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東西の分断と家族の分断 [ザクセン&ザクセン・アンハルト]

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現在、今年の夏旅の話を連載中。ドイツ東部に住むうちのドイツ人の叔父を訪ねているところ。

昨日載せた写真だが、まずはビールでウエルカム。
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このあと白ワインを4人で2本開けたのだが、写真は撮っていない。

最初に出てきたのは、ポテトサラダ。
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茹でたウィンナーと共にいただく。この手のウィンナーはWiener(ヴィーナー)といい、ウィーンのソーセージで、まさに元祖ウィンナー。焼かずに茹でて食べる。
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さて、↑このポテトサラダだが、ザクセン・アンハルト風。ザクセン・アンハルトというのはドイツ東部の州の一つで、簡単に言えばドイツ東部風というべきか。作り方は、まずメークイン系の茹でても崩れないタイプのジャガイモを皮付きのまま茹で(茹でるときに塩とクミンを入れるのがポイント)、茹で上がったら熱いうちに皮を剥いて一口大に切り、熱いうちに他の具と混ぜ、味付けすることである。味付けはハムか肉のマヨネーズサラダとピクルスの付け汁と塩・胡椒とケイパーというグリーンピースより少し小さめの緑色の蕾のピクルス。叔父のうちの場合、他の具はハムとケイパーとコーンとゆで卵だった。ケイパーの味が利いているのが特徴である。

メインは鶏の胸肉のグリル。この黄色っぽい味付けが何かは不明。ものすごく塩が利いていた・・・ちなみにこの鶏の時は付け合わせは無し。ビールとワインで舌の麻痺を中和しつついただいた。
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このようなシンプルなおもてなしを受けつつ、デザートに写してないけど平べったいタイプの桃をいただきながら(これは美味しかった)、白ワインを片手にたくさんのお喋り。と言ってもほとんどうちのドイツ人が何か尋ねて叔父が答えようとして、そこに奥さんが話を遮ってたくさんたくさん別の話を付け加えるという感じだったが・・・東ドイツ時代のこと、東西統一してからのことなど、あれこれと。
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先日もちらりと書いたが、うちのドイツ人の父親はもともとはデッサウの生まれで、つまりドイツ東部の出身だったのだが、戦後まもなくドイツが東西に分断した頃、両親が離婚し、父親はその父親と共に・・・つまりうちのドイツ人の祖父が一番上の息子であるうちのドイツ人の父親のみを連れて家を出て・・・西側に逃れた(分断当初はまだ国境全てが閉鎖されていた訳ではなく、逃れる道があったようだ)。そのときうちのドイツ人の父親は15~6歳で、一番下の叔父は5~6歳。間にもう二人兄弟がいて、女の子が13歳くらい、男の子が10歳くらいだったとか。なぜそのとき長男のうちのドイツ人の父親だけが母親の元を離れて父親と共に家を出たのかは不明。とにかくそのため、父親は西ドイツ人となり、叔父は東ドイツ人となり、兄弟生き別れだったのである。

東西分裂時代に二度、父親がうちのドイツ人を連れて東ドイツの兄弟を訪ねたことがあるそうだ。一度目は今回会った叔父の家を訪ね、当時、叔父の家には西側から来た人を見に近所の人が訪れたとか。二度目はロストックという町へリューベックから船で出かけ、そこでもう二人の妹弟と落ち合ったとか。と言っても80年代になってからようやく実現したらしいが。うちのドイツ人たちは入国やらビザやらにお金を払い、叔父たちの方は西側の人間の受け入れのために警察に行ったりして手続きにあれこれ大変な準備をしたらしい。当時は、西ドイツ人は東ドイツを訪ねてまた西へ帰宅することが出来たのだが、東ドイツ人は一緒に西へ行くことが適わない時代だった。

このような国の分断に、離婚して長男のみを連れて家を出て行ったという家庭の事情も絡み、うちのドイツ人の父親と叔父の関係は二重に遠い存在となっていたようである。そんな過去があるので、話は多少慎重に、しかし家族の歴史など聞きたいことがたくさんあって、時はあっという間に過ぎていった。一番下の叔父には分からないことも多く、また旧東時代にうやむやになったことも多く、分からないままのことも多々あったが、いくつかの情報はうちのドイツ人に有用だったようである。
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めぎの受けた印象を簡単にまとめると・・・彼らは、基本的に、東ドイツ時代を懐かしんでいるようだった。統一した所為であれもこれもこんなに高くなって・・・とずいぶんこぼしていた(西側でも同じくあれもこれも高くなっていて、これは単なる物価の上昇なのだが、東側はそれを統一の所為にするのだろう)。一方で、バスツアーなどに参加して、フランスなどに旅に出ることが出来る楽しみも享受しているようだった。しかしヨーロッパ以外の国、例えば日本などには全く関心が無く、めぎのような外国人は難民と同じような位置づけであった。奥さんの言葉を借りれば、日本人は今のところテロを起こしたりしてないようだからまあいいけどね、他の難民はちょっとねぇ・・・という言い方である。一般のドイツ人の日本認識度というのは、結局のところこんなものなんだろうな、ということをつくづく感じさせられた。それはザルツブルクでも同様で、今回ザルツブルクの新聞で、日本人と中国人と韓国人とアラブ人とインド人などの観光客を一緒くたに扱った記事を見つけた。その記事では、上記の非西洋からきた観光客たちは西洋とは全く異文化の全く異質な人間で、我々西洋人は彼らをどう扱ったらいいのか、ということが書かれていたのだった。

