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ウィーンでのコンサートのこと [2022年春 ウィーン~シュプロン]

今日からめぎはまた仕事。2週間ってあっという間。

さて…やっぱりまず最初に今回の春旅で最も大きな出来事だったコンサートについて書いてしまおうと思う。どうもこれを書かなければ他の楽しかったことなど書く気にならなくて。

そのコンサートは19時30分からで、肉屋さんで買ったお惣菜で宿で簡単な夕食を済ませてから18時45分頃会場へ向けて出発。宿の近くのシュテファン大聖堂が夕陽を浴びて美しかった。
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めぎたちはゆっくり歩いて会場に向かった。そのコンサートホールはウィーンのリンク沿いにあるStadtpark(日本語で市立公園?市民公園?)の近くにある。
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Wiener Konzerthaus(ウィーン・コンサートハウス)という名の会場。めぎたちはここに行くのは初めて。
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その会場の前で…
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小規模だがデモが行われていた。
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そう、ウクライナの。
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この日のコンサートは、ギリシャ人だが1994年からロシアに住み、ロシアで指揮法を学び、ロシア籍も持つクルレンツィスの指揮で、彼が2004年にシベリアのノヴォシビルスクという街に設立して2011年からのペルミというウラル山脈西の街を経て2019年からサンクトペテルブルクに移ったムジカエテルナというオーケストラの演奏会。2月の戦争勃発以来、戦争反対の声明を出さなかったロシア人の音楽家たちがことごとく西側から追放されたのに対し、全く声明を出さなかったクルレンツィスと、EUの制裁リストに入っているロシア第2の規模の銀行をスポンサーに持つムジカエテルナの今回の演奏会開催は、ずっと批判を浴び続けたし、賛否両論で本当に開催されるのか最後の最後まで分からない状況だった。
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もともとは4月10日に別の曲(それが何だったかもう思い出せない)のコンサート、11日にベートーベンの第九、12日にムジカエテルナの合唱団のミノリーテン教会でのコンサート、という日程が組まれていた。まずは早々にベートーベンの第九のチケットを取り、10日はオペラの予定で、12日の教会の合唱はネットで見たことがあったので見に行くかどうしようか迷いつつ残券の様子見をしていた。それが、戦争勃発で状況が一転。ロシア発着の飛行機が飛ばなくなり、ロシア上空も飛べなくなり、第一番にめぎの頭に浮かんだのが、ムジカエテルナはヨーロッパに来られるの?そもそもこの先どうなるの?だったのだが(戦争で被害を受けているウクライナのことよりもロシアの楽団のことが気になるということの是非は申し開きようがないが…でも、戦争が起こった地域に全く関係がなければ倫理観や信条だけで客観的にものを言えるが、何らかの関心なり関わりがあったらそれがまず第一に懸念事項になるのだ…)、やはり色々問題だったようで、程なくコンサートの変更が発表された。まず、ムジカエテルナにウクライナの音楽家たちを迎えて合奏するという。へええ。この状況でもロシアの楽団と一緒に演奏しようというウクライナ人がいたのね…これこそ音楽に国境はないってやつだわね。そして、プログラムは別の曲も第九もやめて、2日間とも同じ演目となり、第2次世界大戦末期に絶望の元に作曲されたらしいドイツのリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」(変容)と、チャイコフスキーの死直前の大作「悲愴」を演奏するという。へええ。メタモルフォーゼンはともかく、アメリカや日本ではロシアの作曲家の演奏を軒並み中止しているらしいのに、チャイコフスキーをとは。
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そして、12日の合唱団のコンサートは中止となり…というのは、合唱団がロシアから来られないようなので…ああやっぱり、ロシアからのヨーロッパへの移動はかなり制限されているものね、でもオーケストラは来られるんだ、直行便のない今どうやって来るんだろう、楽器持っての移動は大変だろうな、等々めぎの頭の中はいろんなことが浮かんだ…代わりにピアニストのアレクサンドル・カントロフというフランス人(2019年のチャイコフスキー国際コンクールの優勝者…余談だが、この有名なコンクールもつい先日世界連盟から除名された…ロシア政府が資金提供・宣伝ツールとしているコンクールだからとのことで、でも同時に、ロシア人アーティストを個々に国籍を理由に差別し排除することに反対すると申し添えている)とウクライナ支援のチャリティーコンサートをするということだった。こうしてクルレンツィスとムジカエテルナは、一切声明を出さずに口を閉ざして「音楽に語らせる」として、行動で戦争反対を十分に唱えていたのである。ロシアに居を持つ音楽家として、精一杯のことだったのだろうと思う。また、コンサートをなんとか実現させようと関係者もどれほど努力したことか。
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そのチャリティーコンサートの収益は当初赤十字を通してウクライナや避難民への援助として使われる予定だった。それが、まず赤十字が「政治的と解釈されるような環境に入りたくない」ということで降りた。その後カリタス(カトリック系慈善団体)がパートナーとなり、チケットが売れて5万ユーロ集まっていたらしい。しかし、直前になって、直前も直前、そのコンサート前日の11日(めぎたちの行くコンサートの日)の昼過ぎになって、12日のチャリティーコンサート中止が発表された。まさにドタキャンだ。ええ!?と思って読んでみると、中止になったのは、在ウィーンのウクライナ大使が、ロシア人アーティストが関わっている寄付は断る、とコンサート自粛を申し入れてきたからなのだそうだ…そして、ムジカエテルナが制裁リストに入っている銀行をスポンサーにしている間は、来年度に予定されているウィーン・コンサートハウスでのコンサートのチケット販売も凍結、との発表。
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なんと...言葉がない。どう書いていいか、本当に難しい。ウクライナの言ってきたことはめぎにもとてもよくわかる。あんなひどい攻撃を受けている今、ロシア人からの慈善寄付など断固お断りだ、と思うのが確かに普通だ。そして、被害者にそういわれると、言い返しようがない。それが、いかに切ないことだとしてもだ…攻撃を受けてコンサート活動どころではなく楽器の代わりに銃を持って戦っているウクライナから見たら、ロシアの音楽家に被害を与えることこそ経済制裁の目的なのだろうが、結局苦しむのは国ではなくどちらも民衆なのだ。ロシアに居を構えている以上全く何の言葉も発せないロシア人の音楽家たちが、この戦争の中許可を取って西側を訪れ、音楽の力を信じ、ウクライナ人音楽家たちを迎えて一緒に合奏し、ウクライナ避難民に援助を、という行動を起こしているのがどれほど大変なことか…それを、ロシア人とひとくくりにし、音楽とは全く関係のない政治的一声で潰されるなんて。でも、オーストリア側としては、はいわかりました、やめますと言うしかない…これが戦争であり、どんなに切なくても敵か味方かどっちかに決めなければならないことになってしまうのね、と思い知らされる出来事だった。そのことはドイツ語だがこちらにも書かれている。ただただ悲しい。
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そんなわけで、これから行くコンサートがひょっとするとムジカエテルナとの長らくのお別れになるかもしれない最後のコンサートになったのだった。めぎたちの行く11日のコンサートも巻き添え中止にならずに済んで本当によかった…でも、こうしてウクライナの国旗を纏った人たちの抗議の目の前を通って会場入りをするのも、非常に気が咎めたわ…
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長くなったので、続きは明日。
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コンサートを見て [2022年春 ウィーン~シュプロン]

