水田と宴 [2010年夏 日本の旅]
7月から8月にかけての一ヶ月にわたる日本の旅の中で、ちょっとドキドキの楽しみだったのがここを訪ねたときのこと。
うちのドイツ人がぜひ水田を見てみたいと常々言っていたのだが、知らない人の水田に勝手に入り込んで眺めるのはどうもなあ・・・と思っていたところに閃いたのが、ブログでおつきあいの長いkrauseさんにお願いしてみるということだった。毎日コメントをいただいている方だからもはや知らない人のような気がしないけど、ブログで知り合った方に会うのって、しかも男性の方に会うのって、ちょっとドキドキしますわ~♪ しかも、いきなり「水田見せてください!」なんて、ねえ・・・
かなり躊躇しながらメールを出したのだが、快くお招きいただき、水田をこんなに間近で!
それどころか・・・
水田に足を踏み入れてみたいといううちのドイツ人の夢の一つを叶えていただきました~♪
もっとずぼっと足が泥の中に埋まっていくのを想像していたらしいのだが、今時は機械で作業をするため地面を固く作ってあるのだとか。なるほど・・・
下の写真は場所が分からないように加工してあるのだが、農家の並ぶこの風景はとても美しかった。
この綺麗な緑だった稲が先日のkrauseさんのブログと昨日のブログを見ると今はもうすっかり穂を伸ばして金色になってきていて、そろそろ稲刈りだとか。時の流れは本当にあっという間。ここを訪ねたのは7月22日のこと。暑かったなあ・・・
krauseさんには、厚かましいお願いを承諾いただいたばかりでなく食事にもお招きいただいた。そして、そこでシェフとしてご登場くださったのがこれまたブログで知り合ったmichaelさん。これはmichaelさんご持参の包丁。
そして、これを食べたら刺身は食べられなくなる、という鱸の洗いを目の前で作ってくださった。ほら、なんて活きのいい鱸なんでしょ!!ニオイも全く無くて、ドイツ人たちはびっくり。
これをmichaelさんがあっという間に捌いていくの。これにはドイツ人たちが大はしゃぎ。包丁やら鱗をとる道具やら興味津々。そうか、こうして袋の中で鱗をとればあちこちに跳ね散らかさずに済むのね。あまりの素晴らしい包丁捌きに、写真じゃなくてビデオを撮ればよかったと後悔。
krauseさんとmichaelさんの奥様方もてきぱきと手伝っていらして・・・
氷水を潜った鱸はあっという間にこうして綺麗に盛りつけられて・・・
なんて美しかったことでしょう!なんて美味しかったことでしょう!!
michaelさん、素晴らしいパフォーマンスとご馳走をありがとうございました♪
めぎはこれだけでもう胸一杯の満足だったのだけど、魚料理はこれだけに終わらず、さらに続いたの!
そういえばぬたもあったのだけど、写真撮り忘れたわ~krauseさんの畑から直接持ってきて出される野菜はどれもとっても美味しくて。
美味しいスペアリブも♪
いつもお忙しいkrauseさんと空を飛び回るmichaelさんと慌ただしいめぎの予定が合うなんて、なんて貴重な時間だったんでしょ。それぞれの奥様方と、めぎの連れてきたうちのドイツ人とドイツの友人夫婦と、総勢8人の宴。お二人とも英語が堪能でいらっしゃるからめぎはものすごく楽だった。外国語で普通に会話するのと、通訳をするのとでは疲れ具合がまるで違う。普通に会話するときは自分が話したいときに話せばいいし、ちょっと疲れたら聞き飛ばしたっていいけれど、こういう場で通訳をしているときは、本当は自分も自分の興味の向くままいろんなこと言ったり感じたりゆっくりしたり静かに噛みしめたりしたいのに、それを後回しにせざるを得ないことが多く、人の言うことを一つ一つ逃さずに聞いて訳してやらなければならない。krauseさんの宴では、おかげさまでみんな英語で直接話し合ってくれて、めぎはおいしい料理を静かに堪能したり奥様方と日本語でおしゃべりしたりできたのだった♪
次の日の朝が早い予定だったので、実はご用意くださるはずだったものの多くを時間切れで食べられずに来ちゃったの・・・michaelさんの茶碗蒸しとか、krauseさんの畑で穫れたルッコラとか、krauseさんのお父様の畑で穫れた西瓜とか、かえすがえすも残念。でも、krauseさんの美味しいお米で作ったおにぎりや、michaelさんがお土産にくださった美味しい豆大福など、次の日の新幹線の中で朝食として堪能したのであった。その後の旅の中でこの宴のことは何度も話題に上り、金物屋さんで包丁を物色したり、鱗取りの道具を見つけて大喜びで買ったりしていたドイツ人たち。それを見るにつけ、厚かましいお願いをしてちょっと恥ずかしかったけど思い切ってお願いしてよかった、と感じためぎだった。またとない貴重な機会を作ってくださったkrauseさんに大感謝。
