ものすごく喜んで味わっていた。
以前も書いたように、この頃うちのドイツ人はあまり食欲がなかったし、めぎも疲れてて料理するのが大変だったので、これには本当に助けられた。二人で感動しながら久々に食べることを楽しんだ。持つべきものは友人なんだなぁ…彼女の方は、かつて自分の方がめぎたちにお世話になったから、と言ってくれたが、めぎよりずっと若いとはいえ今は小学生の子どももいて仕事もしてて、自分の家の家事も料理もあるのにこんなにたくさん作ってわざわざ出かけてめぎ家までもって来てくれるというのは、本当に手間がかかったことだろう。ありがとう。涙が出るほど嬉しかったよ。
義母がうちにやってきた [義母とのお別れ 2023年12月]
6月14日の午後、めぎ家に荷物が届けられた。

と言ってもバナナを箱買いしたわけではない。うちのドイツ人の母親の形見がやってきたのだ。

色々あってうちのドイツ人は遺産放棄の手続きをしたのだが、義母は遺書で家財一式をうちのドイツ人に譲ると記していた。するとそれは遺産の中から除外されて全てうちのドイツ人のものになるのだそうだ。とは言っても義母のものすべてを引き取ったところでどこにも置けないし全部は要らないので、裁判所から指定されて遺産の整理をしている人に、一部のみ引き取りたい、後は処分して欲しいと言ったのだが、一部でも引き取るなら家の中のものを全部処分する義務も負うという。そんなことを言われてもうちのドイツ人は腰を痛めてて行けないし、業者に全部片づけてもらうには莫大な費用がかかる。それで、残念だけどその家財一式も相続放棄。しかし、本当に家族のもの…つまりご先祖様の写真とか、貴族の義母の紋章とか、曽祖母の時代から伝わるというマイセンの食器とかだけ引き取ることとし、めぎとうちのドイツ人が個人的に欲しい家具もほんの少々選んで、遺産整理人から購入する形で送ってもらったのだ。で、物には全部で1000ユーロ、送料に600ユーロ掛かった。お金を払って形見を引き取るというのってどうよという気もするが、決心してお支払いし、送ってもらったのだ。
そんなわけで、額入り紋章とか、うちのドイツ人の祖母の子どもの頃の写真の大きく引き伸ばしたのとかもやってきた。

今日の写真の2枚目の左手前に写っている丸いテーブルと、この薬箱のようなのと…

このカトラリー入れがうちのドイツ人が望んだ家具で…

この椅子がめぎが望んだ家具。

マイセンの食器もやってきた。

と言っても二本線の入っている難あり商品が多いし、マイセンじゃないのもなぜか送られてきて、これに1000ユーロってどうなの、ぼったくるつもりでしょう(何しろ最初は2000ユーロと言われたのだ)と再び思ったが、同時に、良くも悪くもホント義母がやってきたという気がした。骨の髄まで東の人だった義母、うちのドイツ人とは趣味が全然合わないが、こういう可愛いのが好きだったのよね。見ていると、niiiiiedlich!(きゃわゆーーーい!とでも訳す感じかな)と言っている彼女の声が聞こえてくるようだ。

カトラリーも袋に入ってやってきた。一部は銀食器でエレガント。これあってもどうしようもないよなあというのも多々あったけど。

そしてご先祖様の昔の写真。これが張られていた義母の家の壁を思い出す。うちでどこにこれを飾るか、まだ決めていない。

亡くなってから半年、やっと終わった。人が亡くなるのって、遺族にとってホントしんどいことね。
と言ってもバナナを箱買いしたわけではない。うちのドイツ人の母親の形見がやってきたのだ。
色々あってうちのドイツ人は遺産放棄の手続きをしたのだが、義母は遺書で家財一式をうちのドイツ人に譲ると記していた。するとそれは遺産の中から除外されて全てうちのドイツ人のものになるのだそうだ。とは言っても義母のものすべてを引き取ったところでどこにも置けないし全部は要らないので、裁判所から指定されて遺産の整理をしている人に、一部のみ引き取りたい、後は処分して欲しいと言ったのだが、一部でも引き取るなら家の中のものを全部処分する義務も負うという。そんなことを言われてもうちのドイツ人は腰を痛めてて行けないし、業者に全部片づけてもらうには莫大な費用がかかる。それで、残念だけどその家財一式も相続放棄。しかし、本当に家族のもの…つまりご先祖様の写真とか、貴族の義母の紋章とか、曽祖母の時代から伝わるというマイセンの食器とかだけ引き取ることとし、めぎとうちのドイツ人が個人的に欲しい家具もほんの少々選んで、遺産整理人から購入する形で送ってもらったのだ。で、物には全部で1000ユーロ、送料に600ユーロ掛かった。お金を払って形見を引き取るというのってどうよという気もするが、決心してお支払いし、送ってもらったのだ。
そんなわけで、額入り紋章とか、うちのドイツ人の祖母の子どもの頃の写真の大きく引き伸ばしたのとかもやってきた。
今日の写真の2枚目の左手前に写っている丸いテーブルと、この薬箱のようなのと…
このカトラリー入れがうちのドイツ人が望んだ家具で…
この椅子がめぎが望んだ家具。
マイセンの食器もやってきた。
と言っても二本線の入っている難あり商品が多いし、マイセンじゃないのもなぜか送られてきて、これに1000ユーロってどうなの、ぼったくるつもりでしょう(何しろ最初は2000ユーロと言われたのだ)と再び思ったが、同時に、良くも悪くもホント義母がやってきたという気がした。骨の髄まで東の人だった義母、うちのドイツ人とは趣味が全然合わないが、こういう可愛いのが好きだったのよね。見ていると、niiiiiedlich!(きゃわゆーーーい!とでも訳す感じかな)と言っている彼女の声が聞こえてくるようだ。
カトラリーも袋に入ってやってきた。一部は銀食器でエレガント。これあってもどうしようもないよなあというのも多々あったけど。
そしてご先祖様の昔の写真。これが張られていた義母の家の壁を思い出す。うちでどこにこれを飾るか、まだ決めていない。
亡くなってから半年、やっと終わった。人が亡くなるのって、遺族にとってホントしんどいことね。
義母がうちに溶け込んでいく [義母とのお別れ 2023年12月]
先日うちに届けられた義母の形見のテーブル。ソファーの横に設置した。

