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先生の家での朝 [2023年夏 日本]

今日は今年(2023年)夏の日本でのお話を。めぎの小学校時代の担任の先生を訪ねた話の続き。

まるで旅館に泊まったかのようなおもてなしを受けて、地下(と言っても家が斜面に立っているから地下と呼ばれているだけで、窓もある)の客間に泊まらせていただいた先生の家の朝。
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こんな床の間もあるし(映り込みが眩しくて、写真としてはまるでなってないけど)…
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こんな書き物机や火鉢もある。数日ここに籠って小説を書く、論文を書く、なんていうのが似合いそうな雰囲気ね。
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時間なかったけど、朝のお風呂もきっと気持ちよかっただろうなぁ…
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本当に高級旅館の如く至れり尽くせりだった。
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身支度を整えて、上へ。
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お庭を上から眺める。
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さて、めぎが寝ているうちに1階のリビングのような場所では朝食の支度が進んでいた。奥様はいったいいつ寝たんでしょ…先生も起きて前の晩に食べきれなかったお手製の燻製のベーコンなどを焼いていた。
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朝食、とても美味しかった。
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それから、前の日の晩に夕食を頂いた2階の音楽視聴室へ移動。食後に出されたヨーグルトには、庭で採れたフルーツで作った自家製ジャムが3種類。キウイとハスカップとあともう一つは何だったっけ…ああ忘れてしまったわ…
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忘れたと言えばこの机の木材の名前。日本からうちのドイツ人に毎晩今日は何したと写真を送っていたのだが、ここの家から送った日にはすぐにそのテーブルの木材は何かと聞かれたので、先生に尋ねたのだ。それで、うちのドイツ人にFichteだとよ送ってあるのだが、それは聞いた木の名前のドイツ語訳を送ったのだけど、今Fichteと見ても日本名が分からない。ネットを見ればトウヒだとすぐに出てくるが、「トウヒ」と聞いた気はしないし、トウヒの仲間の名前を見ても、あれれどれだったかな…アカマツだったのか、それともエゾマツだったのかなぁ。アカマツだとRotkieferと出てくるので、Fichteを送るはずはないしなぁ。やっぱりトウヒだったんだろうか…
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ホント、ちゃんと書いておかないとだめだなぁ。日本語もすぐに忘れてしまう。
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ただ、このときに聞いたお話はよく覚えている。この木材、先生が若い頃に木材屋さんで見つけて手に入れてきて、でも大きくて家の中に入らず、物置だったかに入れて、いつの日かテーブルとして日の目を見る日のために自分でやすり掛けしていたのだそう。ところが、後年になって家を改装した機会に中に設置するつもりでテーブルにするよう発注したら、磨いていたのは裏側だと言われたんだって。先生からはそういうコントのような話もよく出てくる。先生が磨いたというその裏側も写真を撮っておいた。
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そして、このテーブルの足の部分がとても素敵。ホント、拘りが凄いなぁ。デザインを考えた人も、それを実現した人も凄いなぁ。
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それからちょっとして、この機会にめぎに会いたいという方が訪ねてきた。奥様の姪御さんで、かつてめぎと一緒にヤマハのジュニアオリジナルコンサートで作曲してコンサートに出ていたという方。めぎは8歳ぐらいから15歳まで、学校よりヤマハの記憶の方が強いほどその活動に没頭し、ピアノを弾くだけでなく作曲して演奏するという経験、それもオーケストラと共演するという経験をし、札幌から東京やら浜松やら合歓の郷と言うヤマハの当時のリゾートやらさらにイギリスや(西)ドイツにまでコンサートに出に行ったのだが、思うところあって音楽の道に進むのをキッパリと辞めた。で、もうすっかり記憶の彼方だったその当時のことを、その方の名前とともに突然思い出した。その方は音楽の道に進み、今はピアノとエレクトーンの先生をしていらっしゃるという。1時間ほどその当時のことや近況などを色々とお話。かつて入り浸っていた中島公園のヤマハセンターも今は無くなってしまったそうで、本当にその当時のことって全て終わったんだなぁと今更ながら実感。
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付け足して言えば、めぎが今、音楽が多少なりとも理解できてうちのドイツ人と議論できるのは、そのヤマハの教育と経験の賜物である。当時教わったことは今も忘れないし、当時分かっていなかったこともその経験があるからこそ今理解できるし、大きなコンサート前の高揚感とか舞台裏とか楽屋のニオイとか、支えているスタッフのこととか、子どもながらに、否、子どもだったからこそ骨の髄にまで染みついているのだ。それは、アルバイトとは言え子役の頃から学生時代まで10年以上もオペラ座の公演に出ていたうちのドイツ人の経験と比べるとずっととるに足らないものだが、阿吽で通じるものがあるのは確かだろう。その道に進まなかったという点も含めてね。

そして、実は、この小学校の担任の先生と言うのは、そのめぎのヤマハの活動に一役買った方なのだ。ヤマハで何かに選ばれて、それが何だったかもう覚えていないのだが(小さな支部コンサートだったのか、重要なレッスンだったのか)、学校の運動会と重なり、さてどうするとなったところ母がこの先生に「休ませてください」と話しに行ったのだ。先生はその時のことをよく覚えている。運動会を休むって、あなたいったいどういう…と思い、新米だった先生としては何と判断してよいかもとっさに分からず困ったそうだが、母の熱意をひしひしと感じ、これはきっとそうするのが正しいのだと判断し、許可したのだという。めぎはその後高校1年ぐらいまで何度も学校を休んだり早退したりしたのだが、その最初のきっかけとなったのがこの先生で、母は今もその点について感謝しているし、先生にとっても忘れられないエピソードの一つとなっているようだった。

思い出話は尽きないが、この日は仙台から実家へ妹が来ることになっていたので、それまでに帰宅する約束。お暇する時間となった。
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この先生がいなかったら今のめぎは無いと言っても過言ではないほど、たくさんの影響を受けた先生。本当は恩返しすべきところ、結局今回もお世話になりっぱなし。こんな素晴らしい経験をさせてくださり、感謝の言葉もない。めぎの拙いことばでは書ききれないし、このブログに書き切れることでもないし、ひょっとするとめぎには先生の思いが全部は分かり切れていないのではないかという危惧もある。感じたことを少しずつ咀嚼し、消化できたことから少しずつ、めぎはめぎの生徒に伝えていくべきなのだろう。どうぞお元気で、またいつかお会いできたらいいなと願っている。
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