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葬儀 [義母とのお別れ 2023年12月]

今日は義母の葬儀のお話を。

2024年になってから、葬儀までは非常に慌ただしかった。仕事始めの2日に役所に電話すると、担当者がまだ休み中だから3日以降に電話しろと言われた。3日に電話すると、その書類ではダメと言われ、予定していた5日の葬儀は絶望的となった。それが4日に現地のお偉いさんが掛け合い、お昼過ぎに急に葬儀の許可が下り、2024年1月5日、葬儀が営まれた。そんな急に決まっても、うちからそこまで10時間かかるんですけど…

立派な棺桶に入っている義母。中はどんな姿なのか、全く分からない。
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日本ではお葬式の時に旅立ちの装束を着せられた遺体が棺桶に入っていて、その上が開くようになっていて、最期のお別れに顔を見たり花を入れたりすることが多いと思うが、ドイツではそれはかなり稀。病院で亡くなった場合、その日のうちにその病院に着くことができればお別れのための遺体安置室があってそこで蝋燭などを灯して静かにお別れすることができるが、その後遺体は病院の地下などにある巨大冷蔵庫に移動。冷蔵庫の引き出しから出てくる形でもいいから見たいと掛け合わない限り、2日目以降は遺体を見ることはもう叶わない。(日本のように遺体を家やしかるべき場所に運んで取り囲んでお通夜をするということもない。家に運び入れることは禁止されている。)その後、火葬の場合は直接火葬場に運ばれ遺族が立ち会うこともないまま火葬され、遺灰の入った骨壺が葬儀場に運ばれてくる。土葬の場合は、お葬式の日まで葬儀屋の冷蔵庫で安置され、当日こうして棺桶に入れて置かれる。死後2週間ほど経っているため、中の遺体を見ることは無い。骨壺の中も、棺桶の中も、本当にその人なのか、本当に入っているのか、ハッキリ言って謎。これはコロナとは関係なく、以前からずっとそうである。こちらの人は、死後の遺体はもう魂も無いし、それを見るのは亡くなった人の尊厳を損ねると感じるらしい。見たいという人は誰もいなかった。

今日の写真は全て義母の友人が撮ってくれたもの。結構な参列者がいて、びっくり。全て義母の友人知人。見えないが、写真では陰になっている2階の真下にも席があって、そこにも結構な人数が座っていた。全部で60人ほど。
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葬儀は音楽で始まり、こんな風に男声コーラスや、参列者も一緒に歌う合唱や、聖歌の暗唱や、聖書の朗読などが続いた。コーラスをしたのは義母の友人たちだ。
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そして、義母が特に懇意にしていた司祭が義母の希望通り葬儀を行い、非常に個人的な内容で準備した長いスピーチをしてくれた。これは、こんな風に始まった(元はドイツ語)。
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クリスマスの数日前、マリー=ルイーゼ(義母の名)からクリスマスの挨拶が書かれたカードが届いた。表には彼女の刺繍の写真があった。そして、お祝いの言葉の後に、彼女はこう書いていた。「続報はお手紙で!」
彼女の訃報を受け、私はそのカードを手に取り、もう一度読み返した。連休が明けたら、彼女の様子見に電話しようと思っていたのだ。でも、手紙も電話も実現しなかった。ここにいる多くの人がそれと同じような状況であろう。交流はまだまだ続くと思っていたのに…本当に彼女はまだ彼女自身の、あなたたちの、私たちの人生の真っただ中にいたのだった。

マリー=ルイーゼは高齢でもう充分生きたと言える。彼女はそのことに自ら気づき、感謝していた。彼女は精神的にも健康で、みんながよく言っているように、最後までいろいろなことに積極的に関わり、参加していた。昨年のクリスマスの日も、彼女は小教区で仕事をしていた。それももう、手紙や電話と同じく実現しなかった。
死が突然に訪れると、私たちは自分の命のはかなさを痛感する。私の終わりがどれほど近いのか、誰にもわからない。
彼女はおそらく、自分の死期や死に際について、いつものように典型的なユーモラスな言い回しでこう語ったことだろう。「そうね、必ずしもクリスマスである必要はないわ!」そして、よくそうしていたようにこう手を挙げてこう言っただろう。「You never know!」そしてたぶん、「だから何?どうあるべきか、どうなるべきかは、主のみが知るのだから!」と続け、そして、彼女は日常会話に好んで英語の慣用句を使っていただけでなく、ザクセン方言を取り入れるのも好きだったので、「dann isses ähmde so」(dann ist es eben so =仕方がない)と付け加えて大笑いしたかもしれない。




これを聞いて、そこにいた誰もが在りし日の義母の声を聞き、そのジェスチャーをありありと瞼に浮かべただろうと思う。そうなのだ、そういう人だったなぁ…姿と声が蘇るようだ。司祭はこんな風に自らの友人としてのエピソードに加え、前日までうちのドイツ人や義母の友人たちにも取材してスピーチを準備してくれて、それはA4で12ページにも及んだ。最後の4分の1ぐらいはキリスト教のお話に結び付けたものだったけど、後の4分の3は義母の生まれ育ちから亡くなるまでの半生記のエピソードと彼女との思い出話だった。義母が必ずこの司祭に自分の葬儀をしてもらってほしいと願っていた理由がよく分かる。この司祭は数年前に配置替えとなり、今は義母の住んでいた小教区にはいないのだが、この日のためにわざわざ来てくれたのだ。言い換えると、特にこの人がスケジュール上可能な1月5日の葬儀を実現させるためにみんな頑張っていたのだ。

式が終わると、こうやって棺桶が運ばれて行き…
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教会のすぐ横の墓地へと運ばれ、埋葬式が行われた。ここに写っている人たちは、みんな義母の知り合いや友人たち。向こうの曲がり角まで人がぎっしり。89歳の独り身のおばあさんのお葬式とは思えない凄い参列者。義母がここでどれほどみんなに愛されていたかがよく分かる。言い方を変えると、これほどみんなに囲まれて楽しく居心地がいいから、彼女は壁崩壊後すぐにロンドンで離婚して生まれ故郷の東へと帰り、そこを30年以上動かなかったのだろう。うちのドイツ人の言葉を司祭がスピーチで引用していたのだが、ここに戻った義母はまさに「水を得た魚」だった。
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友人たちが順番に土をかけ、用意された花びらを投げ入れた。
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そこに猫がいた。猫好きだった義母のために来たのだろう、義母が呼んだのかも、と誰もが思った。うちのドイツ人は、こうやって土を掘り起こすとネズミが来るからいたのだろう、などと現実的なことを言っていたが。
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義母が懇意にしていた東の人たちは人情味が厚く、貴族の義母への礼儀も正しく、ロンドンに住んだこともあるインターナショナル性も尊敬してくれて、最後の最後まで義母に英語の個人レッスンを受けてくれていた人もいて、義母は本当に充実して楽しい老後だったようだ。うちのドイツ人にとっての問題は(そして外国人のめぎにとってはかなり居心地の悪いことだったのだが)、その人たちの多くがネオナチの人たちだったこと(12年前に亡くなったパートナーさんがそのグループのお偉いさんだったし、東部では最近ますます増えている)。でも、義母が幸せに逝けたのだから、そしてもう友人の皆さんにも会うこともないわけだから、まあもうそのことも胸のうちに収めることにしよう。
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