現在、2022年4月中旬の春旅の話を連載中。旅の前半にしてハイライトのコンサートのお話の続き。

イースターまであと一週間という頃。あのお月様が満月になった後の日曜日がイースター。
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めぎたちは19時半からのコンサートにやってきた。場所はウィーンの比較的新しいコンサートハウス。有名なウィーンフィルの本拠地Musikvereinのすぐ近く。1913年設立とのこと。
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ティンパニーが音の調整をしていた。弦楽器等にチェロ以外座る席はなく、いつものように立って演奏するようだ。
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ゴージャスなウィーンにしては割と質素なつくり。早めに来たので、まだあまり人が入っていない。
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コンサートの演目は昨日も書いたとおり、まずはリヒャルト・シュトラウスの81歳という晩年の作品「メタモルフォーゼン」。日本語にすると「変容」。作品について詳しくはこちらをどうぞ。簡単に言うと、第2次世界大戦の終わりごろ、リヒャルト・シュトラウスが長年自分の作品を初演してきたりした伝統あるドイツのオペラ座やコンサートホールが連合軍の襲撃に遭って瓦礫と化し、喪失の悲痛と破壊された祖国への惜別、反戦の思いを込めて作曲したものらしい。「23の独奏弦楽器のための習作」という副題がついていて、たしかに23人がそれぞれ別々に弾いていてそれが複雑に組み合わさって合奏になっているという感じだった。ムジカエテルナの弦楽器の人たち数名と、ウクライナの音楽家たちとの特別なアンサンブルで、いつもとちょっと違ってクルレンツィスが完璧に全てを統率しているという感じではなく、何か本当に苦しんでいるという感じだった。最後の部分は本当に辛く、印象に残った。その音源はないため、フルトヴェングラーのこちらを参考に張り付けておく。リヒャルト・シュトラウスがまだ生きていた時の演奏である。



