ザルツブルク音楽祭の幕開け [2024年ザルツブルク]
今日は今年2024年の夏のザルツブルク音楽祭のお話を。
この夏、一人で幕開けのコンサートを聞きに行っためぎ。その話はこちらやこちらなどに書いたが、今日は特にこちらに言及したどうしても見たかったこけら落としのコンサートのお話。こけら落としと言っても新しい会場ができたのではなく、音楽祭の開幕コンサートという意味。時間になっていつものこの場所へ。
↑上の写真だけでも色々書きたいことが浮かぶ。右手前はザルツブルクの祝祭大劇場。この日の公演はその奥のモーツァルトのための劇場が会場なので、手前は閉まっている。銀色のカバーがかかっている机は、祝祭大劇場の方で公演があるときにプログラム売りなどに使われる。公演の演目が書かれたポスターが張られているが、オペラや演劇が初日を迎えると、そのポスターがその演目の写真に変わる。この日はまだ初日だから、全て写真無しのポスターのままだ。
会場に到着。真ん中から右側がこの日の観客たち。この日はコンサートなので、皆さんの恰好もそれほどゴージャスではない。左側の人たちは野次馬。
これは前に載せた写真だが、席から始まる前に撮ったもの。
この席を取るのが大変だった…まず、この演目に関しては、めぎは最初のチケット割り当て戦で負けてしまった。つまり、申し込んだけどチケットが取れなかったのだ。売り切れで買えない状態が4か月ほど続き、開幕2週間前になって突然立見席が売られた。めぎは当然それを買った。その数日後、今度はキャンセル席が売られ始めた。できれば座りたかっためぎは、後ろの方の席をゲット。そのまた数日後、1階席(日本で言えば2階)の側面席でオーケストラに近く、指揮者もよく見える↓この席が売られたので、それをゲットし、その前に買った2席はオフィシャルサイトで転売申請。人気の演目なのであっという間に買い手もつき、めぎはこのアングルで前に人もいなくて邪魔もなくコンサートを満喫することができた。ブレブレだけど説明として写真を載せる。
演目はバッハ作曲の「マタイ受難曲」。華やかな音楽祭の幕開けの曲としては全然ふさわしくない曲だ。今年の音楽祭のテーマは「天国と地獄の狭間」で、今の理不尽な戦争を意識したものであるため、この曲が選ばれたのだろう。聞いてみたい方は例えばこちらをどうぞ。今は女性のソプラノを使うことが多いが、この録音では少年が歌っているのが素敵。
聴きごたえのある素晴らしい曲だが、チケットが売り切れだったのはこの曲が人気だからというわけではない。指揮者がクルレンツィスだからである。反プーチンを表明せず沈黙し、ロシアでの活動も続けている彼については、戦争が始まって以来西側でコンサート活動をさせることに反対する声がずっと少なからずあって、いつももめている。ザルツブルク音楽祭の幕開けのしかもマタイ受難曲を彼が指揮するというのは、音楽祭事務局も随分思い切っている。明確な立場表明、メッセージであろう。そこにはアンチもファンも批評家も報道陣もみんな来るのだから、売り切れが当然なのだ。
下手すると暴動が起きたりするかもしれないな…と思っていたが、始まる前にデモはなかったし、幕間休憩中もいたって普通で静かだった。聞きに来ている人も、もちろんファンがいっぱいいるのだが、コアなクルレンツィスファンより音楽祭の幕開けを楽しみに集まった地元ファンが多いように感じた。
終わってから拍手を浴びる歌手たちと合唱団とクルレンツィス。
演奏は、古楽器の音色も素晴らしいし、技術的には最高だ。古楽器の音なのに斬新で、演奏はこれ以上ないぐらい真剣で、刹那的で、心の琴線に触れる。時折クルレンツィスらしい演出が入るのが(例えばバッハの楽譜には無い鐘の音が入るなど)なくてもいいのになあと思わないでもなかったが、非常に劇的でかつ我が身につまされるような感じに仕上がった演奏で、バッハはこういう風にキリストの受難を伝えたかったのかもしれないなと思わせるものだった。なんと言うか、遠い過去を舞台にした伝説なのにキリストの受難は過去の話ではなく、現代の受難にも通じるような、現代の自分の中に蘇るような演奏なのだ。バッハだってキリストの受難を我々と同様に遠い過去の話として読んだのだから、作曲に際しその物語そのものを描くだけでなく、バッハが生きている時代当時の色々な苦しみや悲しみに通じるような作品にしたのかもしれない。作品をそんな風に感じられるような指揮をするクルレンツィス(真ん中の人)が、めぎはやっぱり大好き。
この日、特にクルレンツィスの左にいる↑テノールのエヴァンゲリスト(福音史家、つまりマタイ)の役のJulian Prégardien(ユリアン・プレガルディアン)の歌と声が非常に印象に残った。この人が今年はドン・ジョヴァンニのドン・オッターヴィオの役をするので、凄く楽しみになった。
