死の舞踏 [エストニア]

現在8月後半のエストニア旅行記を連載中。
サウナ通りの俗を楽しんだところで、今度は聖なるところへ参りましょ。タリンにはたくさん教会があるけれど、めぎが是非とも行きたかったのはこちら。ニグリステ教会(聖ニコラウス教会)

なかなか古そうな建物は13世紀に由来するとか。ここも戦争で爆撃されたけど、残った外枠はそのまま使ったらしい。

入り口はこちら。

よく見ると・・・入り口に書かれているのはドイツ語!

それもそのはず、この教会は13世紀にドイツ商人の居住区の中心に建てられたとのこと。創世記の一節で、ここが天国への入り口、と書かれてますわ。
でも、今はここは天国への入り口どころか教会でもなく、博物館。中に入るのにお金がかかる。大人一人3.2ユーロで、意外と高い印象。入り口のところにカメラに大きくバッテンマークがあって、そっか~撮影は駄目なのね、とクロークで荷物を預けるときにカメラを鞄に入れようとしたら、フラッシュ無しなら撮影OKですよ、とクロークのおばさんに言われた。あれれ、あのマークじゃそれは分からなかったなあ・・・で、有り難くカメラを持ったまま入場。入ると教会らしい雰囲気。

でも、壁には博物館らしき雰囲気。

この方・・・

地球を背負って重いでしょうねえ。(地球だよね?)

教会の色々なお道具も。

こういうところには必ずある中世の宗教画。

めぎがいつも見るポイントは遠景。

↑磔自体は約2000年前にエルサレムで起こったはずだけど、遠景には絵が描かれた16世紀の町の様子が描かれている。人々の服装も、色々な道具も、16世紀の街並みが見られるのが面白い。
この主祭壇はこの博物館のお宝の一つ。

リューベックの職人ヘルマン・ローデによって15世紀に描かれたもの。一世紀後の描き方とずいぶん違うわね。漫画みたい。15世紀の街並みや道具や服装、面白いわね。左側には天使がもう迎えに来てるわ・・・

こうして遠景を見比べると、キリスト教に興味が無くても、宗教画をちょっと楽しめる。

こうしていくつかをじっくりと、多くはさらっと眺めてめぎのお目当ての絵へ。

それは、死の舞踏。

「死の舞踏」という言葉を最初に聞いたのは子供の頃、リストのピアノとオーケストラの作品を習ったとき。数あるリストの曲の中でもめぎはこれが一番好きだった。次に「死の舞踏」に直面したのは、リストの作曲のきっかけとは全く関係ないものだが、約10年前のリューベック。リューベックの教会で、15世紀のベルント・ナトケの主要作品の一つだった「死の舞踏」が1942年に英国軍によって爆撃され焼失してしまったという説明を読んだときだった。ちなみにこのタリンのこの教会だって、爆撃されてこんな姿になっていたらしい。

ナチス・ドイツがしたことはもちろんとんでもない。でも、だからといって、これだけの芸術を、これだけの人類の遺産を、爆撃して焼失しても良いということにはならない。戦争末期には戦勝国側にもモラルが相当に欠けていたのだな、と思うことが、ドイツに来てから多々目につくようになった。「死の舞踏」はその一つ。リューベックのはそのようなわけでもはやこの世に存在しないが、いくつかコピーがあり、タリンに4分の1のがレプリカとしてあるというのだ。それも、作成者ナトケの手による作品として1500年頃完成したものらしい。空襲に備えてどこかに疎開させてあったのね。タリンに行くからにはそれだけは是非、と見に来たのである。

この絵画も当時の階級ごとの服装などがよく分かって面白い。一つ一つの人物像の下に何やら文字が書かれていて、どうやらその人物の言葉のようだ。こんなところにも漫画的要素があるなんて。最初の言葉を見て、うちのドイツ人が「北ドイツの言葉だ~」と嬉しそうに読み出した。普通のドイツ語じゃなくて、大学のドイツ文学科で習う中高ドイツ語(中世のドイツ語)でもなくて、本当に北ドイツの方言で書かれている。ナトケが北ドイツの人だというのがこれでよく分かる。