休憩をはさみ、次はチャイコフスキーの「悲愴」。これは有名中の有名な曲で、知らないと思っても部分的には誰もが聞いたことのある曲だ。詳しくはこちら。これは特に戦争反対のために作られた作品ではないが、チャイコフスキーが自分の人生を込めて作曲したらしく、鬱病だったとも言われているし、叶わぬ恋(同性愛)の悲嘆が描かれているとも言われるが、とにかく憧れと悲哀に満ちていて物悲しく、狂ったように勝利を叫んだかのように一瞬感じるが最後は悲嘆に暮れて消えるように終わる独特なもの。これもひとまずフルトヴェングラーのを。



ムジカエテルナはこの作品を骨の髄まで理解しているという感じで、クルレンツィスもスコアなしで指揮をしていて、この作品が彼らの血や肉のような、彼らの魂そのもののような、そんな凄まじい演奏だった。チェロなどの座らないと弾けない楽器を除いて全員が最初から最後まで立ったまま演奏し、その集中力と迫力は座って演奏するのの比ではない。もっと上手い演奏はきっとあるのだろうと思うが、とは言えもちろん素晴らしい演奏だったのだが、そういうレベルの話ではなくて、いや、なんというか、約100人のオーケストラが100の音をそれぞれに立たせて弾いているのにもかかわらず100人で一つと言うか、一体感そのものと言うか、その響きは嗚咽と言うか叫びと言うか刹那というか、全身全霊とはこのことと言うか、神憑りにあったような、ちょっと今までこんな経験したことない!という感じのコンサートだった。特に3楽章のこれでもかこれでもかというド迫力な響きには、ひょえ~と思わず口に出したほどだった。
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そして、終わった後、誰も笑っていなかった。
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会場は総立ちのスタンディングオベーションだったのにもかかわらず。こんな凄い演奏を一団となって成し遂げたにもかかわらず。
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彼らはお別れの演奏をしたのだ。まさに惜別の演奏だった。全身全霊を込めて。実存をかけて。音楽の美しさと尊さと夢の破滅と哀しさと虚しさを込めて。
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去年の夏にザルツブルクであんなに楽しそうに、踊るように、まさに音を楽しんで音楽を奏でる姿を見せて演奏していたのに、一年も経たずにこんなことになるなんて。
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クルレンツィスはギリシャ人なのだし、さっさと反戦争を声明して西側に住めばいい、という声もある。それを待っていて、ぜひうちのオーケストラの主任指揮者へ、と受け入れたい人もいっぱいいるだろう。彼がそうしようと思えばそうできなくもない。かつて多くのユダヤ人音楽家がアメリカなどへ逃亡して大成功を収めたように。でも、それは、彼が30年近くもかけて築き上げた人生を捨てることなのだ。シベリアの田舎からずっと連れてきて今やオーケストラと合唱団の200人もの人生を肩に背負っていて、ムジカエテルナは彼の家族であり、彼の一部なのだ。それを置いてどこかへ移ったところで、片足を失い、片腕も失ってしまうようなものなのだろう。この一体感は唯一無二のもので、この日のクルレンツィスは3月末に見たSWR(南西ドイツ放送)オーケストラを指揮した時とは別人だった。ムジカエテルナあってこその彼なのだ、と思い知った。
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そして、アンコールもなく、マイクを取って何か語ることもやっぱりなく、去っていった。
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そして、ムジカエテルナも、それに従った。ロシア人の彼らは、ロシアに帰るしかない。いや、楽団員の全てがロシア人というわけではもちろんなくて、13か国からなっているそうで、このうちの何人がロシア人だったのかは正直よく分からないし、結成当初の2004年からのメンバーはインターネットで見る限りそんなにいない。つまりムジカエテルナというのは常に変容しているオーケストラで、去年の夏に演奏していたクラリネットとオーボエとフルートの奏者も見当たらなかったし、コンサートやCD録音をするのはその時のベストメンバーなのか、曲や開催地に合わせて得意な人や来られる人を選ぶのかなんともわからないのだが、とにかく2004年からいる今回のコンサートマスターのことに限って言えば、シベリアの彼方から、音楽で身を立てるという夢をもって音楽に人生をささげて打ち込み、以前見たドイツ語のドキュメンタリーによれば修道院で共同生活するように、例えば2011年にペルミに移ってからは2019年までそこにいたのにペルミの街を見たこともないほどただただリハーサル室とアパートを行き来するだけの生活を送って、ただただ音楽に身をささげて生きてきて、5年ほど前からザルツブルク音楽祭の常連になるというような成長発展を遂げたのに、さあこれからというときになってこんなことに。ザンクトペテルブルクに拠点を置く彼らに、スポンサーをロシアの銀行から別のものに変えろと言ったって、そんなことがすぐにできるはずもなく、たとえロシアの銀行と契約を切ることができたとしても、今この状況でロシアのオーケストラに資金援助をする西側のスポンサーが出てくるとも思えず、彼らだって生きていく以上は給料が必要なんだから。
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もちろんわかっている。ウクライナでは音楽家たちが演奏すらできずに攻撃されていることを。でも、戦争というものが、攻撃される側のみならず攻撃する側でもこうして一人一人の人生を壊してしまうのだということを、このときほど思い知ったことはなかった。なんて空しいことかしら。こんなに一生懸命努力して生きて来たのに、こんな歳になってから、あとは集大成までもう一息という段階になってそれまでの努力が全て無になるかもしれないなんて。晩年のシュトラウスの無念さが想像できるわ…