また、クルレンツィスが西側で音楽活動をするために組織したユートピアというオーケストラの演奏も素晴らしかった。クルレンツィスの元で演奏したいという音楽家の集まりだから、質はもちろん息がぴったり、指揮者の思うがまま。合唱団も同様。ロシアに置いてきてある彼のムジカエテルナのことが気になるけど、ファゴットなどムジカエテルナにも属している(いた)団員も見かけた。
コンサートの概要と公式写真はこちら。演奏が終わるとクルレンツィスは礼をせず振り返りもせずにまずササッと舞台袖へ引き上げた。マタイ受難曲ならではの演出と言うか、キリストが受難して終わるような曲で拍手は合わないと言えばそうだし、この曲でこの状況で自分が喝さいを浴びるべきではないというようなメッセージにも感じた。割れるような拍手喝さいの中、クルレンツィスは1度ステージに戻ってきて写真のようにソロ歌手たちと手を繋いでお辞儀をし、花束をもらい、オーケストラを立ち上がらせて拍手を浴び、その後みんなに引き上げるようにという指示の身振りをして引っ込み、もう出てこなかった。感動している観客たちは数回のカーテンコールを期待してたのに拍手したりないような宙ぶらりんな気分になったが、それもまた演出と言えば演出だし、クルレンツィスらしいと言えばまたそうだし、その点に関してはどこにも書かれていないのでどういう意図だったのか分からないし確かめる術もない。このコンサートはラジオでもテレビでも放送がなかったし、この舞台一回限りの夢の幻だ。素晴らしい演奏だったのになんて勿体ないんだろうと思うが、それもまた彼の意図なのかもしれない。まあ今は、ロシアとの戦争があるので、クルレンツィスのコンサートにはスポンサーがつかないのだろうと思うけど。テレビ局だって、彼のコンサートを放送したら、非難囂々浴びそうだものなぁ…
ああ来てよかった。席が取れてよかった。めぎはこうして大満足で宿に戻る。今年のザルツブルクではクルレンツィスの演奏をドン・ジョヴァンニでも聴けるが、コンサートはこれだけ。だからめぎはたったこの一曲のために7月にザルツブルクへ行ったのだ。この次の日にはミュンヘンに移動し、うちのドイツ人と落ち合うことになる。
書き残したこと、ないかな…写真を撮った時点でこんなことを書こうと考えてあるのだが、書き留めてはいないので忘れたこともあるかも。音楽祭の続きの話はまたいずれ。
この夏、一人で幕開けのコンサートを聞きに行っためぎ。その話はこちらやこちらなどに書いたが、今日は特にこちらに言及したどうしても見たかったこけら落としのコンサートのお話。こけら落としと言っても新しい会場ができたのではなく、音楽祭の開幕コンサートという意味。時間になっていつものこの場所へ。
↑上の写真だけでも色々書きたいことが浮かぶ。右手前はザルツブルクの祝祭大劇場。この日の公演はその奥のモーツァルトのための劇場が会場なので、手前は閉まっている。銀色のカバーがかかっている机は、祝祭大劇場の方で公演があるときにプログラム売りなどに使われる。公演の演目が書かれたポスターが張られているが、オペラや演劇が初日を迎えると、そのポスターがその演目の写真に変わる。この日はまだ初日だから、全て写真無しのポスターのままだ。
会場に到着。真ん中から右側がこの日の観客たち。この日はコンサートなので、皆さんの恰好もそれほどゴージャスではない。左側の人たちは野次馬。
これは前に載せた写真だが、席から始まる前に撮ったもの。
この席を取るのが大変だった…まず、この演目に関しては、めぎは最初のチケット割り当て戦で負けてしまった。つまり、申し込んだけどチケットが取れなかったのだ。売り切れで買えない状態が4か月ほど続き、開幕2週間前になって突然立見席が売られた。めぎは当然それを買った。その数日後、今度はキャンセル席が売られ始めた。できれば座りたかっためぎは、後ろの方の席をゲット。そのまた数日後、1階席(日本で言えば2階)の側面席でオーケストラに近く、指揮者もよく見える↓この席が売られたので、それをゲットし、その前に買った2席はオフィシャルサイトで転売申請。人気の演目なのであっという間に買い手もつき、めぎはこのアングルで前に人もいなくて邪魔もなくコンサートを満喫することができた。ブレブレだけど説明として写真を載せる。
演目はバッハ作曲の「マタイ受難曲」。華やかな音楽祭の幕開けの曲としては全然ふさわしくない曲だ。今年の音楽祭のテーマは「天国と地獄の狭間」で、今の理不尽な戦争を意識したものであるため、この曲が選ばれたのだろう。聞いてみたい方は例えばこちらをどうぞ。今は女性のソプラノを使うことが多いが、この録音では少年が歌っているのが素敵。