めぎには全部は分からない。うちのドイツ人もときどき想像・解読しながら読んでいた。意味はこちら。最初の人物は伝道者。

ゆっくりと堪能して、ここを後にした。そうね、誰もがいつかは死ななければならない。うちのドイツ人も、めぎも、いつか必ず死ぬのだ。そして、こうして踏まれて土に還っていくのだ・・・どんなにどんなに一生懸命生きても、どんなに成功しようとどんなに貧乏になろうと、その運命は変えられないのよね。今元気な自分がそれを想像しても嘘のような気がするけど、でも本当のことなのよね。その日まで、どう生きていこうかしら。

めぎの祖国とめぎの愛するドイツが、今後こんな愚かな爆撃をすることがないようにと祈っている。
♪ おまけ ♪
先週金曜日の試合前後にヨギたちがデュッセルドルフのホテルに滞在していることは知ってたけど、試合翌日の土曜日に、ヨギったらこんなところに!


ここはうちから歩いて3分くらい・・・あーん、めぎも散歩に行くんだったな~~~~!
・・・めぎはこの通り、とーっても俗な人間である。
タリンの中央市場 [エストニア]

現在8月後半のエストニア旅行記を連載中。まだタリンの旧市街はサウナ通りを歩いただけで綺麗な街並みはご紹介していないのだけど、それは「めぎはいまここ」でちらっとお見せしたことだし、めぎがサウナ通りの次に思い出に残る場所を先にご紹介することにいたしましょ。
うちのドイツ人がめぎの仕事中に地図やトラム路線図を見て検討し、是非行きたいと言い出したところ。それはKeskturgというところ。

↑見つかりました?二つの飛行機マークに挟まれた右側の停留所。
なんでも彼が言うにはKeskturgというのは中央市場という意味だそうで(なんでそんなこと知ってるのかしら・・・ドイツ語とも英語ともフランス語とも全然違うのに)、そこに市場があるに違いない、行ってみよう!と誘われ、お昼にそこへ。本当は仕事先でお昼も出たんだけど、めぎはそれをご一緒せずに外出。ま、市場は是非見てみたいしね♪ それで、こんなトラムに乗って・・・

こんなところで降りて・・・

ちょっと歩くとこんな住宅街があって・・・

その横から市場が広がっていた。スイカはドイツにあるのと同じタイプ。

あら、キノコだわ♪

このキノコはドイツ語でPfifferlingといって、ドイツでも今が時期のはずなんだけど、ここにもあるのね~美味しそう。でも、エストニアはチェルノブイリからまっすぐ雲が流れてそこで雨が降った地域だそうで、この辺りのキノコの安全性に未だ懐疑的な意見もあるとか・・・その真偽はともかく、これほど長い間安全面からも風評面からも影響があるこの前例を、めぎは聞くのが辛かった。

市場の中に入ると、そこにはなんでもあった。

あの、平たい桃もあるわ~レモンのようなここでは採れないものもなんでも豊富に売られている。

そうね、ここがソ連じゃなくなってもう20年。しかも、EUに入り、シェンゲンにも入り、2011年からはユーロまで導入されたところ。ヘルシンキとのつながりも深く、最近はタリンとヘルシンキをあわせてタルシンキと呼ばれたりもするとか。ここはすっかり西側の町になったのだろう。でも、ここで聞こえてきた言葉の大半はロシア語。エストニア語でもフィンランド語でもなくロシア語。すごく険しい顔をしたロシア系の顔つきの腰の曲がったおばさんが野菜を売っていたり(写真を撮らせてくださいとお願いすることが躊躇われたほど険しい顔つきでぎょろっと睨まれたので、その写真はない)。第一次産業にはロシア系の残留者がまだいっぱいいるということなのだろうか。
さてさて・・・野菜売り場の片隅にこんな塩漬け?干物?もあった。ちょっと心惹かれたなあ・・・

この市場には魚売り場もあったけど、それはずいぶん小規模でこんな感じでがっかり。この国はせっかく海に面しているのに魚の食文化はあまりなく、塩漬けや燻製がほとんどだった。バルト海ってあまり魚の種類が多くないのかしらね。

