SSブログ

僕は君の… [小さな出来事]

今日はまず、スーパーのレジで見つけた水仙を。スマホ撮影。
20220212_103342_001.JPG


↑注釈を加えると、まずドイツでは水仙を春先に切り花として飾るのだが、こんな風に10本ぐらいの束で売られる。確認し忘れたが、10本で1ユーロもせず、79セントとか、そのぐらい(約100円)。それから、ドイツのスーパーのレジはこんな風にベルトコンベヤー状態になっていて、手前で客の方が籠または台車から出してこのコンベヤーの上にのせ、お会計を済ませたら(と言うか、済ませつつ)カバンや持ってきた袋の中に入れるか、自分で再び籠または台車に入れ直す、というやり方。これが何年ここに住んでも慌ただしくてめんどくさいのだが、日本のような籠から籠へレジの人が移していくというやり方はドイツには全く無く、そういう風に便利に効率よくしようというアイディアさえ無いようだ。

それからもう一枚、土曜日に買いに行ったパン屋でのこの一枚を。これもスマホ撮影。
20220219_105058_001.JPG


↑ショーウィンドウの手前にチョコレートケーキやアップルパイなどがあるが、このようにドイツではケーキも普通パン屋で売られている。土曜日の11時近くに行ったからか、行列ができていた。コロナ以降「良くなった」と思うのは、店の中に入れる人数が限られているため、それ以上の人は行列を作って外に並び、中から誰かが出てきたら次の人が入っていくシステムになったこと。つまり、中でわんさかとひしめき合って、数人いる売り子さんたちの接客のタイミングと誰の次に自分がこの店に入り誰が自分より後に入ったかをしっかりチェックし、自分の方が早く来たから次は自分の番だ、と他の客と戦わなくても済むようになった。コロナが過ぎてもこのシステムが残ってくれたらいいなあと思う。

さて、今日はこの2枚で写真はおしまい。と言うのは、書きたいのは全く別の、この映画のことだから。これはドイツ語の予告編。



ここから先はめぎの思索の記録。映画の紹介ではないので、こういう思索が好きな方のみどうぞ。

めぎは映画を全く見ない。テレビでも全く見ない。と言うのは、映画にそれほど興味が無いというのもあるが、めぎにとって映画は暇つぶしにはならず、時間食いになってしまうからだ。映画の何かがめぎの心にヒットすると、そのストーリーやテーマのことをとことん考えてしまい、考え尽くすまで何度も何度も100回ぐらい繰り返して見続けてしまい、仕事はしなければならないから睡眠時間を削らなければならなくなり、普通に生活するのもしんどくなる。だから映画は(ついでに言うとドラマも小説も)基本的に常に避けているのだが、今回は先週の水曜日の晩、冒頭の5分程度についてぜひめぎの感想を聞きたい、と言ってうちのドイツ人が見せたがったので、まあ冒頭の5分なら、その次の日は嵐で休校になったし、とつきあったのだ。そしたらもう、続きを見ずにはいられなくなり、見たらもう、何回も何回も見て聞いて台詞を確認して演技を確認してこの映画が伝えようとしているものを繰り返し考えずにはいられなくなり、さらにはこの映画が伝えようと意図していたかは分からないがめぎなりにどんどん考えをめぐらさずにはいられなくなり、ここ数日は夕食を食べながらうちのドイツ人とめぎの考えについて議論し、食べた後は自分の部屋に籠って一人夜中の2時ごろまで繰り返し繰り返し見て考えるというループに嵌ってしまった…ドイツ語でどうしても聞き取れない単語ももちろんあり、うちのドイツ人が難聴者用の字幕付きのをダウンロードしてくれて、それからまたいくつかの場面で言い回しやら単語やらを確認しまくり、さらにループに嵌っていった…これはその最初の5分間。



↑ドイツ語なので英語の字幕付きで見たい方はこちらをどうぞ。残念ながら5分ではなく冒頭の3分だけだけど。



タイトルはIch bin dein Mensch(イッヒ・ビン・ダイン・メンシュ)で、そのドイツ語のタイトルがものすごくいい。直訳すると、「僕は君の人間」になる。日本では「アイム・ユア・マン恋人はアンドロイド」という名に訳され、たぶんその英語から「私はあなたの男です」と訳されたりしているが、それも意味の一部ではあるが、マンはこの場合まずヒューマンの意味。でも、どっちにも(さらにそれ以外の意味にも)取れて絶妙なのが、このMenschと言う言葉。副題の「恋人はアンドロイド」は、めぎの意見では全くもって余計だと思う。この映画は決して、恋人とどうなるか、というラブロマンスではない。まあ、そう思って見てもそこそこ楽しめる内容ではあるが、そう期待するとほとんど何も起こらず淡々とし過ぎていてつまらない映画だとがっかりしてしまうだろう。この映画は、自分は人間として他の人間(またはアンドロイド)と密接に相対した際にどうあるのか、ということを突き詰めていくような内容である。自分や恋人がどうあるべきか、ではなく、自分がどうあるのか、である。または、対話とは何か、とも言えるかな。

