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音楽とのこの一年 [小さな出来事]

やっとおめかしできためぎ家のツリー。
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今日はツリーの写真を見ながら(似たような写真の羅列になるけど)、めぎの今年の音楽体験の総まとめ(YouTubeの貼り付け多し、そして記事はとても長い)。
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まずはつい最近の話から。冬休みに入ってから、バッハのクリスマスオラトリオを聞いた(見た)。クリスマスオラトリオは6曲からなるのだが、1~3曲目と4~6曲目の2つに分けて、MDRというドイツ中部の放送局がクリスマスに2日間にかけて放送したもの。2018年にライプチヒのトーマス教会で行われたライブで、合唱が少年合唱団で声がめぎ好みであるのと、それ以外のソロの大人の声も非常によかったので、YouTubeのを貼り付けておく…と言ってもなぜか1日目は見つからず、2日目だけだけど、雰囲気だけでも。日本からでも見られるかな…?



↑ライプチヒのトーマス教会というのはバッハが音楽監督だったところで、この指揮者、バッハの後輩ってことよね…調べてみたら、今年(2021年)6月に引退したみたい。演奏の速さがちょっと早すぎるのだが、それは、教会が寒いからかも…以前めぎも教会でクリスマスオラトリオのコンサートを聞いたことがあるが、とにかく寒くて、津々と冷えて、我慢大会というか厳罰を受けているような気にもなったものだが、その時の演奏も超特急だった記憶がある。
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さて、演奏の速さが早すぎると言えばクルレンツィス。めぎは今も尚、この冬休みも、この夏のクルレンツィスのモーツァルトを繰り返し聞き続けている。うちのドイツ人も、クルレンツィスではないがモーツァルトのオペラを聞き続けている。今年は1月から夏の音楽祭に向けて予習のつもりでドン・ジョヴァンニを見始め、それ以来一年間めぎ家は本当にモーツァルト漬けになったというか、まあ時々ベートーベンを聞いたりショスタコーヴィチやプロコフィエフを聞いたりもしたが、結局はまたモーツァルトに戻ってくるという日々を過ごした。それだけこの夏のオペラが衝撃的だったのだ。



クルレンツィスについては、ザルツブルク音楽祭当時も賛否両論真っ二つで、酷評もすさまじかったのだが、だからこそ話題性があり、というか話題性があるからこそ酷評もあるわけで、今年を代表する上演作品になったと言っても過言ではない。やっぱり年末にも2021年のハイライトとしてまた記事になっていた。ドイツ語のこの記事が、的を得ていると思う。よかったら、DeepL翻訳とかで訳して読んでみてほしいと思う(クルレンツィスの名前すらきちんと翻訳されないが、それでも大意は伝わると思う)。
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クルレンツィスと言えばすぐに「速い」という言葉が出てくるが、実際は世間よりゆっくりの部分もあるし、オープンな心で聞けば、ほ~こういう解釈なのね、と頷ける場合が多い。とにかくモーツァルトを「優しく優雅な」音楽から「厳格な」「過激な」「根本的な」音楽へと変えた演奏で、めぎ的に最も衝撃的だった交響曲40番は、もう何十回も繰り返し聞いた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、超有名でもう聞きたくもなかったこの曲をまるで初めて聞いたかのような衝撃だったのだ。でも、残念ながらその映像が見つからない。ドイツで早々に放送されたのをめぎがビデオに録ってあるのを皆さんに公開したいぐらい面白いのだが、たぶんコピーライトでダメだろう。いつか日本で放送されればいいなと願っている。これを放送せずにどうすると思うほどだ。
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ドン・ジョヴァンニの方は、1月16日のNHKプレミアムシアターで放送されるようなので、もし上のYouTubeを見ることができなかったら、また、日本語字幕付きで見たかったら、ぜひお勧めする。クルレンツィスの演奏はもちろん、カステルッチの演出が斬新で、1幕目はこれどういう意味?と謎解きで忙しく(時に露骨すぎるほど真実を顕わにしていて唸らせられ)、2幕目は色と光と影が美しく、そして最後にドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちるシーンでびっくり(NHKがそこをどうするのかめぎは興味津々)。
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ザルツブルク音楽祭の後も随分長いこと何度も同じものを繰り返して見ていたのだが、その後同じモーツァルトの「後宮からの誘拐」を些細なきっかけで見始め、これまたドン・ジョヴァンニと同様、古い演出から見始め、ストーリーを理解したうえでいくつかのアリアをみっちり聴き比べし、その後斬新なものを見てみる、という手順を踏んだ。
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そんな古くもないが、これが多分結構有名なバージョンではないかと思う。日本でも対訳付きで売られているようだし。1988年ロンドンでの公演で、指揮はショルティ。



アリアの聞き比べは、例えば、↑この映像の1時間42分ぐらいのところからのテノールの歌。この歌、歌うのとても難しい。こんなのいったい今時誰がうまく歌えるの?と思う。1988年のこの歌手、悪くない。でも、感動するほどでもない。で、あれこれ探してみた。まず、めぎの好きなヨナス・カウフマンを試したが…



カウフマンの声はめぎの意見ではこのオペラとは全く合わなく、イメージが全然違ってガッカリ。こりゃ駄目だ…こういうイタリアオペラみたいな声じゃなくて、もっと繊細なのが良いんだよな~といろいろ探していたら、凄いのを見つけた。