伯母訪問 [2010年夏 日本の旅]
海外に住むと、慶弔関係を含め色々と不義理を働くことが多い。だから、日本にいる間に色々な人に会っておきたいし、会わなければならない人やあいさつに行くべき人もたくさんいるのだけど、限られた滞在の中でそれを全て叶えられるはずもない。日本に来ていながら顔も出さないとはなんと失礼な!と思っている人もいると思うし、どうして連絡くれなかったの!とあとからお叱りをいただいたことも多々あった。こうしてさらに不義理を重ねていくんだな・・・ああ。
今回幸運にもお互いの都合が合ってお会いできた人たちの中に、父方の伯母がいる。兄弟姉妹の多い父の一番上の姉。不義理に不義理を重ね、数年前に妹の結婚式で会ったのも15年ぶりくらいだった。そのとき、長い間生業としてきた漫才師の人生にピリオドを打ち、兄弟の誰にも迷惑をかけません!と断言して自立型介護付き有料老人ホームに入る決断をしたという話を聞いた。芸能人として生きた人が全てを畳んで老人ホーム暮らしをするのって、どうも想像もつかない気持ちでそれを聞いた一方で、その潔さに清々しさを感じたものだった。その後どうしているのかしら?折しも去年から今年にかけて父方の伯父や伯母が相次いで亡くなり、小さい頃以来父方の親戚とあまり接触してこなかったことに改めて気付き、思い切って訪ねてみることにした。
伯母の住んでいるのは、こんな南国みたいな景色のところ。
建物の中は広々としていて・・・
共用スペースも窓も多くてなかなか快適。下手なホテルやマンションよりずっと綺麗。
部屋からの見晴らしもよく、ここがかなりのレベルの施設であることが伺える。
でもね・・・お部屋は本当に小さくて、真ん中の収納みたいに見える扉の向こうは小さなキッチンやら冷蔵庫やらが隠れているし、お客さんと一緒に座ってお話しするにはこんな小さな空間しかないの。それでも、めぎは首都圏でこれよりもっともっと狭いワンルームマンションに住んだことがあるから、ここの立地条件でこの間取りは十二分に広いということは分かってるんだけど・・・首都圏で歳をとって独りで住むというのは本当に大変なことね。
なるほど、こういう物を毎日食べて・・・
体操やら習い事やらイベントやら、結構忙しい毎日を送っているのね。めぎが妹と伯母を訪ねたのは7月17日11時のこと。ちゃんと予定表に書き込まれていた。
持ち物のほとんど全てを処分してここに来たという暮らしは、つまりこういう感じ。必要最小限。
首都圏で、羽田からも成田からも便利な直通バスのアクセスがあって一時間もかからないくらいのところで、これだけ自立した生活をしつつ至れり尽くせりのサービスを受けて、介護も病院もついているから生涯を閉じるまで何が起ころうとも心配することもなく、これは非常に恵まれた環境だということができるだろう。それが手に入っているのは、それだけの費用を支払っているからでもあり、この暮らしは伯母が長年頑張ってきた代償として手に入れたもの・・・50年間も続けた芸能生活を引退し、全く新しい生活を始める・・・きっといろんな思い出の品があっただろうに、それを一切処分して、長い間住んだ家も処分して、多くの知人や仕事仲間とも離れてここで新たに一人暮らし。ああ、人間の一生とは、まさに萩の上露の如し。めぎはこの安定した老後生活を手に入れるだけの努力をした伯母を心の底から尊敬するのだが、華やかだった人生が収束に向かって行くにつれてこうして生活が縮小していく様相を見ると、どうにもこうにも淋しく切ない気がするのだった。しかし、伯母はさばさばしていて、まるで現役の頃のように生き生きとしていた。この突っ走り感や、思い切りの良さや、後を振り返らずなんの後悔もないところ、考えてみるとめぎもそっくり。ホント、血は争えないわね。
いろんなことを説明してくれるその話の回転が速くって。さすが、プロの話し手だわね~
それまでの人生は思い残すことなくやりきった、これからは第二の人生を新たに楽しもう、新たにたくさん吸収しよう、という意欲に溢れていて、色々な催しに参加して趣味も広がったようだ。その一つ、絵手紙の作品をそのお手本とともに見せてくれた。
↑「二人ぼっち」・・・伯母よりもひとまわりも若いのに病気で引退せざるを得なくなり、伯母のいるところからずいぶん遠いホームに入っているためなかなか思うように会えなくなった相方さん。家の慶弔の折にはいつも一緒にいらしたから、めぎも何度か会ったことがある。漫才師は仲が悪いという話をよく聞くけれど、伯母と相方さんは本当の姉妹のように仲がよく、こうして離ればなれになってもいつも相方さんのことを思いやっているようだった。
↑伯母の方がボケ役だったのだけど、本物の伯母はものすごく頭の回転の速い、聡明な人。だからこそ芸能界で長い間生き残っていけたんだろうな。ほんの数年前まで寄席に出ていて、今も80歳近いとは言えこんなに元気なのに、引退しちゃったなんて勿体ないな。一回りも若い相方さんの方が病気だなんて、人生はなんと残酷なんだろう。
