SSブログ
未分類 ブログトップ

感謝祭の飾り

広場の市場での小さな収穫感謝祭に飾られていたメインの飾りはこれ。


下の方にあるのは穀物の刈り取った穂である。
これがたぶん小麦(Weizen,ヴァイツェン)。


でもこれも小麦っぽくて私には判断がつかない。


これは見るからに上の二つと異なる。穂が長いので、ライ麦(Roggen,ロゲン)かまたは大麦(Gerste,ゲルステ)だろうと思う。私はライ麦だと思うのだけど、確信はない。


ちなみにビールの材料になるのはGerste(大麦)を発芽させた麦芽、ドイツ語でMalz(マルツ)、すなわちモルトである。

穀物とはドイツ語でGetreide(ゲトライデ)。日本だと穀物と言えばお米と麦ととうもろこしと・・・そばや稗、粟なども穀物だが、その穂を見て区別がつく人はどのくらいいるのだろう。
私は典型的な都会っ子なので(出身・育ちは100万都市札幌)、稲と麦の穂の違いも定かではなかった。

ちょっと長いが、主だった穀物のドイツ語とその写真が見られるサイトはここ↓

http://images.google.com/imgres?imgurl=http://www.phys.uni-paderborn.de/~stern/grains/schau/HordeumvulgareL./Gerste.jpg&imgrefurl=http://www.phys.uni-paderborn.de/~stern/grains/&h=600&w=379&sz=109&hl=ja&start=2&tbnid=r3Qzo2mygHF2FM:&tbnh=135&tbnw=85&prev=/images%3Fq%3Dgerste%26svnum%3D10%26hl%3Dja%26lr%3D

話は戻り、この収穫祭の飾り、近づいてよく見ると、野菜や果物などがぶら下がっていて面白い。


飾りの決まった形があるのかどうか調べてみたが、特に決まりは無いようだ。教会に飾れば十字架付だし、地面に丸く平たく飾ったり、穀物の穂で大きな像を作ったり、色々である。

市場のお店の一つ、チーズ屋さんと人々の様子。小さな広場なので、そんなに混んでなくて近所の人たちしか来ないところが私は気に入っている。ゆっくり買いものできるし、お店の人と顔なじみになって楽しいからである。


nice!(2)  コメント(3) 
共通テーマ:地域

やってみました

MOBLOGってなに?と思って試してみました。


nice!(4)  コメント(10) 
共通テーマ:moblog

降伏の日に思うこと

ここはオーストリアとドイツの国境の町、ブラウナウ。正式にはブラウナウ・アム・インといい、イン川のほとりのブラウナウという意味である。場所はザルツブルクから北へ60㎞ほど。オーストリアの小さな可愛い町。
a1.jpg


しかし、この小さな町には住民が消したくても消せないところがある。それはこの黄色い建物、アドルフ・ヒトラーの生家。生まれたのは1889年のこと。
a2.jpg


この町にはヒトラーの生家を示す看板も標識もない。地図にも出てないし、グーグルマップで見ても生家とは書かれていない。Hと書かれた黄色いのはバス停で、人々はまるでこの建物が存在しないかのように気にもとめずバス停に並び、路肩の駐車場に車を駐める。この建物にも、建物の前にあるこの石にも、ヒトラーの名前は全く書かれていない。ただ、平和と自由と民主主義への支持と、二度とファシズムが何百万人もの人々を殺すことがないようにという祈りが刻まれているだけだ。
a3.jpg


今日は日本降伏の日。終戦記念日という表現は日本でしか通用せず、世界では日本降伏の日と呼ばれている日。同じく敗戦したドイツの降伏の日は5月だが、ドイツでは正直に降伏の日と呼ばれている。現実をちゃんと正確な言葉で表現するところから何事も始まるような気がするのだが、文化の差と言えばそうかも知れない。しかし、世界中からこの日がどういう風に表現されているかも、やっぱり知っておくべきではと感じる。

戦後70年目の降伏の日に際し、以前書いた記事のリンクを貼り付けておく。めぎの思いは特にコメント欄にしたためてあるが、その記事を書いた頃とずいぶん様相の変わってきている日本に、改めて思いを強くしている。言いたいことは、ヒトラーのしたことは、ナチスのしたことは、確かにとんでもないことで、それには弁解の余地もないのだが、同じようなことは世界中のどの国にも起こり得ることで、しかも既に多くの国々が別のやり方でほぼ同じようなことをやっているということと、それはつまり日本だってアメリカだって似たり寄ったりだということである。ドイツだけが特異な訳ではない。

大きな違いは、ドイツはこの過ちを世界中に認めて償っているということだ。もしかしたらそういう意味ではドイツは日本やアメリカより潔いとも言えるかも知れない。なにしろ、戦後70年目の今年、94歳の老人がナチスの戦犯として有罪判決を受けたのだ。94歳!もう70年前のことなのに・・・その人は、アウシュヴィッツでユダヤ人虐殺に使われる毒ガスと知りつつ注文を扱い、移送者の誘導をしていたのだという。ナチスの命令に従わないなんてことが考えられなかった当時、心ならずも仕方なくやったとも言えそうなのに・・・94歳にもなって、未だその罪を免れないとは。日本やアメリカで当時軍隊の命令で空襲したり一般住民を殺したりした人たちが、70年後の今になって罪に問われると想像してみれば、その徹底さが分かるだろうか。その当時、だれが命令に背けたというのか、と恩赦されるのが一般的だろう。そうやって徹底的に罪を追求することで、ドイツは再び尊厳を勝ち取り、ヨーロッパ諸国から赦され、受け入れられてきたのだ。