ああ、さようなら。ザルツブルクで会えるといいな…とわずかな望みを持ちつつも、絶望的な気分。5月にミュンヘンやパリで予定されていたコンサートやオペラはすべて中止になった。後はザルツブルク音楽祭の決定を待つのみ。
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実はこのあと、4月14日~16日にかけてドイツのハンブルクでも彼らのコンサートがあって、そちらは無事に3日間すべて開催。3月下旬には残券がそこそこあったのだが、ウィーンのチャリティーコンサート中止のニュースの後あっという間に完売となった。16日のなら日程的に行くことも可能だったのだが、チケットの方が全く手に入らなかった。ウィーン同様にすさまじい一体感ある演奏だったようだ。会場にはウクライナ人も聞きに来ていたらしい。それについては、NDR(北ドイツ放送)のこちらに非常によくまとめて書いてある。同じサイトのこちらの記事にも、彼らの状況が非常によくまとめられている。ドイツ語だが、もしよかったら翻訳ソフトでも使ってどうぞ。帰宅後彼らの2017年収録のCDを探し出したので、それを貼っておく。でも、この曲は残念ながらライブで聞かなければその良さが分からない作品だと思う。クラシック界のロックとでもいうべきか。だから、もし可能なら、大音響で。特に3楽章を大音響で。1楽章の4分40秒ぐらいからの部分が、たぶん最も有名なメロディだと思う。



そのようなわけで、とにかく切ない夜だった。こうして書いていても切ないし、書ききれなかったことも多々あるし、分からないこともまだ多々あるし、未だ心の整理がついていない。上のNDRの記事に書かれている次の言葉が、まさにその通り。そして、それをめぎはうまく翻訳できない。
"Das ist ein wahnsinniges Erlebnis." 「それは非常極まる・狂気の・常軌を逸した・猛烈な・凄まじい体験」だった。そして、昨日の記事のリンク先のWiener Zeitungの最後に書かれているこの言葉 "Es ist sehr traurig." の通り、あとにただただ哀しみが残った。
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4月9日 出発 [2022年春 ウィーン~シュプロン]

今日からまた4月中旬の春旅のお話を。

出発したのは4月9日朝8時半頃。この日の前日かなり冷えて、雪の注意報が出ていたのだが、まさか本当に雪を見るとは思っていなかった。
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デュッセルを出たときはただ曇っているだけだったのだが、ヴュルツブルクに近いこの辺りは山なのだ。
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ほんのちょこっとアウトバーンを降りてみた。すぐの道路がこんな状況。
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こっちは道路は解けてるけど。
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野原は真っ白。
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いやはや、昨日の写真と同じ4月とは思えないわね。でも、ほんの20日前のことなのだ。
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すぐにまたアウトバーンに戻る。少し晴れてきた。
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畑なのか野原なのか分からないが、まわりは真っ白。
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この辺りはこの日から晴れる予報なのだが、向かっているウィーンはこの日嵐の予報だった。まあウィーンにつくのはこの次の日だからいいけれど。
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3時間半ぐらい走って、お昼にストップオーバーするつもりの街に近づいてきた。ここはアウトバーンを降りて下道を走っているところ。11時50分ぐらい。
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こんな調子で書き始めると1週間の旅の話が永遠になっちゃうなぁ…
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