伯母は現役時代から今の生活のことまで短歌(趣味で五七五七七で想いを書き留めるという意味での短歌)に詠んでいて、それをきちんと残すよう編集しているようだった。実はめぎも東京にいた頃ある短歌の会に所属して同人誌に短歌を発表していたことがあったのだが、伯母も同じようなことをしているなんて、血のつながりってすごいわね。引退の時のエピソードなど、その短歌を見ただけで涙を誘うのだが、期せずしてめぎの全然知らなかった祖父のエピソードなども出てきて、長い間の不義理の所為で欠けていた自分の身の半分がようやく紡がれていくような気がした。
下の絵は伯母のオリジナル作品。自らの一生を想いながら描いたもの。今、めぎは人生のどの季節にいるのだろう。年齢から言えばちょうど綺麗な茜色のところかしら。もう少ししたらどんどんくすんでいくはずで、現実でも病気になったり、今よりもっと老後のことを考えたりする日がやってくるのだろう。冬の季節に入ったとき、めぎはどこでどのように暮らしているのだろう。伯母のように、自分で自分の終の棲家を定め、最後まで凛としていけたらいいな。どのような暮らしになろうとも、そこでのびのびと、心がこのようにまっすぐで、ひたすらでありたいな。
冬の最後がちょっとだけあったかい色合い。そのことにちょっと救われる。
吉原の跡 [2010年夏 日本の旅]
今日からまた7月から8月にかけての日本滞在記を。これまでにまとめたのは富士山2日間、会津2日間、水田1日、伯母訪問1日・・・まだまだ青森5日間、四万温泉3日間、真鶴2日間、妹と過ごした日々等々途方も知れない量なんだけど。今までで約5分の1って感じかしらね~どうしましょ。まあ、これからどんどん暗く寒くなっていって、光も色もない季節に入るから、暑い時期を懐かしく思い出しながらゆっくりと振り返ることにいたしましょ。
今日は友人の社会学者さんと会った日のことを。東京下町の出身でつまり生まれも育ちも生粋の江戸っ子の友人がオトナサマ向けの「ディープな下町巡り」と題してドイツ人たちを案内してくれたのがこちら。
上のお墓は、きちんとお墓があるだけマシな例。そう、ここは吉原の遊女さんたちの投込寺。不幸にして亡くなった遊女さんたちを言わば投げ込むが如くにここに葬ったのがその名前の由来。上の写真の若紫さんは、年季明けを控え身受けも決まってさあこれから幸せに、と思った矢先に狂客に殺されちゃったのだとか。
普通のお墓も一緒に建ってるのだが、その狭さや後ろの卒塔婆などがドイツ人たちには非常に興味深かった模様。ヨーロッパの公園のような広々とした明るいお墓と全然違うものね。
それから土手通りという大きな通りを歩いていくと、こんな古いお店がちらほらと。
どんなお風呂なのかな~
猛暑だったけど頑張って歩くこと15分くらいだったかしら。吉原の名を留める交差点、吉原大門。そこはかつて遊郭の出入り口があったところで、客がここで吉原を振り返ったという見返り柳の名残が残っていた。
そこからかつての吉原地帯に入っていくと、そこには吉原の情報喫茶が。
今もその情報喫茶は機能していて、この辺りはちょっとご入浴できるお店がいっぱい。
全く昔の面影のない殺風景なビルの景色にドイツ人たちはがっかりした一方、現代日本の一面をじっくり拝見できて興味深かった模様。あの飾り窓地帯レーパーバーンのあるハンブルクから来ると、日本のこういう界隈はずいぶんおとなしめ&清潔に見えたようだ。夜だったらまた全然印象が違うでしょうけどねえ。でもまあ、ハンブルクのそういう地帯はそこにいる人たちがホント怖そうなんだけど、日本は各ご入浴施設の前に立っているお兄さん方がとっても紳士でしたわ。
現代日本のもう一つの現実。それは、不況のためにこういうオトナサマ向けのお楽しみに向かう金銭的余裕がなくなり、その結果立ち行かなくなったご入浴施設がこうして駐車場になっていっているということ。
その結果、生計がたたなくなった方々もいらっしゃることでしょう・・・いろんなことを考えさせられる地域だった。そうそう、ご入浴料はドイツと比べて相当お高めのようでしたわよ。
こちらは吉原神社。
狛犬さんやお社や雷神みたいなのが狭いところにぎっしりと。
ここには昔の吉原の写真や絵が掲示されていた。こんなに広かったのね・・・まわりには城壁のような高い塀がぐるりと張り巡られ、外への入り口は非常に限られて、そうそう簡単には遊女が出られない仕組みになっていたそうだ。
花魁の方もこの鈴を鳴らしたのかしら。
古の遊女に思いを馳せながらも、あまりの暑さにそろそろ限界。このあとは時々日陰で休憩を取りながらまっすぐ浅草へ向かったのだった。
つづく。