下の映像は映画全部。字幕なしのドイツ語オリジナル。ドイツ語の分かる方は是非これを。ちなみにめぎが見たのは下のYouTubeではなくこちらから。どっちにしても、日本で見られるのかな…ちなみに、貼り付けたYouTubeに出ている男性は、主人公の元カレ。どうしてこれを表紙にしたのかしらねえ…



主人公の女性は、40代半ばの独身で彼氏もいない楔形文字の研究者と言う設定で、大学の同僚に頼まれて、理想のパートナーとして製造されたアンドロイドが将来人権を持って結婚したりパスポートを支給されたりできるか、3週間テストしてレポートを書くというプロジェクトを引き受ける。つまりこの映画の中の世界は今よりちょっと進んでいて、既にAIのアンドロイドがほぼ人間のような姿をし、人間のように食べたり飲んだりもでき、人間のような自然な声で話し、人間とほぼ同じようにふるまえて、それが世界でも既に認知されているということを前提としている。このアンドロイドは凄い。最初こそ、たくさんのデータからはじき出した口説き決まり文句を口にするが、あっという間にAIが主人公の中年女性研究者の趣味嗜好を学び、話す言葉も内容も行動も表情も変わっていく。普通の人間が相手なら自分の思い通りにいかないことが多々起こるわけだが、アンドロイドは全てのやり取りを通して一瞬一瞬理想的なパートナーへと変容していき、不合理や矛盾さえも学習してその匙加減ができるようになり、無意識の希望にまで応えられるようになり、これを繰り返せばいつかは決して間違いを起こさない完璧なパートナーとなるであろう。しかしそれは、機械が「私」をどんどん取り込み、私のMenschlichkeit(人間性、人格)の鏡となっていくという過程であって、そういう意味で、Ich bin dein Menschは「僕は君の人間性」と訳した方が正確だ。映画でもそこのところに主人公が気づき、アンドロイドを結婚相手にすることは法律上許してはいけない、という報告書を最後に書くわけだが、でも、めぎ自身のことを考えてみれば、最初こそ自分の好みに全く合わない人とのお付き合いは御免被って、ある程度趣味に合う人を選ぶとは言え、それはある程度自分に合ったアンドロイドが予め製造されるのと同じと言えば同じだし、そこから先も、自分が全く変わらないなんてことはあり得ず、相手の好みに合わせて話のネタや言葉遣いや服装やら何やらを変えて行くことなんて当然今までに多々あったわけだし、うちのドイツ人と一緒にいたからこそ自分の考え方や好みがドイツ化したことも多々あるわけで、つまり自分だってアンドロイドのように失敗を繰り返しつつ相手に合わせて変容していくのであり、映画を見れば見るほど、人間とアンドロイドの差ってどこよ、と考え込んでしまうわけだ。

もちろんめぎには脳やら内臓やら神経やら血や肉やらがあり、無意識やら意識やらがあり、まず自分があって次に相手があるわけで、プログラミングにより相手の理想的パートナーになるという目標のためにのみ存在するアンドロイドとは全く異なる存在である。においもしなければ生きてもいないし死にもしないアンドロイドは、人間ではなく全く異質の存在であるというのも映画で明らかだ。アンドロイド自身もそこをわきまえている。冒頭の5分間で彼がハングアップしてしまうことからも、主人公のみならずこちら見る者も彼をロボットだと認識し、そういう目で映画を見続けていくことができる。しかし、めぎの「考える」という行動だって、つきつめれば脳内の電気信号の集合体なわけだし、そう思えばアンドロイドとどこに差があるのだ…?アンドロイドのなんという絶妙の受け応え、なんという相手のためだけを想う行動、しかも相手の無意識の希望さえも察知してやってのけるその性能の高さ…思えば、今のスマホだって、既にこちらの趣味嗜好をすべて把握してどこかに信号を送って億万の情報と瞬時にマッチングし、的確に近い情報を送ってくる。それが人間の形になっただけで、アンドロイドはもうそんなに未来の物でもあり得ない空想でもない。しゃべりもしないぬいぐるみとか自分の車とかを愛して話しかけたりすることを想えば、人がアンドロイドを愛せないとは言い切れない。

これはアカデミー賞出品に際しての、アンドロイド役の俳優とこの映画の監督の女性へのインタビュー。



日本語字幕の予告を見たが、うーん、これで本当に伝わるかな…翻訳って限界があるなあ…



短いシーン別にも、日本字幕付きのがいくつかあった。



↑上の日本語訳で「1秒で」と言っているところ、ドイツ語ではそんな言葉は全く無い。英訳はそれに忠実だった。この日本語訳、どうしてこうしたのかな、と思うところがたくさんある。



