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ヴロツワフ(ドイツ語名はブレスラウ) [ポーランド]

夏の旅行記、本日はポーランドの小都市、ブレスラウ。

ブレスラウというのは、ドイツ語。ポーランド語ではヴロツワフ。シュレージエンという言葉を世界史か地理でお聞きになったこと、ありませんか?シレジア、ともいう。ここをめぐって、18世紀中頃、プロイセンとオーストリアが何度も戦争をした。なにしろここは、地下資源が豊富で、ポーランドの大工業地帯だったのだ。目指す町ヴロツワフは、そのシュレージエン地方の中心地だったところ。13世紀にはモンゴル人に、14世紀からはボヘミア人に、そしてその後ハプスブルクに、プロイセンに、ドイツに・・・と、800年間くらいずーっと他所の人に支配されてきたところ。

着いたのはもう日暮れ。7時くらいだっただろうか。
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ビールで乾杯していたら、目の前を結婚ほやほやのカップルが!
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引きずる裾も全く気にしないところがカッコイイ。
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夕食を終えたのは9時過ぎ。東へ来たため、日暮れが早い。
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広場では大道芸人が火を使って芸をしていた。ワンちゃんに服を着せるのって、ドイツではほとんど見たこと無いのだが、ポーランドでは流行っているのかしら?
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新旧こもごも [ポーランド]

ようやく週末だ!と思ったら、うちのドイツ人の友人夫婦が泊まりがけで遊びに来た・・・あーなんにもしないでごろごろしたかったのにな~彼らは南仏で休暇を過ごしてハンブルクに帰るところ。運転が大変なので、デュッセルドルフで一休み。

さて、今日もこの夏のポーランド旅行記の続き。

昨日のヴロツワフを出発し、さらに東へ。途中は道路工事ばかり。
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こんな景色の中を高速道路が通っている。
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継ぎ接ぎだらけの高速。スピード出すとぼわぼわはねる。
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途中、アウシュヴィッツによって、一般道を東へ。壊れたバスの排気ガスに苦しみながらの旅。
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ようやく目指す町が近づいてきた辺り。郊外はこんな建物ばかり。
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辿り着いたのは、17世紀初頭までポーランドの首都だった町。昔の王宮がお出迎え。
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見る角度が変わると城の印象が全く違う。
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城の上へも行ってみましょ。
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上から見た景色。
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さて、どんな町でしょ? また明日。
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クラクフ(ドイツ語名はクラカウ) [ポーランド]

昨晩は友人夫婦の南仏とスペイン海岸での休暇の話を聞きながら、ワインを楽しくいっぱい飲んだめぎ♪ るるる~♪
彼らは典型的なドイツ人の休暇を過ごしてきた。一泊2人で40ユーロくらい(つまり一人当たり20ユーロ、ユース並みのお値段)の安宿に泊まり、寝袋持参でたまにテント生活も。同じ場所に1~2週間くらいは滞在し、持参した本など読みながらデッキチェアーの上でゆっくり。全部で3週間の休暇。大学生と高校生の子どもたちは、それぞれの友人と休暇を過ごし、休暇先から親の休暇先へ一週間ほど遊びに来たとか。大学生の娘はスペイン人の彼氏と彼の田舎から、高校生の息子はパリからの留学生と自転車でハンブルクからパリへ旅をし、そこから電車で南仏に来たらしい。ほんと、ヨーロッパって常にインターナショナルだなあ。

さて、昨日の王宮は、昼間に見るとこんな感じ。ほんと、いろんな時代の建築様式が継ぎ接ぎされている。
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金ぴかのタマネギ。
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それにしても、ああ、カトリック。
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それもそのはず、ここは、このお方で有名。右の写真の方、わかります?
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こちらの写真ならわかりやすいかしら。
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前ローマ法王、ヨハネ・パウロ2世は、法王になる前、ここクラクフの司教だった。生まれもクラクフから50キロ程度の近郊の町だとか。町のあちこちで彼の写真が飾られていて、展覧会も開かれていたようだった。


でも、お土産やさんには・・・
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イコンがいっぱい。ここらへんはロシアの影響か。
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そんなクラクフのシンボル、聖マリア教会。
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町のあちこちから見える。
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旧市庁舎の時計台からも。
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その聖マリア教会では、クラクフが13世紀頃モンゴルの急襲を受けた際、ラッパでその襲来を知らしめたのだが、それをHejnał(たぶん、ヘイナウと読むんじゃないかなあ・・・)という。そのラッパ奏者はモンゴル人に射殺され(50メートル以上もある高いところまで弓矢で射貫くなんて、モンゴル人はすごい技術だったのね・・・)、ラッパの音が途中で途切れた。そのことを偲んで14世紀からずっと、今も、塔の上の窓からトランペットで毎定時Hejnałが奏でられ、途中で途切れる。
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それを撮る人々♪ 
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こちらにその音色を撮ったビデオを見つけたので、ぜひ一度どうぞ。


中は豪華絢爛。
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戦争でも、ナチス本部があったため爆撃されずに残ったのだとか。でも、普通、本部があると真っ先に爆撃されそうな気がするんだけど・・・・??残って本当によかったですねえ。
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この祭壇は国宝で、15世紀のファイト・シュトース(Veit Stoß)の作品。ファイト・シュトースはポーランドではヴィオット・ストウオシ(Wit Stwosz)と呼ばれている。ドイツのネッカー川沿いの村で生まれ、ニュルンベルクで亡くなった彼は、1477年から1496年までクラクフで仕事していたそうだ。
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ドイツやハプスブルクの影響を色濃く受け、モンゴルやロシアにも常に影響を受け続けたクラクフ。800年も前からずーっとずーっとインターナショナルな町。それを一本に束ねたのは、ずーっとずーっとカトリック。明日はそんな町の、現代の人々の様子を。
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