↑この中国人、うまい。俺、すっげーだろカッコいいだろ的オーラはともかく、歌は伊達じゃない。良いよあなたはそうやってかっこつけてても、許してあげるよ歌うまいから、と言ってしまいそうだ。オーケストラのテンポと合わなくてどちらも自分のテンポを譲りたくないという感じが時折伝わってくるけど、とにかく歌は凄いな~でも、やっぱり心を震わせるような感動はないんだよな…とさらに探したら、こんな古いのがあった。1966年のだ。



今のところ、このFritz Wunderlich(フリッツ・ヴンダーリッヒ)のがめぎ的に最高である。55年間も前のが一番だなんて、その後の歌手さんたち、頑張って~と思ってしまう…で、このテノールの曲をまあまあうまく歌っている歌い手さんの出ているので、もっと新しい演出のを探して、2006年のザルツブルク音楽祭のに至った。それが、このまま見たら意味が分からない読み替え作品なのだが、登場人物の心理面をうまく表現してるしアイディアが面白くて結構楽しく最後まで見続けた。これは1幕目。



しかし、2幕目の下の30分35秒から始まる同じアリアを見てみると、せっかく歌手がうまく歌っているのに背景でいろんなものが動き過ぎ、しかもバタバタと音がして、気が散ってしまうのだ。それって、この歌手に失礼よね、と思う…この演出をした人は、このオペラの筋から離れて新たなセリフもいっぱい作りだしていて、それはそれで面白い部分が多々あったのだが、音楽に関しては全く分かってないというか、ただのバックミュージックぐらいにしか捉えていないのではと思う。演出をオペラ専門家ではなく演劇系の人に頼むのはもちろんいいけど、オペラとして上演する以上は、やっぱり聞かせどころの歌の邪魔になるような演出は慎んでほしいものだ…



それで分かったのだ。話は戻るが、なぜ、この夏のドン・ジョヴァンニのカステルッチとクルレンツィスがあんなに良いと感じたのか。カステルッチはたくさんのものを上から舞台に落として大きな音を立てていたが(それを批判されてもいたが)、歌手の見せ場であるアリアの最中にドンドンバタバタという音を立てたりしないのだ。それどころか、相手役を舞台袖に引っ込ませることさえあり、歌に聴衆を惹きつけ集中させることができていた。舞台上で誰かが同時に演技しているときは、歌詞やストーリーの解釈としてスローモーション風に動いていて、音を立てない。それが本当によかった。音楽を分かった上で演出してるんだなという気がした。モーツァルトの場合は音楽が全てを物語っているのだから、演技の方はそれを補足するか解釈するようなものでなければ、音楽に負けてしまうか邪魔になるだけなのだ。そこをこのカステルッチはよく心得ていたと思う。
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クルレンツィスの演奏も、彼はエゴの塊で自分のアピールのために演奏すると酷評されているが、彼は歌手をいじめるような速い演奏は決してしない。歌手が気持ちよく、そして最も美しく歌えるように、歌手に寄り添って演奏しているのだ。たぶんリハーサルで、こういう風に歌えるか、この速さで行けるか、という要求はいっぱいして、出来るまで練習するとか、もっといいテンポや歌い方はないかと探り続けるとかしているのだろうし、だからこそ、自分の思い通りになる歌手を揃えて上演しているのだろうと思うが、本番では自分の勝手で好きなように演奏することは一切なく、歌手を援助するかのような指揮をしているように見受けられる。エゴの塊とか、ついてくる人たちだけを率いて自分の道を突っ走る教祖みたいに見えつつ、この人、歌手たちにとっては、そして多分ムジカエテルナ(オケ)の人たちにとっても、凄く良い人なんじゃない?それに気が付いたのが、めぎの今年の大きな発見であった。
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モーツァルトを壊す気か、とまで言われたクルレンツィスだが、モーツァルトの解釈について、バッハと比べたこの記事が、うんうんそうそう、と思う。バッハとモーツァルトの違い、うん、ホント、そう。よかったらぜひDeepL翻訳で。この記事の方が、クルレンツィスについての記事より翻訳がかなりまともで分かりやすい。それにしてもDeepL翻訳って凄い性能ね。そのうち、通訳も翻訳も要らなくなるのかな…いや、指揮者だってAIができるようになるのだろうし、そう考えればオーケストラの演奏だってそうだし、そもそもオーケストラだってすべてデジタルで演奏できるようになっちゃうのだろうし、音楽界の将来はいったい…と考えていけば、反対に人間が演奏することの意味がすぐに明らかになる。そう、人間それぞれ、様々な解釈があって当然なのだ。正解はない。だから、クルレンツィスもアリであり、それが好きな人も嫌いな人もいて、それで良いではないか。聖子ちゃんも明菜ちゃんも、どちらもそれぞれの真実なのだから。
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1963年のフリッツ・ヴンダーリッヒの「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオの歌を見つけた。指揮はカラヤン、演奏はウィーン・’フィルで、ゆっくりとねちっこくロマン派的な解釈の演奏。歌は素晴らしいけど、めぎはこのモーツァルトの演奏は好きじゃない。でも、好きな人にはこれが正解のはず。



で、もう一度この映像の中の、同じ個所を聞いてみる。2時間19分55秒のところから。カラヤンと比べて早い。でも、これは必要な速さであると思わないだろうか。ムジカエテルナの演奏は小気味よい。それでいてアクセントも効いている。何度聞いても新たな発見があって、ちっとも退屈しない。そしてこの歌手はうまい、フリッツ・ヴンダーリッヒに引けを取らない。めぎは本当に凄いものをライブで見たのだなと思う。



そういう意味で、音楽体験としてはとても幸せな一年だった。うちのドイツ人と一緒に見聞きして感動を分かち合い、大いに議論した一年という意味でも、とても幸せな一年だった。
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