聴きごたえのある素晴らしい曲だが、チケットが売り切れだったのはこの曲が人気だからというわけではない。指揮者がクルレンツィスだからである。反プーチンを表明せず沈黙し、ロシアでの活動も続けている彼については、戦争が始まって以来西側でコンサート活動をさせることに反対する声がずっと少なからずあって、いつももめている。ザルツブルク音楽祭の幕開けのしかもマタイ受難曲を彼が指揮するというのは、音楽祭事務局も随分思い切っている。明確な立場表明、メッセージであろう。そこにはアンチもファンも批評家も報道陣もみんな来るのだから、売り切れが当然なのだ。
下手すると暴動が起きたりするかもしれないな…と思っていたが、始まる前にデモはなかったし、幕間休憩中もいたって普通で静かだった。聞きに来ている人も、もちろんファンがいっぱいいるのだが、コアなクルレンツィスファンより音楽祭の幕開けを楽しみに集まった地元ファンが多いように感じた。
終わってから拍手を浴びる歌手たちと合唱団とクルレンツィス。
演奏は、古楽器の音色も素晴らしいし、技術的には最高だ。古楽器の音なのに斬新で、演奏はこれ以上ないぐらい真剣で、刹那的で、心の琴線に触れる。時折クルレンツィスらしい演出が入るのが(例えばバッハの楽譜には無い鐘の音が入るなど)なくてもいいのになあと思わないでもなかったが、非常に劇的でかつ我が身につまされるような感じに仕上がった演奏で、バッハはこういう風にキリストの受難を伝えたかったのかもしれないなと思わせるものだった。なんと言うか、遠い過去を舞台にした伝説なのにキリストの受難は過去の話ではなく、現代の受難にも通じるような、現代の自分の中に蘇るような演奏なのだ。バッハだってキリストの受難を我々と同様に遠い過去の話として読んだのだから、作曲に際しその物語そのものを描くだけでなく、バッハが生きている時代当時の色々な苦しみや悲しみに通じるような作品にしたのかもしれない。作品をそんな風に感じられるような指揮をするクルレンツィス(真ん中の人)が、めぎはやっぱり大好き。
この日、特にクルレンツィスの左にいる↑テノールのエヴァンゲリスト(福音史家、つまりマタイ)の役のJulian Prégardien(ユリアン・プレガルディアン)の歌と声が非常に印象に残った。この人が今年はドン・ジョヴァンニのドン・オッターヴィオの役をするので、凄く楽しみになった。
また、クルレンツィスが西側で音楽活動をするために組織したユートピアというオーケストラの演奏も素晴らしかった。クルレンツィスの元で演奏したいという音楽家の集まりだから、質はもちろん息がぴったり、指揮者の思うがまま。合唱団も同様。ロシアに置いてきてある彼のムジカエテルナのことが気になるけど、ファゴットなどムジカエテルナにも属している(いた)団員も見かけた。
コンサートの概要と公式写真はこちら。演奏が終わるとクルレンツィスは礼をせず振り返りもせずにまずササッと舞台袖へ引き上げた。マタイ受難曲ならではの演出と言うか、キリストが受難して終わるような曲で拍手は合わないと言えばそうだし、この曲でこの状況で自分が喝さいを浴びるべきではないというようなメッセージにも感じた。割れるような拍手喝さいの中、クルレンツィスは1度ステージに戻ってきて写真のようにソロ歌手たちと手を繋いでお辞儀をし、花束をもらい、オーケストラを立ち上がらせて拍手を浴び、その後みんなに引き上げるようにという指示の身振りをして引っ込み、もう出てこなかった。感動している観客たちは数回のカーテンコールを期待してたのに拍手したりないような宙ぶらりんな気分になったが、それもまた演出と言えば演出だし、クルレンツィスらしいと言えばまたそうだし、その点に関してはどこにも書かれていないのでどういう意図だったのか分からないし確かめる術もない。このコンサートはラジオでもテレビでも放送がなかったし、この舞台一回限りの夢の幻だ。素晴らしい演奏だったのになんて勿体ないんだろうと思うが、それもまた彼の意図なのかもしれない。まあ今は、ロシアとの戦争があるので、クルレンツィスのコンサートにはスポンサーがつかないのだろうと思うけど。テレビ局だって、彼のコンサートを放送したら、非難囂々浴びそうだものなぁ…
ああ来てよかった。席が取れてよかった。めぎはこうして大満足で宿に戻る。今年のザルツブルクではクルレンツィスの演奏をドン・ジョヴァンニでも聴けるが、コンサートはこれだけ。だからめぎはたったこの一曲のために7月にザルツブルクへ行ったのだ。この次の日にはミュンヘンに移動し、うちのドイツ人と落ち合うことになる。
書き残したこと、ないかな…写真を撮った時点でこんなことを書こうと考えてあるのだが、書き留めてはいないので忘れたこともあるかも。音楽祭の続きの話はまたいずれ。