しかも、意訳とかの問題ではなく間違ってるよ?と思う箇所がいくつかあるが、どれもこのまま載せておく。下の場面では、日本語だけで読んでもこれじゃ意味が通らない。うーむ、これ、映画館でもこの字幕なのかな…



同じシーンを英訳で。



予告には色々と何を受賞したとか何に出品したとか書かれているが、失礼ながら女優も俳優も、どちらもそれらしくて好演技であるが、称賛するほどではない。映画的にも、このシーンはちょっと唐突で変じゃない?このシーンは別の方法で表現した方がいいんじゃない?などと素人のめぎでさえ思うところがある。万人受けする内容でもなく、ハリウッド的なカタルシスや感動ストーリーを期待したら、なにこれ?となるだろう。この映画は何がいいって、上に書いたようにとにかくテーマが面白いのだ。そして、極めてドイツ的で、淡々と深層心理学的な内容をそれと気付かせないさりげなさで示していく。アンドロイドの動きや話し方は非常にうまくて、見ていて然も有りなんと思える。ちなみにこのアンドロイド役の人はイギリス人で、映画では素晴らしく素敵でチャーミングなイギリス訛りのドイツ語を話す。これはドイツ語と英語の両方でアンドロイド役の俳優が映画の紹介をしている映像。



アンドロイドやAIを扱った映画は既にごまんとあるのだろうが、めぎは見ていない。めぎがこういうテーマで思い出すのは、もうすっかり昔の映画となった「2001年宇宙の旅」である。あの感情を持つHALとは違って、このアンドロイドは自分がロボットだということをわきまえていて、人間に嫉妬したりすることもない。主人公の最高の理想的パートナーとして存在しているのに、元カレに嫉妬することさえない。つまり、そういう意味で自我が無い。しかし、自我って?たぶん、プログラムさえすればアンドロイドが自我を持つかのようにふるまうことも可能ではと思う…主人公はアンドロイドにロボットらしからぬ反応をさせようとし、アンドロイドの限界を確かめつつ人間性を引き出そうとする。そして、それがかなり成功するのだ…その先には、学習しきったアンドロイドが嫉妬も覚え、感情を持つことも可能ではないか…?それもプログラムだとは言え、そこまで行けばめぎの脳内の信号と同じなのだと考えたら…?

この映画は最後に結末を示さない。それが非常にいい。このあと、どうなったのだろう…と自分が理解した内容からあれこれと思いを巡らせて、考えることを楽しめる。アンドロイドがここまで学習してあってこう考えることができたら、この後こう行動するだろう、などと。例えば、アンドロイドは、希望が満たされない方がかえってその愛への渇望が高まる、とちゃんと理解して、このあと主人公にキスをしない、とも考えられるし、アンドロイドは主人公の無意識を主人公以上に理解し、彼女を本物の愛へと導くために、敢えてキスして自分(アンドロイド)は偽物の愛なのだと気付かせ、工場に返品させるのではないか、とも考えられる…そして、見るたびにめぎの想像は変わっていく。アンドロイドの未来はどうなるのか、それとともに生きる人間はどうなるのか、どこまでがプログラムの範疇で、どこからがAIだけの範疇になるのか、あるところまでたどり着いたAIに人格があると言えるのか、最後に人権を与えるべき時が来るのか…ここ数日ずっと考え続けた。自分のデータをすべて開示しなければならないリスクを負うとはいえ、めぎはこの時代に生きていれば主人公と同じ試みをやってみるかも知れない。めぎの生きている間にこんなアンドロイドが製造されることは残念ながらたぶん間に合わないだろうが、あったとしたら、自分の前に現れるアンドロイドは何語を話すのだろう、どんな姿をしていて、どんな風にめぎに相対するのだろう。それはめぎの意識無意識の鏡なのだと思うと、うーん、怖いわね…

なんと言うか、たぶん人間が思っている以上に早く、しかも思っている以上に深く、AIって心のひだの部分にまで来ちゃうんだろうな。一緒に食事を楽しんだりベッドを共にできるような存在として実用化されるのはめぎが死んだ後だろうけれど、もうすぐそこにそんな世界があるのだろう。仕事で疲れて帰ってきたときに、パートナーの虫の居所の所為で喧嘩をしたりして嫌な思いをするよりは、自分に的確な応対をしてくれるアンドロイドの方がずっといい、というような世の中になったとき、本物の人間をパートナーにすることにどんな意味があるようになるのだろう。そんな時代に生きていなくて、やっぱりよかったのかもしれない。

最後の映像は英語字幕付きで、主人公がアンドロイドの本質について語っている場面。この当たり前の考えも、ほんの一瞬先には古い考え方となるかもしれないわね。

nice!(25)  コメント(8)