もともとはこのガラスの下に義母と彼女のパートナーが集めた各地の紋章の付いたスプーンが並んでいたのだが、それは要らないと言って買い取らず(なぜ形見を「買い取る」こととなったかについては以前の記事を参照されたい)、このテーブルのみ受け取った。そして、うちのドイツ人は自分が並べたかったものをここに。それは、めぎたちがボルネオの離島の海岸で集めてきた貝殻など。

これを離島で集めたときの楽しい思い出が蘇る。テーブルは一気にめぎたちのものとなった。

テーブルのそばにはまだ行き場を決められずにいる写真とか紋章とかを立てかけてある。これらは主張が強いのでリビングには飾らないというところまでは決めたのだが、じゃあどこに…?

それからマイセン。

これらは裏のマークを確認したところ恐らく1924年~30年代のもの。つまり18世紀とか19世紀のものではないし、下の写真のカップとソーサーは合ってないし、二本線の入っているものも多いので二束三文だが、義母が祖父母の代からあるものだと言って大事にしていた物だ。彼女にとってそれは彼女の存在価値とほぼ同じぐらいのものだったのだけど、彼女のリビングの飾り戸棚に恭しく鎮座していたものが今はこうしてめぎ家のここにこんな風に重ねられておいてあるなんて、ホントこの世は無情だわね。

奥にあるストロベリーボウル(はちみつ漬けにしたイチゴをスパークリングワインで割る飲み物の入れ物)のセットと同様、いつか一回ぐらいは使ってみようかな。毎日使ってもいいのだが、うちのドイツ人が花柄を好まないのだ。今度、お客さんの時にでもぜひ使ってみよう。

こうして場所を見つけて置いてみると、うちのドイツ人が「もうすっかりインテグレートしたな」と言っていたが、ホントにすっかり馴染んでもう存在を忘れつつある。

それからキッチン。数か月前に新しく購入したアンティークの戸棚が入り口の左右に並んでいるのだが、義母の形見の棚をここの左に設置。

これである。

この戸棚はカトラリー入れなのだが、中のカトラリーの銀食器はかなり変色していたので、うちのドイツ人がそれを少しずつクリーニング中。

綺麗になったカトラリーたち。

その中に、義母のイニシャルが彫られているものを発見。真ん中のvはドイツ語のvonの略で「~の」という意味で、つまりどこどこ家の何々さん、という意味の名前となり、貴族であることを意味する。

vがなければこれ、たまたまめぎの旧姓のイニシャルと同じである。それに気がつき、ふふっと思わず笑ってしまった。
もともとはこのガラスの下に義母と彼女のパートナーが集めた各地の紋章の付いたスプーンが並んでいたのだが、それは要らないと言って買い取らず(なぜ形見を「買い取る」こととなったかについては以前の記事を参照されたい)、このテーブルのみ受け取った。そして、うちのドイツ人は自分が並べたかったものをここに。それは、めぎたちがボルネオの離島の海岸で集めてきた貝殻など。
これを離島で集めたときの楽しい思い出が蘇る。テーブルは一気にめぎたちのものとなった。
テーブルのそばにはまだ行き場を決められずにいる写真とか紋章とかを立てかけてある。これらは主張が強いのでリビングには飾らないというところまでは決めたのだが、じゃあどこに…?
それからマイセン。
これらは裏のマークを確認したところ恐らく1924年~30年代のもの。つまり18世紀とか19世紀のものではないし、下の写真のカップとソーサーは合ってないし、二本線の入っているものも多いので二束三文だが、義母が祖父母の代からあるものだと言って大事にしていた物だ。彼女にとってそれは彼女の存在価値とほぼ同じぐらいのものだったのだけど、彼女のリビングの飾り戸棚に恭しく鎮座していたものが今はこうしてめぎ家のここにこんな風に重ねられておいてあるなんて、ホントこの世は無情だわね。
奥にあるストロベリーボウル(はちみつ漬けにしたイチゴをスパークリングワインで割る飲み物の入れ物)のセットと同様、いつか一回ぐらいは使ってみようかな。毎日使ってもいいのだが、うちのドイツ人が花柄を好まないのだ。今度、お客さんの時にでもぜひ使ってみよう。
こうして場所を見つけて置いてみると、うちのドイツ人が「もうすっかりインテグレートしたな」と言っていたが、ホントにすっかり馴染んでもう存在を忘れつつある。
それからキッチン。数か月前に新しく購入したアンティークの戸棚が入り口の左右に並んでいるのだが、義母の形見の棚をここの左に設置。
これである。
この戸棚はカトラリー入れなのだが、中のカトラリーの銀食器はかなり変色していたので、うちのドイツ人がそれを少しずつクリーニング中。
綺麗になったカトラリーたち。
その中に、義母のイニシャルが彫られているものを発見。真ん中のvはドイツ語のvonの略で「~の」という意味で、つまりどこどこ家の何々さん、という意味の名前となり、貴族であることを意味する。
vがなければこれ、たまたまめぎの旧姓のイニシャルと同じである。それに気がつき、ふふっと思わず笑ってしまった。