とは言え、そんな努力をしているドイツなのに、オーストリアの人々は未だドイツを悪く言う。ドイツは大きくて強くて威圧的で、本音を言えば二度と関わりたくない、オーストリアはちっちゃくなっちゃったけど解放されて癒されたのだ、などと高らかに言う。国の大きさや強さを口にするのは、ハプスブルクがかつてはドイツの比ではないほど強大だったのに、今やオーストリアが本当に小国になってしまったことへの悔しさの裏返しかも知れない。が、同時に、どんなに心を込めて償い続けても、相手の心が本当に癒えるのには長い長い時間がかかるというか、癒えることなどないのかも知れないとも思う。しかし、いずれにせよ過ちを認めなければ関係改善はあり得ない。方や長いことハプスブルクの領地だったイタリアのチロル地方では、オーストリアにとうとう勝利したソルフェリーノの戦いの1859年という年が歴史上なにより大事だとかで、未だにその地方ではドイツ語を話す人々とイタリア語を話す人々との間に多少のわだかまりが残っているのだとか。ところ変わればオーストリアがとんでもなく強大で悪者だという訳だ。しかしそのわだかまりもようやく若い世代で溶けつつあるという。それがこの70年のヨーロッパの努力の成果である。ヨーロッパはそこら中にそれほどの複雑なわだかまりを抱えつつEUをまとめたのだから、ホント凄いな・・・内部にどれほどの葛藤があることか。しかし、だれもがそれを乗り越える努力をしているのだ。本音では憎みながら。

そういえばその話を聞きながら思いだしたのが、あのサウンドオブミュージックのトラップ一家。映画ではアルプスを越えてスイスへ亡命することになっているが、本当にスイスへ向かったとしたらそう容易には国境を越えられなかったことだろう。本当のトラップ一家はオーストリアの北イタリア支配のおかげでイタリアのトリエステの市民権を持っていて、オーストリアから汽車でイタリアのチロルへ逃げたのだとか。そこからフランスへ、そしてイギリスへ、そしてアメリカへと渡ったのだが、それが実現できたのはオーストリアがかつて北イタリアを治めていたからに他ならない。さらについでに言えば、本当のトラップさんはオーストリア・ファシストで、ナチスとの政権闘争に敗れたから亡命せざるを得なかったというのが現実で、もしその頃ナチスではなくオーストリア・ファシズムがオーストリアの政権を取っていたら、世界の歴史は全く異なっていたかも知れない。少なくともあのロマンチックなサウンドオブミュージックには、全く描かれていない黒い裏がたくさんあるのだ。ドイツやオーストリアの人があの映画を全く見ないのは、アメリカが都合よく脚色した虚構だからである。作り事として割り切ってあの映画を見れば、美しく切なく感動的な映画なのだけど、当事者にはそうは割り切れないものがあるのだろう。

ヒトラーの生家の前の石は、マウトハウゼン強制収容所から運んだらしい。生まれ育った辺りにも強制収容所を作ったのね。
a4.jpg


ヒトラーはブラウナウで生まれ、主にリンツで育ったオーストリア人。オーストリアにはスラヴ系やらハンガリー系やらたくさんの民族がいて、その中でヒトラーはドイツ民族系だったそうだが、そもそもドイツ系は90%以上だというし、モーツァルトだって自分自身をドイツ人と呼んでいたほどだから、今の国境でものを考えてオーストリア人とかドイツ人と呼ぶのはたぶん正しくないのだろうと思う・・・が、とにかく生まれはオーストリア・ハンガリー帝国人で、1932年にドイツ国籍を取得したのだとか。そして、何をどう説明しようとも、どうにも変えようがないのが、ヒトラーがここで生まれたという事実。ブラウナウの人々は、その事実をずっとずっと背負って生きていかなければならない。

この建物は現在空き家になっていて、取り壊すこともできなければ、維持するためにどう利用していくかも決まっていない。そんな話がこちらに載っている。ちなみにこの建物はヒトラーの側近の一人だったマルティン・ボアマンが当時購入し、その名残が入り口の上のここに残っている。言わば、この建物がヒトラーにまつわるものだと分かる証拠は、このマルティン・ボアマンのMBという文字のみである。
a5.jpg


ヒトラーがここに生まれたのは単なる偶然だ。それと同様に偶然この町に生まれた罪のない人々にとって、この残酷な歴史と向き合うのって、本当に辛いことだろうな。そのことには触れたくない、それは単なる偶然で、今の自分たちにはなんの責任もないし、ここに生家があるという事実はできれば消してしまいたい・・・というのが本音だろう。しかし、事実は決して消えないし、それによる憎悪も決してなくならない。それは、偶然日本に生まれためぎの置かれている立場とも重なる。

撮影: D600 + 24-70mm(F2.8)
nice!(50)  コメント(7) 
未分類 ブログトップ