こんな大きなマーケットみたいなところにはハムやソーセージなどの加工品がたくさん売られていた。地下には生肉コーナーが広がっていたがその写真は無し。

うちのドイツ人がおやつにナッツ類を少々買っていた。

市場で新鮮なものをちょっと何かつまめることを期待してきたんだけど、どうも特にそういうお店はないようね・・・

で、市場の端っこにあったこういうコーヒーショップに入ってみた。

中は、昭和のレトロみたいな感じでしょ♪

中ではピザやパンなども売られてるし・・・

調理したものもあるようだ。

そこで、一枚80セントくらいの白身魚のフライ(二人で一枚を食べた)と一枚50セントのカナッペを二枚買ってみた。フライは電子レンジで!温めてくれた。コーラの値段は忘れちゃった。それにしてもなんて安い・・・50セントは50円とお考えを。ね、安いでしょ。一般庶民は普通こういう値段でこういうのを食べているってことかしら。

カナッペの魚は鰺のような鰯のような感じで、塩漬けになっていた。まあまあでしたわよ♪

これで市場の話はお仕舞い。品揃えはドイツの大きな町のマルクト市場とほぼ同じ感じで、これといって是非買ってみようと思うような珍しいものはなく、首都の中央市場にしてはちょっと小規模のような気もした。これが10年後にはもしかしたら建て替えられて、大きなショッピングセンターになっているのかも知れないな。そして、腰の曲がったおばさんの姿は消え、若い売り子さんばかりになるのかも知れないな。そしてそして、一枚50セントの衛生上大丈夫なのかなと思うような手作りカナッペはなくなって、清潔そうな工場生産のハンバーガーショップや世界中どこにでもあるコーヒーショップになっているのかも知れないな。
ちなみに街中の普通のスーパーはこんな感じ。雰囲気も品揃えもシステムも、ドイツの大型スーパーと何ら変わりがない。ユーロで買い物ができちゃうわけで、もちろんとっても便利だけど、なんだかあんまり遠くに来た気がしない。

ところで、左がドイツのユーロ、右がエストニアのユーロ。ユーロのコインは表はどこも共通だけど裏側は各国違うというのは旅行好きの方ならきっとご存じのこと。だけど・・・

表側の1ユーロと描かれた面のこの差をご存じの方は少ないんじゃないかしら。左は2002年のユーロ、右は2011年のユーロ。右のEUROという文字に重なった東欧の部分や上の北欧の部分、形が左と違うでしょ。ちょっと黒っぽく写っているのが見えます?この間にユーロ圏がこれほど広がったのね。

旧市街散歩 その1 タリンの山の手へ [エストニア]

今日からまた8月後半のエストニア旅行記を再開。旧市街をゆっくりと一回りいたしましょ。
スタート地点はこの大きな広場。Vabaduse広場というらしい。元は駐車場だったところがつい最近再開発されて綺麗になったところなのだとか。

場所は旧市街の南に隣接するところ。ほら、下の地図では駐車場として写っている。
この丘にこの横の階段から登る。地図に依れば、この階段沿いに日本大使館があるらしい。

階段の途中から見下ろした景色。もっと登ると現代建築が向こうに広がっているのだが、ここでは真ん中にちょこっとガラス張りの高い建物が見えているだけね。

丘の途中には薔薇のようなハーゲブッテのような花が。ハーゲブッテもバラ科ですものね。

登り切ると素敵なカフェがあった。

少し進むと古い城壁が見えてきた。その前に広がる緑の上ではアーチェリーが。

なかなか立派な城壁ですわね~

その城壁の向こうへいってみると・・・

旧市街へ直接下る道があった。

話は数日後に飛ぶが、その道を上がってみた日もあった。

そのときは、上った辺りの喫茶店で休憩。

こんなブーツが目印の可愛い喫茶店。ブーツ印の植木鉢をひっくり返したようなものは灰皿。

見上げるとそこにもブーツの看板が。

ちょうど向かいにも可愛い喫茶店。


ここでお茶をしていたとき、中国人の団体がやってきた。男性ばかりのグループを引き連れているのがこの赤い鞄と赤いベルトと赤いブーツのお姉さん。おじさんたちを笑わせて、なんて言っているのかまるで分からないけど、とてもにぎやかで楽しそうだった。

さて、丘の上の散策を続けましょ。まずどどーんとそびえているのはロシア正教会。エストニアが長いことロシアやソ連に支配されていたことを物語る。

そういえば、ロシア系のかなり恐そうなおじさまと、金髪の若い女性とのカップルも結構目についた。右に写っている男の子はこの二人の子供。

そんなふうに人々の様子も見ながら散歩は続く。

♪ おまけ ♪
夜8時半頃、仕事を終えたらしい彼女を旧市街で発見!

お疲れ様でした~