まあそんな感じなので、めぎは多少居心地悪かったし、コスモポリタンのうちのドイツ人は腹立ちを抑えつつ話をしてて、最後はなんとなく、もうこれ以上話しているとケンカしちゃいそうだからお開きにして寝ましょう、という締めくくりとなった。
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次の日の朝は8時頃起き、昨日の議論は忘れて仕切り直し。
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トマトは庭で穫れたものだとか。
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東ドイツ時代からずっと愛用しているという道具。
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この砂糖つかみをはじめ、東ドイツのものはよかった、という話をたくさん聞いた。
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統一後25年以上経っても今も続く東西分裂の後遺症というか、今も分厚く聳える壁の存在を強く感じた一日であった。

撮影: D600 + 20mm(F1.8)
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Baldhead1010

今の時代でも、黒人や黄色人種に対して白人が持つ優越感や差別意識ははっきりとわかります。
これはDNAにすり込まれた要素だからどうしようもありません。
by Baldhead1010 (2016-08-13 04:48) 

stellaria

深々と考えさせられました。東西に分断されるのがどういう経験だったのかとか、それがもたらした影響の大きさとか…。東西に分断されたことで、同じ国内で離婚して分かれて生活している家族よりも、はるかに大きな距離ができてしまったのではないかと感じました。
by stellaria (2016-08-13 05:48) 

engrid

かなり複雑な思いです
そうなんだと、、、でもこれだけメディアも発達し
世界中駆けまわっているのに、、なぜかしらと
頑迷、、認めたくないのかな、とか、、
by engrid (2016-08-13 07:13) 

ナツパパ

ポテトサラダって地域によって違うのですね。
マヨネーズを使った北ドイツ風も、でも実に美味しそうです。
その後家庭で、食べ慣れた味わいなんだろうなあ。
ポテトサラダにレシピ、ご翻訳いただきありがとうございました。
わたしが独和辞典片手にした訳文では、思い違いそして誤訳が
多々あり、めぎさんに訳していただいて本当に良かったです。
夏の間に、レシピを使って試作を始めたく...楽しみです!!

東西に分かれて統一まで45年でしたか...長い年月ですよね。
その間、東ドイツは東側では優等生でしたから、国内的にはその体制下で、
不便のない日常を送っていた人々も多かったのでしょうか。
それが一度に変えられるのは辛かっただろうなあ。
by ナツパパ (2016-08-13 08:59) 

テリー

人種、宗教に対する偏見・差別意識は、当然あるのでしょうね。
40数年前に、ドイツを旅行したとき、第二次大戦で、ドイツと日本は軍事同盟を結んでいて最後まで戦ったから、
日本人に対して、友好的だという話もありました。その頃は、田舎を旅行しても、フレンドリーな感じはしました。
時代が変わって、ドイツ人にとって、必ずしも、思うほど、暮らし向きがよくなっていないと、誰かを差別したくなるのも、理解できます。
移民とか、アジア人とか、自分たちと皮膚の色が違うとか、宗教が違うと言うことで、やり玉に挙げたいのでしょうね。
by テリー (2016-08-13 18:51) 

YAP

日本人には想像の域を出ないんですが、東西の分断と統一にまつわるあれこれは、統一後しか知らない世代に完全に入れ替わるまでは続くんでしょうね。
旧東圏は、以前は情報も少なかったでしょうし、日本人を含む外国人、というか非欧州人に対する印象なんて、そんな感じなんでしょうね。
by YAP (2016-08-13 20:56) 

Inatimy

何が起こったか、それは唯一のことなのに、
西と東では見え方が異なるんでしょうね。
目に映るありのままの物事に、人々の暮らしの背景にあるものや、
そのひとたちが背負っているものがプラスされていって、
全く違う脚色になり得るのかも・・・。

by Inatimy (2016-08-13 22:34)